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最近のスケッチ (まだ未整理のものです)

更新がなかなか進みません

台風一過の快晴!

今回の「令和元年台風第19号」は関東地方直撃で多くの被害をもたらした。
台風の通過直後は被害が大きかったのだろう、情報も集まらず報道されない。そうとは知らず安堵して、以下ピント外れのコメントです。お許し下さい。

10月12日(土)は朝から報道が騒がしい・・・気象台観測以来の最大級台風が関東地方を直撃、上陸だという。そのため鉄道を初めとする交通機関は朝から運行取りやめ。大雨土砂災害の警戒でテレビ・ラジオが慌ただしい。そして東京には夜中に上陸したが真夜中になるとピタリと雨も風も止み・・・なんだこれは?
そして翌朝を迎えるが空は見事な日本晴れ。だが報道は被害をほとんど伝えることなく、JRを初めとする鉄道の運行は計画運休だからか、復帰してない報道のみ。しかし地下鉄・バスは問題がなさそう。都心の被害は意外に少なかった・・・と信じた!
 台風一過の日曜日、当日は16回目を迎える《お茶の水日本一のスケッチ大会》の日。バスや地下鉄は動いていることだし、情報のない状態でも快晴の天気に誘われるように出かけた。

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神田明神の楼門(随神門) 2019.10.13 鉛筆・パステル

 東京は江戸の時代から水害との戦いの都。我が家の近くを流れる妙正寺川・神田川はちょっと雨が降ると溢れ、冠水することが度々の地域だった。それが最近の土木事業の成果でか?溢れることがない!今回の強烈な台風でも普段と変わらぬ川の流れであった。この環境が都心の人々の自然に対する感覚を鈍くさせているのではないだろうか?
その鈍感さで、交通の便利さもありノコノコスケッチ会に出かけたのだ!

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神田明神の本殿 2019.10.13 鉛筆・パステル

「日本一」とうたうスケッチ会のこと、参加者は都心の方々だけではない。当然スケッチ会は中止だ。
一年ぶりのお茶の水だからちょっと歩いてみよう。湯島聖堂の北側に鎮座する「神田明神」に向かって歩を進めると聖堂脇の歩道には、いちょうの実が昨晩の台風でいっぱい散乱!しかも大雨できれいに種が磨かれて拾い放題!一昨日の入間川散歩に続き沢山ゲット!
目的地の神田明神は台風後の好天気で青空と朱色が映える。人影は少なくても外人観光客は大勢で賑わっていた。次回スケッチ会の場所はないか・・・いいところ見つけた!

関連記事:きまぐれスケッチ「HP」>きまぐれ「街」>駿河台>神田明神


万歩計17,000歩のご褒美!

希な大型台風が関東地方に直撃すると連日の報道アナウンス。その前触れか久方の快晴。この日は朝から合唱練習、夜の練習までタップリある時間を有効利用して入間川伝いで一駅分歩いた。

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飯能河原渓谷の断崖絶壁に建つブルワリーレストラン 2019.10.10 鉛筆・パステル

 時々練習場となる飯能市東南端の公民館から飯能河原までは直線距離にして4Km程? 迂回して流れる入間川に沿って歩くからその倍はあろうか。

 川岸は夏も終わり秋を目の前にする状態で、彼岸花は咲き誇る時期は過ぎ、クサフジが雑草に絡みながらいたるところで咲いている。
 銀杏のもとでは前日の大雨と強風で沢山の実が落ちているだけでなく、見事に果実の部分がきれいに洗われ、種の部分が白くきれいに光っている! 採取すると必ずかぶれる銀杏・・・医者にも留められているのに枝を手折って箸にして拾うなら構わないだろうと、一心不乱に木の実を採取する縄文人と化した。 そうこうするうち目標の飯能河原近くになり、喫茶店で知った情報「自家製ビールが飲める店」があると云うこと! それ、直撃!!
 思いもよらない場所にその店はあった。だだっ広い飯能河原から流れは狭い渓谷に変わるその絶壁に建ってるのだ! ここからはビールの深掘りなので興味のない方はパスしてください。

 最近、地方で見受ける地ビールは上面発酵のエールタイプがほとんどで私の好きなもの。
“とりあえずビール・・・”と言って呑む普段のビールは下面発酵のラガータイプ。
                              (もちろんこちらも好き)
下面発酵のものは日本の風土では施設に費用がかかるので小規模で作るには上面発泡の酵母を利用するものがほとんどである。一例としてベルギーでの修道院で作られる多くの種類のものはこの上面発酵タイプ。 片やこのブルワリー(ビール工房)では両タイプのものを作っていた。さらにはホップも地元産とは! 栽培している山間部(具体的には南高麗)と云えども本来のホップ産地と比べたら温暖すぎてどうか?とも思うが、その拘りがうれしい!
 ・・・と云うわけで、アラビアンライム・エール(Arabian Lime Ale)をチョイス、楽しんだ。

このビールの店の案内は以下の通り


ペールモルトのしっかりしたボディを感じさせる芳醇な味わいに、エジプト産ライムピールが爽やかに香るエールタイプのビールです。
ABV:5.0% IBU:20.1
[使用ホップ] Kent Golding, Mosaic (一部飯能産ホップを使用)
(註)
ABV;「Alcohol By Volume」の略称、つまりアルコールの度数を示す数値
IBU; 「International Bitterness Units」の略称、ビールの苦味を測る単位


軽井沢の大賀ホール
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曇天の大賀ホール 2019.07.29 鉛筆・水彩

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快晴の大賀ホール 2019.07.30 鉛筆・水彩

今回の軽井沢行きはいろいろな手違い(たんなる寝坊)があったので昼前の軽井沢駅で時間がタップリ・・・さあどうしよう・・・
そこで有意義に過ごすために駅のすぐ近くにある矢ヶ崎公園を散歩することにした。天気はあいにくの空模様だが前回訪れた秋の大賀ホールとはうってかわってミドサマー突入の避暑地のこと。しかし小雨交じりの天気で水彩は流れてしまいこの日はこれで撤収。
今回の軽井沢行きは東京での合唱練習の合間なのでとんぼ返りとなったが、翌日は好天気。さっそく帰京前の軽井沢駅で迷わず大賀ホールに直行。案の定ホールは使用中だったので館内には入れた。案内板が掲載されていたのでそれを元に平面図をまとめてみたのが左図。
演奏会場は使用中なので遠慮したが、エントランス・ロビ−・ホールの概要は実感できた。
水面に近く開放的なロビーは自然な動線と相まって魅力的。演奏ホールへは階段なしで自由に入れ、五角形のバルコニーが平土間のホールを取り囲む形。コンパクトで魅力的な演奏会場となっているが非常に閉鎖的な空間と想像する。それを天窓が打破する役を担っているのか? 中に入らないでの戯言である。


飯能河原の春

この日は午前中一杯、合唱講習会の行われる日。
夜は合唱練習があるため一旦帰宅するよりは、意外と知らなかったこの時期の飯能河原で時間を弄ぶことにした。
天気は快晴、気温が上がると飯能河原の水面から水蒸気が立ち上がるのだろうか?茫茫とした風景。山の木々は新芽が芽吹き、桜もそれに合わせて咲き始め、デッキで転た寝・・・

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 2019.07.30 鉛筆・パステル

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 2019.07.30 鉛筆・パステル


奈良・京都・・・ヒョッとしたら半世紀ぶり? の訪問

箱根の山は天下の劔・・・で、スケッチブックもなかなか越えられなかった(^_^)
しかしこの春、奈良の修二会という春の行事に出会うことがあった。有名な東大寺二月堂の夜中に篝火を持って駆け回る光景は2月で間に合わなかったが、3月は薬師寺での花会式の招待状を手にしたので行ってみた。

奈良・東大寺の正倉院

東大寺は有名だし、観光客で一杯! 避けるように裏(奥)に進む。

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正倉院 2019.03.29 鉛筆・パステル

ログハウスに興味があり、以前から一度は目にしてみたかった建物。正面からの遠望だが我慢がまん。

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正倉院 2019.03.29 鉛筆・透明水彩

外観だけで構造が全て把握できた!それほど明快な構造だということ!
それにしてもスケールの大きさには驚く・・・

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正倉院 2019.03.29 鉛筆

傍らの説明板による寸法を書き込む。
推測長さ10m、直径1m材を縦に六つに裂き、1段おおよそ一尺の高さで20段に積み上げた壁!
当然当時の敷地周辺はその様な巨木の森だったのだろう・・・

東大寺の奥に更に進む。
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東大寺を振り返る 2019.03.29 鉛筆・パステル

三笠山に連なる傾斜地を登る・・・・傍らに献花された墓石が・・・
更に続く

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見えてきた三笠山! 2019.03.29 鉛筆・パステル

山腹の寺は二月堂・・・

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 2019.03.29 鉛筆・透明水彩

垣根が邪魔なので、取り除いてもう一枚・・・

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 2019.03.29 鉛筆・パステル

二月堂を正面にして腰を据える。

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 2019.03.29 鉛筆・透明水彩

水彩で再チャレンジ!

この調子ではここだけで一日が終わってしまう・・・
彩色も程々に前に進もう

あとで知ったことだが、この気持ちのいい道は「二月堂裏参道」というらしい・・・

二月堂

二月堂の長い階段の回廊につながる建物(二月堂参籠所)を通り抜けて見上げると・・・

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 2019.03.29 鉛筆・パステル

二月堂の篝火をかざして走り廻るおなじみのシーンは夜のこと。昼間に見上げるこの場所からは建物を天空に持ち上げる床下の木組みがダイナミックで見事!

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 2019.03.29 鉛筆・透明水彩

 

斜面は入口の参籠所(さんろうじょ)に迫り、狭い隙間に背を建物に腰を下ろして一枚。

法華堂 (三月堂)

二月・三月という名称が不思議で調べてみたら、毎年行われる修二会が、旧暦二月に行われる二月堂、それに対して三月におこなわれるこの法華堂が三月堂と呼ばれる理由とか。

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二月堂と並ぶ三月堂 2019.03.29 鉛筆・パステル

 ここまで来てこの境内全て東大寺だと知り、いかに大きな寺なのか!足の疲れで体感した。
東大寺はたびたびの焼き討ちなどで焼失して度々復興しているが、この二月堂が一番古い建物とか?
中学生時代の修学旅行の知識では確か右半分は鎌倉時代に増築されたと記憶しているが今となっては確信なし。

法華堂経庫
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背景は法華堂(三月堂) 2019.03.29 鉛筆・パステル

丸太組構造に興味があり、思わずこの小屋に注目!
傍らの説明板によると、この校倉は江戸初期まで正倉院宝庫の地にあったものを現在の地に移設されたと推定されている。この経庫は元来、手向山八幡宮の宝蔵として移築されたが、明治初年の神仏分離の際、東大寺に帰属、法華堂とは無関係なので法華堂には背を向けているという・・・その時点で解体・組立という手順を踏んで再構築したのだろうか?

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 2019.03.29 鉛筆・パステル

正倉院の倉と違って間近に見られて詳細がよく把握できるのがうれしい!

三笠山

別名「若草山」ともよばれるが、どちらが正式名称かはわからない。
山全体が草(芝?)で覆われ、樹木のない山なので若草山が正しいのか? 山麓から頂上に三重に重なった形からか?・・・どちらでも良いか・・・

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 2019.03.29 鉛筆・パステル

街中の鹿の後片付けに忙しい市の職員を見ると、鹿にとっての居場所はどこ?と思っていた。それがこの周辺なのだろうか?

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 2019.03.29 鉛筆・パステル

生き物はポーズをとってくれないから・・・描くのが難しい。
夕焼け小焼け・・・日も暮れたので宿に戻りましょ。


馬酔木のこと

三笠山から東大寺に戻る道すがら、刈り込みされず自由奔放に育ち、枝もたわわに花を付けた姿が目につく「馬酔木」! どうしてこんなにあるの?

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興福寺・中金堂を背に夕陽を浴びる馬酔木 2019.03.29 鉛筆・水彩

馬酔木(あせび・あしび)は毒を持つそうで、動物はその事を御存知。当然この地の鹿も餌としては避けてその他の植物は喰い漁る。必然的にこの馬酔木だけは伸び放題ということのようだ。

興福寺

この寺はなつかしい・・・はるか半世紀、否それ以上の年月が経っての再訪である!

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猿沢池と興福寺 2019.03.30 鉛筆・水彩

懐かしいというわけは中学生時代の修学旅行に来てからだということが理由。
当時の思い出といっても就寝時の枕投げぐらいで、ほとんど忘れてしまっているが、この猿沢池だけはよく覚えている・・・だが、当時の周辺は荒れ放題でこの池もたんなる溜め池程度の感覚である。

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興福寺への大階段 2019.03.30 鉛筆・水彩

当時の旅館を思い出しながら探してみたが、当然現代風に様変わり! モダーンなホテルに変貌していた。(この右側の建物かな?)
しかしこの大きな階段! 記憶では興福寺境内全体が荒れ地で、そのまま猿沢池にダラダラとした坂で、接していた記憶がある・・・

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東金堂と五重塔 2019.03.30 鉛筆・水彩

この寺の当時の印象は「廃寺」か? なにしろ周りの柵・門はなく、砂埃の舞う土の公園。中には腐りかけたこの二つの建物だけだったと記憶する。現在はこの建物を囲った柵で拝観料を払わないと近付けない・・・
しかし、この「東金堂」とはどうしたものか?・・・
その後、興福寺の歴史を調べてわかった! 奈良時代(710-784 天平時代)には四大寺、平安時代には七大寺に数えられ、大和国の荘園ほとんどを領し事実上の国主だったとは!
そのためか?度々の焼失と再建を繰り返し明治以降は公園となったという。その姿だったのだ!

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金堂と並ぶ高い五重塔 2019.03.30 鉛筆・水彩

京都東寺の五重塔に次ぐ高さはこの地のシンボル。かつての大伽藍を偲ばせるが・・・
左真横には昨年復元完成したという「中金堂」が異彩を放つ。絢爛豪華な往時の色彩で鎮座する姿は眩しくてスケッチを逃した!その眩しい「中金堂」を南北中心軸にして猿沢の直前?から「南大門」―「中門」―「中金堂」―「講堂」と一直線に並び、東の「東金堂」と対をなす西の「西金堂」その他の建物も計画されているという。
興福寺の仏像というと顔が三つ、手が六本の阿修羅像がまず浮かぶ。その他にどれほどの収納する仏があるのだろう? 残された仏像を収蔵するために、かつてあった「食堂[じきどう]」の上に鉄筋コンクリートの収納庫(国宝館)を建設、収納している。薬師寺の「東塔」から金堂─西塔─講堂─食堂と復興してきたことが刺激になって、箱物作りにご執心なのか? では、その薬師寺に廻ってみよう・・・

薬師寺は興福寺から見ると西に4kmほどで、HPに上げるまでに時間が掛かった(^_^)
春の奈良行きから桜は散り、あじさいも終わるとは・・・(冗談)

平城京について

ここで奈良の歴史を調べてみた。飛鳥時代の話は別の機会として、今回は京都に遷都されるまでの平城京についてである。都市の構成は一町を130mほどとし、4町を1単位として縦横に大路を配している。それをGoogleマップに落としてみた。

京都から奈良に向かう近鉄は奈良に近づくとかつての都市の遺構を横断して突っ走る! それが平城宮と朱雀門を復元したものだとあとで知った。
この復元マップで都市像が概ねつかめる。当時の国を司る天皇と中臣氏(後の藤原氏)一族が平城宮と丘陵に配置された春日神社としての見事さ!(藤原氏の高みから睨む構成には権力の実態をのぞかせる)
飛鳥時代からこの地に遷都し移されてきた四大寺(大安寺・元興寺・興福寺・薬師寺)と、新たに追加して建てられた三寺(東大寺・西大寺・唐招提寺)合わせて「南都七大寺」とした寺を当時の規模で書き込んでみた。これほどの規模の都市をたったの一世紀も保たずに平安京に遷都され、その後の七大寺は見るも無惨!絶大な権力が仇になりことごとく破壊されその後に復興されれば幸いという歴史が続いた。
特に興味あることは「元興寺(がんごうじ)」で、飛鳥時代に建立された日本最古の法興寺(現・飛鳥寺)が移転した寺院である。辛うじて残った建物は東大寺・西大寺等の末寺となり、17〜18haもある境内は尽く宅地化され「奈良町」と変わっている。戦災にも遭わない奈良だから貴重な民家の集積が今も残る興味ある地区となっている。

(参考:奈良文化財研究所/wikipedia)

唐招提寺

平城京の東から西に移動するのに時間が掛かった・・・(^_^)
なんのことはない近鉄奈良駅から「大和西大寺駅」乗り換えで「西の京駅」下車すれば目の前が薬師寺であるが、ひとつ手前の「尼ヶ辻駅」で下車、徒歩で途中の「唐招提寺」に向かった。

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正面に鎮座する金堂 2019.03.30 鉛筆・パステル

端正な金堂の姿! あとでこの寺を調べたら「金堂平成大修理」があったのだ。
(興味ある方はこの寺のHPによるYouTube公開があるのでこちらでご覧下さい)

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金堂と・・・ 2019.03.30 鉛筆・パステル

全体を見渡せる場所で・・・
左から、金堂、裏にある講堂、となりの鼓楼、それを囲む礼堂(らいどう)。

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鼓楼 2019.03.30 鉛筆・パステル

時を報ずる太鼓を懸けた楼。鐘楼と相対して金堂・講堂の左右に建ててあるが、楼門ではなく独立した建物であるところが古い形式なのか?

この謎が解けた。唐招提寺のHP(https://toshodaiji.jp/)によると「現在は鑑真和上将来の仏舎利を奉安しているため、「舎利殿(しゃりでん)」とも呼ばれています」とあった。「南都七大寺」に数え上げられるこの寺にはかつては東西に五重塔を配した名刹だったがその姿は消えてしまっている。その代役を担ってきたのがこの2階建ての鼓楼だったのか?

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鐘楼 2019.03.30 コンテ

鼓楼と対に配置されている鐘楼。釣り鐘の奥に見えるのが鼓楼と礼堂。右手に金堂、左手に講堂を配し、四つの建物により中庭が構成されるが、その中庭の意味するものは判らない。

今回の旅行の隠れた目的は東大寺正倉院の校倉造りを目にすること。それが法華堂(三月堂)経庫・に続きこの経堂も発見!

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礼堂の裏にあった経蔵 2019.03.30 コンテ

法華堂経庫は床を支持する柱間が二間に対してこの経堂は三間。校倉造りは原則的に積み上げられた横材一本の間に屋根を支持する柱は建てない。この小さな間口の建物に三間の柱はこの床の強度対策と推測する。これは何を物語っているのだろうか?

ここでまた唐招提寺HPで知識を得る。それによると

「唐招提寺創建以前のもので、新田部親王邸の米倉を改造したものといわれ、唐招提寺で最も古い建造物であり、日本最古の校倉です」

とある。そもそもこの寺は「多くの苦難の末、来日をはたされた鑑真大和上は、東大寺で5年を過ごした後、新田部親王の旧宅地(現在の奈良市五条町)を下賜されて、天平宝字3年(759)に戒律を学ぶ人たちのための修行の道場を開きました。」とうたっている寺である。
創建以前からの建物だったとは!

荷重のかかる米倉だったのだ!
東北地方で見られる「せいろ」と呼ばれる米倉の原点を見た気がした



唐招提寺に長居してしまった! 先を急ごう・・・



薬師寺

唐招提寺を出て南に奈良時代の尺度で二町(*)ほど南に行くと一里塚のような土の塊がある。そこからかつての薬師寺境内か?
今回の奈良行き、第一の目的地がこの薬師寺である。半世紀以上過ぎてしまったが、学生時代の修学旅行以来なのだ。当時は三重塔で知られている東塔だけの荒れ果てた境内だった。金堂は当然無く、仮設小屋に薬師三尊が土間に直置されている有様!訪問日が雨だったので土間の汚いこと・・・田好胤和尚の熱弁に感心させられた思いで詰まる寺だ。その和尚の活躍し、甲斐あって講堂の再建、西塔、直近には食堂までが再建されるという奇跡的な事業がなされた!
仏教寺院で春の法会を修二会というが東大寺では「お水取り」、薬師寺では「花会式」で知られているが、その招待状を偶々手に入れたので期待を持って境内に入った。

(*)町とは道路で区画する単位:当時の一町は130m程と考えられている

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日中の法要を知らせる鐘つき 2019.03.30 パステル

奈良時代から続けられているという華やかな法要「花会式」は一週間続き、この日は六日目の土曜日。
その日の昼間の法要を知らせる鐘の音だ。

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華麗な衣装を纏った僧侶達。後ろに続くのが10人の練行衆たち 2019.03.30 パステル

僧侶達が列をなして講堂に進んでいく・・・華やかな衣装!
10人の練行衆と呼ばれる僧侶が一日合計6回(初夜・半夜・後夜・晨朝・日中・日没)の法要を不眠不休で1週間続けるという。

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法要が行われる金堂 2019.03.30 パステル

金堂中央に鎮座する薬師三尊は造花で飾られ、囲むように僧侶達が祈願する。そのうち僧侶全員が薬師三尊を中心にして読経しながら構内を駆け回り、蓮の花びらにかたどった紙をまき散らす。(散華)
予想に反してダイナミック!男性的な体育系の祈願だ。勢い余って散華の一枚が私の手元に・・・ラッキー

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大講堂から見た金堂と東西の塔(東塔は工事中のため素屋根で覆われている) 2019.03.30 パステル

野点席では煎茶が振る舞われ、奉納演奏も行われた。
この日の演奏は左手の大講堂前で行われる飛鳥太鼓の勇壮なもの。

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大講堂前の演奏 2019.03.30 パステル

大講堂前は立派な野外ステージ。向かいの金堂と向かい合う大講堂の扉は全開して金堂の薬師如来へ激しいメッセージ!

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 2019.03.30 パステル

左右のシンバルが掛け合いで入るとかなり大陸的な趣。遣唐使で花開いた天平文化の真骨頂か?
最終日(明日)の日没には「鬼追い式」で終了するが、金堂前に作られた仮設ステージに大きな松明の前に鬼が現れ毘沙門天に追い払われる・・・。残念ながら明日は帰るのであきらめる。


薬師寺の花会式が終わるといよいよ本格的な春がやってきて「奈良に春を告げる行事」と呼ばれる。


【参考】YouTubeから関連動画を紹介しておく

初夜の法要:https://youtu.be/1wqwsxDZ0Xk?t=142
半夜の法要:https://youtu.be/y5hAeGoOo7w?t=3
後夜の法要:https://youtu.be/y5hAeGoOo7w?t=73>
晨朝(じんじょう)の法要:https://youtu.be/y5hAeGoOo7w?t=126
日中の法要:https://youtu.be/1wqwsxDZ0Xk?t=268
日没(にちもつ)の法要:https://youtu.be/1wqwsxDZ0Xk?t=368
鬼追い式:https://youtu.be/y5hAeGoOo7w?t=540

TV番組、極める「薬師寺花会式」より 制作:テレビ東京・グレートデン、制作年:不明


三条通り

東京に帰る前に気になるところがあるので、もう一度猿沢池の周りを朝散歩してみた。

奈良の観光客の主要な動線道路は「三条通り」、平城京の「三条大路」に相当するが道幅は同じか?不明。猿沢池に出て、春日大社に向かう参道だ。

高札場
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三条通りの高札場 2019.03.31 鉛筆・透明水彩

道に埋め込まれた里程元標

猿沢池の近くには立派な「高札場」がある。「御触書」を庶民に周知させる江戸時代のものを復元したものだろう。
左側に建つ木柱には「奈良県里程元標」と書かれており、明治になって各府県に設置されたものの復元だという。その道路の近くに埋め込まれた金属プレートに、本来あった場所を示していた。

江戸や明治の制度がどうのこうのと観光客には目新しいが、この町にははるかに古い歴史が隠されている・・・
それを探してみる朝散歩だ。


率川(いさがわ)地蔵尊

一昨日、猿沢池を巡り歩いて気になる不思議なものを発見していた!
猿沢池を歩くと背景の興福寺・五重塔が見事で、その道の反対側には注意がいかない。そこに見つけた気になるもの・・・今回の朝散歩の動機です。

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三条通りの高札場 2019.03.31 鉛筆・透明水彩

猿沢池の南から西に回り込むように、空堀の川?がある。その川に架かる石橋を渡ると、その真下に赤い涎掛けを着けたお地蔵さんの集団が石船に乗っているのだ。 なんだこれ!!!
わきの石段をつたって下りると湿った川底だが流れる水はなく、清潔なので下水路でもなさそう。
お地蔵さんが一杯集まっていると昔行ったことのある化野念仏寺(あだしのねんぶつじ)を思い出す。
しかしこの川の名前(いさがわ)の不思議さとこの地蔵さんを舟に乗せて旅立たせる演出。新発見ばかりだ。 


ならまちを中心として

ここでこの空堀状態の川について説明しておく。
率川(いさがわ)・簡単に読める文字ではないが、平城京の東端にある「春日神社」の背景となる「春日山」を源流として平城京を横断する川。その流れの中途にある池が「猿沢池」で、現在はその池から先は町の中を暗渠で地上には見えない。この橋の架かる空堀川が率川本流か?は、不明だがちょっと広げてマップで調べてみたのが下の地図である。

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右京・左京で構成される平城京の付属部分(外京)の一部

この地図で猿沢池の縁を巡っている空堀の川(率川)の様子が分かる。これは猿沢池が大水の時に溢れた水を受け止める川だと推察できる。現在はこの池以降の街中を流れる川は暗渠となり曲がりくねった水路となっているが、かつての平城京は瀬戸内海との重要な交通水路だったか?と地蔵尊の乗っていた舟に触発され、想像が広がり楽しい。

●この辺りは平城京が構成される[右京]と[左京]の左側に膨れた地域で[外京(げきょう)]と呼ばれた地域の一部であり、有名な「東大寺」はさらにその外側に位置する。なぜ、端正(シンメトリー)に計画されると想像される平城京に東側に広がった地域があるのか?これは当時の天皇を支える長屋王藤原不比等の拝領した屋敷を平城宮に見立てたもう一つの隠された平城京なのだ。春日山の裾野に広がる地域に、平城京に連なる外京をこちらから想像してもう一度みてください。

●平城京の区画された街並みと当時の寺が所有する敷地との関係がここにマウスを乗せると地図で理解できます。さらに西に500mほどいったところが四坊大路でそこまでが外京の範囲です。 現在の地図と見比べてみてください。

●飛鳥時代の日本最初の本格的伽藍である法興寺(飛鳥寺)が平城遷都にともなって、新築移転されたのが始まりとされる「元興寺(がんごうじ)」の栄枯盛衰の姿が見られる。多くの寺は平安京に遷都後、ほとんどの建物は焼失、再建をくり返したが、元興寺は長い間に忘れられ、民家転用という侵食で現在は通称「ならまち」と呼ばれる地域に変わってしまった。(その時は平仮名表記が通常)

●さらに日本古道の一つ「上ツ道(かみつみち)」が堂々と「率川地蔵尊」の橋から始まると地域では云われている。しかしこの古道は平城京遷都以前の「飛鳥京」と結ぶ三古道「下ツ道」「中ツ道」「下ツ道」の一つで平城京の各々「朱雀大路」「東四坊大路」外京の東端「七坊大路」の延長に続く道である。「上ツ道」は近世では「上街道」、現在では「伊勢街道」「長谷街道」などとよばれ、古寺「元興寺」境内から始まる道となっている。


かつての元興寺の境内(ならまち)はどうなっているの?

「率川地蔵尊」の橋(島嘉橋[しまかばし])を渡り、上ツ道を歩いてみると町屋の民家が軒を連ねている。伊勢街道と呼ばれるには道幅は狭く、至るところで雁行・交叉する道で、計画を無視した街並みだということは想像できるが民家のオンパレードに期待!。

猿田彦神社(道祖神)

平城京時代の計画道路単位、一町(約130mか?)程で交差点に至りその場所に朱塗りの神社

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道祖神社 2019.03.31 鉛筆・透明水彩

説明板には元興寺境内に初めて作られた奈良市の神社で云々・・・道祖神・賽神として名高いという。鳥居の扁額には「道祖神」とあるのはこの町の守護神を意味しているのか?
掲げられた行灯に「奈良町通り・今御門商店街」「上ツ道 伊勢街道」とある。
南にさらに進んでいくと縦格子を道に面した民家が連なり、元興寺のあったあたりに来てもその面影はなく通り過ぎてしまった。

漢方薬局・菊岡

率川からほぼ三町ほど来たところ・・・多分かつての「四条大路」あたりだろうか?丁字路となって直進は終了・・・?

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道を阻む道祖神と漢方やさん 2019.03.31 鉛筆・透明水彩

「総本家きくをか」と刻まれた石柱を護るかのように三体のお地蔵さんがこの町を護っている風情だ。お地蔵さんの背景にはこんな書込の御札が二枚も・・・「オンカカカビサンマエイソワカ」チンプンカンプンで後日調べたら「類いまれな尊いお地蔵さま」の意で手を合わせ繰り返し唱えるのだそうだ。
それにしても気になる飾り・・・店頭に飾られているボール状のものが大きさの順に下に垂れている・・・それが申し合わせたかのように家々の入口に飾られている。
突き当たりの地蔵さんの裏に回って謎が解けた!

ならまち資料館

かなり狭い路地に入っていく。突然大きなぬいぐるみのぶら下がった黒塗りの木戸が出現。牢屋かとみまがう太い縦格子を袖にした棟門。

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狭い道路からは全容がつかめない資料館 2019.03.31 鉛筆・透明水彩

かなり狭い路地に踏み込んでいく・・・
扁額には「吉祥堂」と掲げる資料館とはなんだろう?館長の自宅を改造し、奈良町の保存を目的として開館された私設資料館とのこと。その展示物の一つ「吉祥天像」を示すものらしい(開館前で未確認)。
下記説明が掲げられていた。

旧元興寺の本堂がここに建っていましたが、1451年の戦火により焼却いたしました。
その跡地に人々が住みつき「奈良町」になりました。
町の住民は町を守るためにこの様な木戸を造り通行人を改めました。これが奈良町木戸です。

資料館

身代わり申

庚申さんの身代わり申

霊験あらたかな庚申信仰のお守り

奈良町(ならまち)の家の軒先に赤いぬいぐるみがぶら下がっている。これは、「庚申(こうしん)さん」のお使いの申をかたどったお守りで、魔除けを意味し、家の中に災難が入ってこないように吊るしている。災いを代わりに受けてくださることから「身代り申」とよばれている。 また、背中に願い事を書いてつるす「願い申」ともいう。
「庚申さん」とよばれる青面(しょうめん)金剛像は、西新屋町の当館にまつられている。中国の道教の教えを説く庚申信仰は、江戸時代に民間信仰として庶民にひろがった。 言い伝えによると、人の体の中に三尸(さんし)の虫がいて、庚申の日の夜に人が寝ているあいだに体から抜けだし、天帝にその人の悪事を告げにいくという。 その報告により寿命が決まるというので、人々は六十日に一度回ってくる庚申の日は、寝ずに「庚申さん」を供養したという。
徹夜の習わしはなくなったが、身代り申をつるし、庚申さんをまつる信仰は今もこの町に息づいている。

出典:奈良町資料館 http://naramachi.co.jp/migawarisaru


 奈良町は約 200 町からなり、各町の境には木戸が設けられ、各町に会所があり、そこでの寄合により町掟が定められていた。このことで、町のまとまりが形成されるとともに、統一感のある町家の連なる町並みの形成が促されてきた。近世の絵図によると、奈良町は北、西、南の三方が柵で囲われ、入口となる 11 か所に定杭が設けられていた。木戸の位置も判明するという。
 近世、奈良町は、城下町建設等の大規模な都市改造を受けなかった。その結果、中世後期の都市形態の要素を数多く受け継いできた。近代以降も、市街地の変化は緩やかで、高度経済成長期を迎えるまで大きな都市開発のないまま存続してきた。現在も近世以来の町割が継承され、町ごとの自治の仕組みが受け継がれている。

出典:http://www.city.nara.lg.jp/www/contents/1424917042562/files/rekimati2-4.pdf

ならまちの民家
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 2019.03.31 鉛筆・透明水彩

大部分は狭い道路の両端に厨子(ついし)二階、切り妻造り、桟瓦葺き、平入の町屋が連続して並ぶ。
正面一階は木格子、二階は漆喰塗籠、格子より古いタイプの表構えとして、「あげ床几(しょうぎ)」があった。あげ床几は下ろすと商品の陳列棚となり、まさに商家の構えである。
正面に付く庇は、室内に差し込む日照を調節、雨から護るだけでなく、軒下に身代り申を吊す家も多く、奈良独特の風情ある町並みをつくりだしている。


奈良を去るにあたり一つ留めておくことがある。夕餉の居酒屋で知った奈良の地酒がうまいのだ。利き酒で全てクリアできなかったが、後で知った奈良の酒造の歴史。
酒造は記紀以前から行われているが、奈良時代には平城宮に造酒司が設けられて盛んに行われており、井戸や甕を備えた建物跡が発掘調査で確認されているという。平安時代末期には「元興寺酒座」の記録があり、元興寺付近で酒を販売した記録。中世には、奈良の酒は寺院を中心として造られたため僧坊酒と呼ばれ、名酒として知られていたという。 安土桃山時代、これまでの濁酒にかわって諸白造りの技術を開発したのが奈良の僧坊酒であり、清酒醸造の基礎を築いたと聞く。奈良の歴史は目や耳・足だけでなく口・腹でも実感した次第。奈良漬けは副産物なのだ。



京都・醍醐寺

日本郵便による


 奈良から京都経由で帰京することになるが、その途中にある「醍醐寺」に寄ってみることとした。有名なしだれ桜の郵便切手が頭にあったからである。原画は現在、山種美術館に所蔵されている
作者は奥村土牛。師の小林古径、七回忌法要が奈良・薬師寺で営まれ、その帰路に立ち寄ったのが京都伏見の醍醐寺、三宝院。その土塀を背景にした見事なしだれ桜に感じ入り写生を二日も続けたという。その10年後の昭和47年(1972)に再訪し作品『醍醐』として発表。平成九年(1997)に切手趣味週間にちなむ郵便切手として発行された。

今回の奈良から京都醍醐寺経由の旅は偶然のことで意図したことではないことを付け加えておく。


「醍醐」について

 醍醐には
    1) 五味の第5。
    2) 乳を精製して得られる最も美味なるもの。
    3) 仏教の最高真理にたとえる。    ・・・とある(出典:広辞苑・第5版)

 醍醐天皇(885-930[在位897-930])の「醍醐」と醍醐寺の「醍醐」は何なのか?
その疑問はすぐ解けた。

 醍醐天皇の在位中の元号は[寛平・昌泰・延喜・延長]で、醍醐ではないこと(エッ!)
醍醐天皇陵、後山科陵(のちのやましなのみささぎ)が醍醐寺の近くにあることからその名に因んで「醍醐天皇」と追号された。

参考:wiki

三宝院・唐門

大きな醍醐寺でも入口は一つ、「総門」をくぐると一直線の道に沿った左右の築地塀の裏側から桜がこぼれるように咲いている。

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三宝院、唐門 2019.03.31 鉛筆・パステル

左手にある「三宝院」への勅使のためにひらかれる「唐門」。右手「霊宝館」の築地塀から大きくしだれ桜がその前を覆う演出でも、この菊と桐の金ピカ御紋と黒漆の唐門と相まってなんて度派手なことか! それをやり過ごし、醍醐寺伽に入る「西大門」を目指す。

醍醐寺伽藍

「西大門」をくぐると目の前は桜が一杯!この時期では開花も不十分かと思っていたが、早咲きのしだれ桜が多いようで、太閤茶会を彷彿させる雰囲気だ。

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右手の建物は拝殿 2019.03.31 鉛筆・パステル

ここから「金堂」「拝殿」「五重塔」等々・・・と続く伽藍が配置されているが、桜のかげに五重塔が・・・。

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 2019.03.31 鉛筆・パステル

案内図 (クリックで拡大)

 開基は弘法大師の孫弟子にあたる理源大師聖宝(しょうぼう)。貞観16年(874)に京都から宇治に近い山奥に草庵を結んだのが始まり。以来山頂を「醍醐山」と名付け、頂一帯を中心に多くの修験者の霊場として発展、その場所を「上醍醐」という。
 醍醐天皇(在位897-930)は醍醐寺を自らの祈願寺とすると共に手厚い庇護を掛け、その圧倒的な財力によって醍醐山麓の広大な平地に大伽藍を構築、発展。「下醍醐」と呼ぶ。 その後応仁の乱など相次ぐ戦争で下醍醐は荒廃し五重塔のみが残された。しかし豊臣秀吉による「醍醐の花見」をきっかけに寺院建築の移築、三宝院の再建により今日の姿となった。


醍醐天皇の菩提を弔うため、936年に建立され、951年に完成した京都府最古の木造建築物。
相輪の高さ・階高・庇のバランスの見事さ! 法隆寺・瑠璃光寺の塔と合わせて、「日本三名塔」の1つに数えられている。

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鐘楼堂と観音堂 2019.03.31 鉛筆・パステル

さらに先に進むと朱塗りのお堂が池に映える弁天堂へと続くが、その手前の鐘楼堂で一枚。弁天堂の先は深山幽谷の予感が・・・「馬酔木」「藪椿」の鮮やかな色にハッとする。陰影礼讃だ!
この先にも興味はあるが、後ろ髪をひかれる思いで引き返すこととする。

三宝院(歴代座主が居住する坊・庫裏のようなもの?)

醍醐の花見のハイライト! 三宝院で止めを刺す。門をくぐった瞬間、大玄関前の見事なほぼ満開のしだれ桜がお出迎えである。

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 2019.03.31 鉛筆・パステル

三宝院の自慢は豊臣秀吉が「醍醐の花見」のために自ら設計して作らせた庭園といわれる回遊式庭園だが、花見の季節はその庭園よりも人が多く集まるのが、この大紅しだれ桜!太閤しだれ桜とも云われるが当然クローンだろう・・・
それにしても見事な枝振りで支柱に支えられながら大きく広がる。二週間後?には豊太閤花見行列が催されるが、その時の桜吹雪は相当なものだろう・・・そのためのステージ?だろうか?否、桜の根を保護しているのだろう。
そんなことを思いながらこの寺をあとにした。




omnibus

今年(2018)もついに立冬を迎えた。 年始めから忙しくしていてまともなスケッチ散歩をしていなかった。

スケッチブックを開くと辛うじて数枚のスケッチを発見! どれも皆音楽会に出た折のスケッチだけで、まともなものはないが掲げておくことにする。

ジャックの塔
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横浜市開港記念会館 2018.04.17 鉛筆・透明水彩

この日の演奏会は第10回国際シニア合唱祭“ゴールデンウェーブin 横浜”という集まりで、三日間かけておこなわれるもの。その最終日に出演・・・会場は横浜みなとみらい大ホールで、演奏後は近くにある中華街で喉を潤す・・・これが目的?

食後の腹ごなしに桜木町に向かって数分でこの建物に出会う。横浜三塔という建物の一つ。「キングの塔」「クイーンの塔」「ジャックの塔」というのが三塔の内訳。ジャックだから一番若いのか?と思いきや、三塔の中では一番古い塔だ。
次回とはいわず季候の良い頃に三塔巡りをじっくりみてみよう。

 言うは易く行なうは難し!
タップリある時間のはずが、あっという間に一年が経過・・・次回の演奏会に横浜三塔の続きを再開。

クイーンの塔

毎年催される「国際シニア合唱祭“ゴールデンウェーブin 横浜」に、今年(2019)も参加。しかしこの日はあいにくの大雨! 中華街での乾杯は済ませたもののスケッチは中止。翌日にチャレンジした。

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象の鼻テラスから 2019.05.22 パステル

翌日ははや夏日か?と思わせる好天気。外でのスケッチにはもってこいの日だ。
今日は三塔の一つ「クイーン」を目指す。

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キングの塔を背にしたクイーン 2019.05.22 パステル

空中テラスから地面に戻り、道路を挟んで画帳を広げる。
「キング」が見え隠れするアングルを捕まえてスケッチするが、あいにく水筒の水が切れていて、水彩はパス。
来年のために「キング」は残しておこう・・・。



資料1

「みなとみらい演奏会場」と「中華街」、その間にある「横浜三塔」の位置はここで判ります。
さらに三塔の説明はここでひらきます。






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