スペイン - I(南部を中心として)
スケッチブックだけは片時も離さず団体旅行の尻尾について歩いてきました
工 程
[1] - マドリード(夜間着泊)
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[2] - バルセロナ
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[3] - マラガ (白い家並みのミハスを中心)
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[4] - セビリア
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[5] - コルドバ
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[6] - グラナダ
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[7] - ラ・マンチャ (コンスエグラの風車)
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[8] - トレド (荒涼とした土地の城塞都市)
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[9] - マドリード
Barcelona
先ずは暴動騒ぎを予想していたバルセロナ・・・
Barcelona_Sagrada Familia
最初に建設着手した東側門のサグラダ・ファミリア 2017.11.26 鉛筆・透明水彩
サグラダ・ファミリア(Sagrada Familia)の建設はハイピッチで進められていて、設計者ガウディ没後100年(2026)の完成目標だという。だからか?当初の建設部分とはかなり違ったものが次々に加えられ増殖している感じ。
途切れることのない観光客とその厖大な入館収入(納税免除)がそれを増長しているのだろうか。
サグラダ・ファミリアの交差点には地下鉄入口が 2017.11.26 鉛筆・パステル
ガウディも関与していた当初のサグラダ・ファミリア東門下のウミガメ 2017.11.26 鉛筆・パステル
サグラダ・ファミリア東門の左右の柱脚には二匹のウミガメが塔を支えている。その口の奥に手を入れたら5センチほどの穴が空いている。どうやら雨水が流れる仕組みのようだ!垂れ流しなのはスペイン流と解釈しよう。
Barcelona_Catedral
旧市街地区のサンタ・エウラリア大聖堂 2017.11.26 鉛筆・パステル
バルセロナの聖堂というとサグラダ・ファミリアしか思いつかないが、バルセロナの大聖堂と云ったらこちらが老舗! 歴史は古くローマ時代にはロマネスク様式の教会が既に造られ、その上に13〜15世紀にわたる建設で現在のゴシック様式の教会となったもの。その証だろうか?煉瓦造のアーチが画面手前の建物(Torres Romanes)に尻尾のように残されている。
大聖堂前にはクリスマス目前の市がたち、面白いものを発見・・・!
カガネー(排便人形) 2017.11.26 鉛筆・パステル
お土産品に添付されていた説明書によると
「カガネル」(排便人形)はカタルーニャ地方のクリスマスの時期に飾られる伝統的な人形で、通常はカタル−ニャの伝統的なベレー帽、黒いズボン、赤い帯を身につけた農民の姿をしています。
人形のしぐさは、翌年の土地を豊饒にすると言われています。この人形は家庭の幸福、喜び、繁栄を象徴し、飾らないと運が悪くなるといわれています。このモデルになることは多くの有名人にとって、とても名誉なこととされています。
サッカー選手の人形も多数あり
Barcelona_Casa Batllo & Casa Mila
バルセロナの旧街区主要通りであるグラシア通り(Passeig de Gracia) で建築家ガウディの設計した建物数点を覗いてみた。
カサ・バトリョ 正面(左) と 二階テラスから見た裏側(右) 2017.11.26 鉛筆・水彩
この建物は改築されたものとは!(知らなかった)
19世紀に建てられた建物を20世紀初頭(2004-2006)にガウディの手により改築されているが、ここまでガウディのデザインで貫かれていることに驚き! 直線は床ぐらいだろうと思われるほど曲線・曲面で覆われている。当時のフランスはアール・ヌーボーの時代。まさにその様式がスペイン・バルセロナではモデルニスモと呼ばれ独自に展開する。
カサ・バトリョから数百メートル離れたところにカサ・ミラがある。
この建物は改築ではないらしい・・・
バトリョに比して装飾ではなく彫刻的なファサード。地中海沿岸の穴居住宅群のイメージを浮かべる。このバルコニーの手摺はやはり根一杯の装飾である・・・が、リボンか昆布が纏い付いた形はやはり鉄の彫刻だ!
カサ・ミラのバルコニー手摺 2017.11.26 鉛筆・パステル
グラシア通りの街灯
街灯の基壇がベンチに! 2017.11.26 鉛筆・パステル
スペインのアール・ヌーボー(モデルニスモ)の旧街区は街灯までが植物の模様で埋め尽くされている。さらに傑作なのはその足許をガウディばりに磁器片タイルで有機的な形のベンチに!
バルセロナの建築はガウディのものだけではない!彼の2才年上のリュイス・ドメネク・イ・モンタネール(Lluis Domenech i Montaner[1850-1923])のものも巡ってみよう。
彼はガウディと人気を二分(当時はそれ以上か)する建築家で、カタロニア・モデリズモ(ムダルニズマ)を代表する建築家である。
Barcelona_Palau de la Musica Catalana (カタルーニャ語でカタルーニャ音楽堂)
カタルーニャ音楽堂 正面(左) と 正面表札(右下) コーナーの彫刻(右上) 2017.11.26 鉛筆・パステル
設計したモンタネールの代表作がこのコンサートホールで、当地で重要な合唱団《オルフェオ・カターラ合唱団》のためのもの。アーケド上部にはその証として《ORFEO CATALA》と記されていた。
装飾は見事だが、その極めつけは建物角に掲げてある彫刻! 謂われは知らないがこの地方の独立心を表現していることは確かなようだ。その事に興味を持ち、帰国後にこの合唱団を調べてみたら、幼児とも呼べるような子供から老人まで幅広い年齢層を抱えた合唱団だということがこのYouTube からもうかがえる。熱気ある郷土愛を見せられた気分でスペインから独立する運動の原点を覗いた気がした。
Barcelona_Hospital de Sant Pau (サン・パウ病院)
もう一つの代表作は昔からの6つの病院を併合して48の建物が並ぶ大きな病院。正式名称はサンタ・クレウ・イ・サン・パウ病院。2009年まで病院として活躍していたそうだ。
サン・パウ病院 正面(右) と 坂道壁面(左) 2017.11.26 鉛筆・水彩
この正面建物は敷地の南面角地から街に向かって開かれた楼門のような建物で、画面では左半分しか描いていない。
その背後に庭園を配して沢山の建物が配置されているが、みな地下で繋がれているというから驚きだ。
サン・パウ病院 正面建物の奥は 2017.11.26 鉛筆・パステル
正面建物の側壁が見事な壁画で埋め尽くされているが、その端から中庭を覗いてみると広大な敷地がつづいていた。
Malaga_Mijas
スペイン南部はイメージしているスペインらしい地域。バルセロナから移動するのにその主要都市マラガまで空路でも1時間以上かかるとはこの国は意外と広いのだ!
白い家並みの街として知られているミハスは地中海を見渡す高低差のある小さな町。北欧からも別荘地としてプール付別荘が眼下に広がる街だ。
ミハス山(Sierra de Mijas:1150m)の中腹に位置するのがこの村。山から産出される石灰岩を焼成して出来た石灰を建物外壁に何度も塗布することでこの街の白い家並みが生まれた。それと赤い屋根だけで構成され、いたってシンプル! 二つの建材はどちらも大量に火力を必要とする。そのためだろうか?山肌が茶色く見えた原因は・・・。
見晴台を望む 2017.11.27 鉛筆・パステル
この見晴台のミハスの守護聖女マリア様を祀った礼拝堂が見える。
山の中腹だから水平な通りは狭い道幅か広く取ればこのように段差が出来てしまう。しかし面白いのはこの段差を利用して下の通りからは洞穴のような入口が用意されていること。
正面の店舗入り口には岩盤むき出しの袖壁が見られ、それを石灰で何度も塗ることで出来たように見える。上部は通路で、公道?私道?・・・穴居住宅が当たり前の地域なんですね。
この国の代表的芸術家ピカソ・ダリの陳列してあるというギャラリーに入り屋上から通りを覗いたら、変化に富む町並が把握できた。
マラガ通りとサン・セバスチャン通りとの交差点 2017.11.27 鉛筆・パステル
通りの交わる場所は絶好の広場に!さらにレストランのテーブルが並ぶとは。広場として機能するもう一つの装置?小さな教会が用意されているのだ。
こんな狭い道でも坂道有りだから生活するためにはなんとか小さな車が出入りする。昔は当然馬を利用していたのだろうが・・・・
Sevilla
セビリアはアメリカ大陸発見のコロンブス一色(コロンブス様々)の街!持ち込まれた金銀の財力は如何ばかりだったか?と思わせる都市なのだ! セルビアを舞台にしたオペラの数の多さはそんな理由だったのでは・・・。
ジャカランダの花(左) 右の蕾は、ラ・マンチャ地方で見つけたもの 鉛筆・水彩
訪問したのは年末も間近なのに、ジャカランダとかハカランダと呼ばれる春に咲く花を街路樹の中から見つけた。スペインや中南米では、日本のさくらに相当する花として親しまれている。
塔の頂部にある女神と同じもの(左) セビリア大聖堂全景(右) 鉛筆・水彩
カトリックの大聖堂としてはバチカンのサン・ピエトロ大聖堂に次ぐ、スペイン最大のもの。あまりに大きく一望する場所が見つからない(^_^) スペインの功労者・コロンブスの墓が大聖堂内に4人の王に担がれた形で祀られている。
15世紀に完成した大聖堂に付設している鐘楼は12世紀に建てられたモスクのミナレット(尖塔)だったもの(当時はイスラム)を拝借?改造して16世紀に鐘が取り付けられている。
頂部の女神像は地上にも同じサイズの物が置いてあり、右手に盾と槍、左手に椰子の葉(勝利のシンボル)だと分かる。盾が風を受けて椰子の葉が風に向かう風見鶏のカラクリになっているのだ! 女神の高さ4mということで、塔の高さを想像してください(約98m)
コロンブス様は大聖堂だけではなく公園にも記念碑として祀られている。 中段に取り付けられているのはサンタ・マリア号? 舳先は新大陸を向いているとか・・・。
Sevilla_Santa Cruz, Plaza Venerables
サンタ・クルス街と呼ばれる旧ユダヤ人街がある。石畳の小路が迷路のようにつづく。
小路があちこちで出会う場所は広場だ。夏の強い日差しを避けるためだろう、オレンジの木が必ず植わっている。
広場を見守る「マリア様」はどう思っているのだろう・・・現代の中東紛争を。
この地は8世紀よりイスラム勢力下に入るが、レコンキスタの進展で13世紀にはカスティーリア王国の主要都市となり当初はキリスト教徒とユダヤ教徒が共存していた。その後14世紀に入りペストの流行で反ユダヤの風潮が高まり、金持ちに取って代わられた。
Sevilla_Plaza de España
セビリアから連想するオペラ「カルメン」、そのオペラで登場するカルメンの働いていたタバコ工場はセビリア大学の校舎となっていた。その直ぐそばに街並みからは長くカーブした建物でしかない大きな建物が! それがこの「スペイン広場」。スペイン国内に数ある「スペイン広場」の中でも最も美しいとされる広場だ。
その建物を通り抜けると半円形に囲まれた広場が! なんでこんなものが・・・と思ったら、1929年に博覧会(* )が催され、スペインのパビリオンだったとのこと。
両端には2つの塔が聳え、半径100mほど?の半円状の大きな建物。イスラム様式とキリスト様式の融合はねじれた現代の宗教観から見たらパラダイスだ!
これだけの長い建物は様々な利用をされているとのこと。一例は州の議事堂でもある。歴史の継承が羨ましい・・・
(* )1929年の博覧会とはパリ万博をイメージする万国博覧会ではなく、イベロ・アメリカ博覧会のこと。イベロ・アメリカ(Ibero-America)とはアメリカ州(南北アメリカ大陸・周辺島嶼・海域を含む総称)のかつてスペイン・ポルトガルの植民地を示す。その多くの国々がセビリアに集まって催された万博のこと。この広場周辺に当時のパビリオンが点在し、チリ[参考 ]、ペルー[参考 ]、ウルグアイ[参考 ]等のように現在でも建物が利用されている。
Cordoba
この街はセビリアから流れる川「グアダルキビール(Guadalquivir)」100キロ?程遡った場所にある。この川の流域はスペイン南部アンダルシア地方のほとんどを占め大西洋に注ぐ大河。フェニキアの時代からセビリアには交易港として栄え、ローマ時代にはこのコルドバまで遡って交易されたという。
奥に見えるのが「メスキータ」と呼ばれるキリスト教の大聖堂と旧市街。 右手の建物はカラオーラの塔 (Torre de la Calahorra)とよばれるこの橋の門となっているかつての要塞。
水量の少なさはかつての交易船の港があった川とは想像できない。しかし橋脚の見事なこと!
ローマ橋直下の流域は薮だらけ。川筋が幾つにも分かれている疑問は晴れた! 水流を速め、水車の動力にするためだった!その水車は大きな横軸回転だけでなく縦軸回転のものが大勢。粉ひき、さらには水をくみ上げる揚水ポンプというから驚き![傍らの説明板]
Cordoba _ Mezquita
川の要塞に護られた地域は旧市街地域で、突き当たりは「メスキータ」と呼ばれるかつての回教施設「モスク(ひざまずく場所の意)」
1つの建物の中にイスラムとキリスト教の建築が混合する世界でも稀な建造物。
建設はイスラム時代に三度の増築(785, 848, 961年)を経て数万人収容といわれる巨大なモスクとなったもの。しかし13世紀にレコンキスタよってコルドバを再征服。モスクの中にカトリック教会の教会堂をそっくりはめ込むことにより、この巨大モスクの再利用で、当時のイスラム最先端文化が現代に引き継がれることになる。「コルドバの聖マリア大聖堂 (スペイン語: Catedral de Santa Maria de Cordoba)」という正式名で、唯一無二の文化遺産となっている。
メスキータの周囲外壁はほんの少しの小窓と入口があるだけ。内部に通じる見事なアーチと装飾で覆われた門はレコンキスタ以前のもの。キリスト奪還後の数少ない門はルネッサンス頃のものだろうか?陳腐な新古典主義のお飾りペディメント(破風)では太刀打ちできない。
アルミナールの塔(Torre del Alminar)
かつてのミナレット(塔)脇の入口は、高さ10mほどにもなるモスレム独特の馬蹄形アーチ。上部には多弁型アーチに縁取られた三聖人像と両脇のニッチ。たぶん聖人が描かれていたのだろうが今はない。キリスト改修で付加されたものだ。
免罪の門から中庭に入るとオレンジ・ヤシの木・糸杉が整列して植えられている。モスク時代のミナレットは大聖堂の鐘楼としてこの位置で初めて全体を望める。(外はあまりにも狭くて塔の大きさはつかめない)
入ってすぐ目にはいるのが、この赤いレンガと白い石灰岩が交互に組まれた馬蹄形アーチ!しかも二重にして高さを確保している。この二重アーチで思い浮かぶのはローマ時代にひろがった水道橋の技術。そう・・・この二重アーチの上は広い建物を覆う屋根で、その排水路としているようだ。この樹木が立ち並んだような空間がつづく・・・
クワイヤ(聖歌隊席、choir、コーラス)
中心部にはキリスト教会の祭壇部分があり、その一角はヴォールト天井で天から光が降り注ぐ! 礼拝が行われ男性や少年による合唱隊(聖歌隊)により聖歌が歌われる場所であり、この部分はクワイヤ(聖歌隊席、choir、コーラス)と呼ばれる。
祭壇と対をなすクワイヤ(quire、choir) 鉛筆・水彩
広大なモスク内に入れ込んだ教会だから通常の教会配置をなしていない。イスラムへの敬意を表しているのか?本来のアプローチ(寄りつき)はそのままにして、キリスト教会の配列軸は直角に配置してある。このクワイア(合唱隊席)と祭壇の間に翼廊(袖廊)が挟まれていてそれだけで完結した内向きの教会となっている。7-8m程度のモスク天井の三倍はあろうかという祭壇部天井は高窓から採光がとれて薄暗い中に明るい場所を誇示している。特にこのクワイアは聖歌隊席背後の装飾を光背のように煌めいている!そして極めつきは両側から鳴り響く2台のパイプオルガン!スペインスタイルにつきもののトランペットホーンが沢山水平に配置され、高らかに神をたたえる・・・
【メスキータまとめ】
メスキータ (mezquita) とは、スペイン語でモスク(ひざまずく場所)の意
青文字個所にマウスを乗せると画面が変わります
I_最初のモスク
イスラム教の寺院としてアブデラマン1世時代に建設(785)
II_第一回拡張
アブデラマン2世による最初の拡張(848)
III_第二回拡張
アルハケン2世による第二回拡張(961)
IV_第三回拡張
アルマンゾルによる現在規模への拡張(987)
平面図から判断すると室内の暗さは相当のものと想像するが、当時は中庭への壁はなく、列柱の延長線上に同じピッチで椰子等の樹木が連なっていたという。そしミフラーブ(祈りを捧げるメッカの方向を示すへこんだ壁)の前には天井が高く持ち上げられたドームから差し込む自然光・・・。最後まで謎が解けないのがミフラーブの示す位置だ。Googleマップで調べても示すはずのメッカとは方向がずれていること。
V_現在の平面
8世紀から200年ほどかけてつくられたイスラムモスクも13世紀のレコンキスタ(キリスト教による再征服)によりキリスト教会への改築が行われた。当初は薄暗くだだっ広いだけの空間で行われるミサとは! しかし16世紀になって大聖堂を組み込むという大改築が行われて、現在の形の基となっている。身廊(建物の入口から祭壇の前までの中央部分)の軸線もイスラム時代とは対照的に直角に方向転換!入口は南側から入ったと思われる。更にはオレンジの中庭は目障りだからその時に塞がれたようだ。
VI_現在の姿
断面図からも分かるように大聖堂の高さは既存天井を大きくぶち抜き、ゴシック様式の天井から自然光が降り注ぐ。
参考:http://otraarquitecturaesposible.blogspot.jp/search/label/Mezquita%20de%20C%C3%B3rdoba
Granada
イスラム勢力最後の砦、グラナダに漸く辿り着いた・・・
クラシックギターを弾く人なら《アルハンブラの想い出》が頭に浮かぶ街だ。
ジプシーの踊り
近頃、「ジプシー」という言葉は差別語だから「ロマ」に統一しようという話を聞く。しかしここでは敢えて「ジプシー」としておく。(理由はそのほうが一般名称だという独断です)
コルドバから移動してきたら夕方に。フラメンコの当地だから、その雰囲気を味わえるフラメンコショーの見物に出かけた。
彼等はヨーロッパやアフリカ、西アジアなどに広く散らばる金属加工や歌・踊りの特殊技能集団。同族で部落村を形成している。ここではアルハンブラの城塞と渓谷を挟んで対峙する丘(アルバイシン地区・サクロモンテ地区)の中腹に穿った洞窟が彼等の村だ。
ワインやサングリアが振舞われるとショーの開始。照明の怪しい効果がすばらしい!
全員総出演!手拍子(palmas)、足拍子(zapateado)で狭い洞穴は佳境にはいる!
La ALHAMBRA
ショーの終了で表通りに出て、ほとぼりを冷ます。目の前は渓谷を挟んでグラナダ市内の夜景!
ライトアップされた丘がアルハンブラ宮殿 鉛筆・パステル
この丘全体が宮殿という要塞で、右側は軍事施設の部分で、それに続き宮殿と離宮と云う三施設が配されている。
Palacio Del GENERALIFE
要塞とはいっても中は外観とは大違い。隅々に水路を配し、花々が咲き乱れるパラダイス!王様専用の宮殿が実態。そして宮殿内には[Generalife]と呼ばれる避暑用離宮も用意されている。
MUSEO ANGEL BARRIOS
宮殿を見終わって土産物屋が建ち並ぶ一画に気になる廃屋が一棟。 大理石の銘板には[MUSEO ANGEL BARRIOS]・・・?
ギタリストにはお馴染みのバリオスは[Augustin Barrios]だが・・・、ひかれるように中に入ると小さな中庭。更に奥には小さな部屋がつづくがどれも高い天井・高窓・星形に穿った天蓋の装飾!
これは浴室の連続・・・公衆浴場?・・・否、暑さ対策の建築計画では!そして帰国後に[Angel Barrios]を調べたらなんとギター作曲・演奏家の記念館で、その修復されていない建物の一部だったらしい。
アンヘル・バリオス作曲の一曲《Evocacion》を紹介しておく。背景にアルハンブラ宮殿内の景色を流しているので野暮なスケッチは控えることとする。
VIDEO
イベリア半島南部のアンダルシア地方はここまでにして、次の目的地は中部に位置するマドリッドめざして移動する。
La Mancha
スペインなんて日本の国土と比較したら大したものではないと思いこんでいたが、なんと日本より3割以上広い。(陸地だけの比較だが) 言葉を換えれば日本はスペインの3/4程度の国土ということになる。
だから簡単に南部から中部への移動時間は相当かかる。スペイン版新幹線もあるが、せっかくの旅、バスで移動して広さを実感することとした。
一歩郊外に出ればオリーブと麦の穀倉地帯が果てしなくつづく。当地は地中海性気候だから日本の景色に慣れた目には砂漠のように映る・・・時期的には雨期だというのに・・・。
オリーブと麦畑が続く中で所々に地面が盛り上がる丘がある。そんな場所に限って家々がひしめくようにして集落を形成している町なのだ。
所々で左図のような巨大な雄牛看板が表れる。当初はこの穀倉地帯にある牧場看板だと思っていた・・・が、後日調べてみて驚いた!
この看板の大きさは3〜4階建て建物ほどの大きなもの。その理由が突飛で面白い。
● オズボーンというお酒の会社広告であったこと。
● 法律で道路から150m以内の広告禁止(1994)で巨大広告となったこと
● 国民の撤去運動も考慮してブランド名等全て黒一色に塗りつぶしたこと
● 風景の一部と裁判でも認められ、黒い雄牛は社会の共有財産となったこと
現在ではスペイン代表チームの応援旗に国旗中央に配されている。めでたしめでたし(wikiより)
農家二題
バス旅行では途中の休憩はつきものだが、その休憩地のいくつかは農家を改装してレストランにしたもの。
イベリア半島のど真ん中は日本と比較したら荒れ地にしか思えない荒涼とした風景が連なる・・・
休憩地にはスペイン小説定番の主人公、ラ・マンチャの男、ドン・キホーテが必ず観光客用に立っているが、毒々しい看板や自販機のない当地にはよく似合っているのだ!
ジャカランダの新芽
オリーブ畑だけが目につく町の一軒は中庭を配した典型的建物。 観光客用に中庭は整備されてはいるが、一歩外に出るとオリーブやジャカランダ(現地発音はハカランダ)の苗を育てている畑が一面にひろがる。そのジャカランダに花芽を沢山付けていた。日本の桜と比較される春の街中を賑わす樹木の供給農園畑を見た気がした。
ラ・マンチャ地方ともなるとドン・キホーテの舞台となるところ。この建物に付随してドン・キホーテの美術館があった。目的は当然記念品販売。
ラ・マンチャ地方の教会
この教会は休憩した民家のすぐ隣にあった教会。しかし感心したのはその番人スタイルのドン・キホーテ。当地は全てこの英雄に託されているのだ。内部は質素ではあるが典型的ローマカトリック。
それにしても感心することは、どの町もデカデカと掲げた看板がないこと。自販機も勿論ない!
住民達の共有する宗教観の為せる美意識だろうか。
コンスエグラの風車
風のよく当たる場所と云ったら見晴らしのよい高台。そこに数台の風車が連なっていた。ドン・キホーテの活躍場面を想像する。 トンボの胴体のように飛び出している長い棒は風車を風上に動かす手動のテコ。
見晴らしのよいこと!・・・。まともな植物は目にすることなく、茫漠たる荒れ地が続く。遠くに見える城址のようなものはこれらの風車を所有・管理している建物だろうか?
Toledo
マドリードに近く(南に71km)位置し、三方をタホ川に取り囲まれた丘を巧みに城塞とした都市である。
かつての西ゴート王国(現在のフランス南部からイベリア半島にあたる地域を支配したゲルマン系王国)の首都であり、中世にはイスラム教・ユダヤ教・キリスト教の文化が交錯した地で、ルネサンス期のスペインを代表するギリシア人画家のエル・グレコが活躍した町としても有名。
トレド全景
丘の塊がそっくり「トレド」という町!
周囲は荒涼とした土地で、異文化の都市の出来ようを感じる。
川の縁はかなりの高低差が・・・家々は斜面にしがみつくようにして連なる。
町の通路
ひとたび町中に入るとそこは迷路のよう・・・狭い道が続く。
左は大聖堂美術館、右は大司教宮殿、ブリッジで繋がれている。 鉛筆・パステル
比較的広いこの道は大聖堂に続く道で、奥に見えてきたのがその大聖堂。
大聖堂
このカトリック大聖堂には、スペイン・カトリック教会の首位聖職者とされるトレド大司教座がおかれているとの情報には興味なし。それよりもグレコを始め著名な画家の絵が収められているのだ。
トレド大聖堂とコルドバ大聖堂(メスキータ)との大きさの比較
大聖堂の名に恥じない内部の広さと豪華さ! しかし周囲の広さやクワイヤ(聖歌隊席)のオルガンはコルドバのメスキータには敵わないのでは!
教会前の広場は周りの建物(市庁舎・地方裁判所・大司教宮殿)で形成された三角形の場所。小さなテント小屋が建っていたが何かのイベントのようだ。
町の生活
高低差がある小さな場所に幾つもの教会・鐘楼が建ち並ぶ。これらは多くの宗教がお互いを認め合いながら共存していた証だろうか?
この鐘楼の前は勾配のきつく狭い場所。それなのに車は往来・駐車している。しかしこれにもルールがあるようで、歩行者を護るはずのポールを車中からの操舵だろうか?自動操作で上下して生活に必需な車に関しては進入出来るようになっていた!
Madrid
ついに最後の訪問地“マドリード”
今回は大西洋を目の前にする北部地方までは足を伸ばさなかったが、南部の自然ゆたかなアンダルシア地方からこの地までを辿ってみると気候の変化を実感する。こんな荒野のど真ん中!に首都だなんて・・・国土の重心を平均して位置を決めたのだろうか?
アトーチャ駅(Madrid-Puerta de Atocha)
首都マドリード最大の鉄道基点駅で街の南にデンと構えている。東京駅も当初は起点駅だったことを思い出す。1851年開業というから日本では江戸時代(嘉永三年)という古い時代、その年はロンドンで第1回万国博覧会が開幕されている。歴史の重さに打ちのめされる。
その建物を街から見るとこの巨大な屋根・・・なんだ! 始めに見たときはマーケットだと思っていたが、自分の慌てぶりがおかしい・・・終着駅の尻尾だけを見ていたわけだ。
その尻尾がマドリード中心街に直結している。このアングルから背後を見ると次のスケッチのような建物が目の前に!
国立ソフィア王妃芸術センター(Museo Nacional Centro de Arte Reina Sofia)
この新旧のスタイルの変わりよう! そう、スペインデザインは斬新さが命でした!
「国立ソフィア王妃芸術センター」とは古風な名称だが、世界でも立派な現代アート美術館の一つであり、その新館として増築したのがこのモダン建築。(ジャン・ヌーベル設計、2005年オープン)
本館は階高のある病院だった建物を再利用したもの。オープン(1986年)。それを流行の先端を行くガラス張りのエレベーター2基を付け加えリデザインされた。(1990年) 今ではかつてプラド美術館別館に収蔵されていたパブロ・ピカソの『ゲルニカ』も常設展示、現代アート満載の美術館となっている。キュービズム誕生(1907)から崩壊(1931)までの展示会場もあった。
プラド美術館(Museo del Prado)
国立ソフィア王妃芸術センターから徒歩圏内にあるのがプラド美術館
歴代のスペイン王家のコレクションを展示する美術館である。 この美術館は王家のお抱え画家の作品が目白押し・・・当たり前ですね。
スペインスケッチはここまで あとは食後の街散歩で、一度は入ってみたかったバルと称する立ち食いやさん。まごつきながらもなんとか数品頼み、飲み物はもちろんCava。今回の旅行で覚えた唯一のワイン!なんのことはない発泡ワインだ。シャンパンは商品登録されているのでこの国では共通商品名として使用されている名称。帰国後にいつものスーパーに行ったら日本の商品棚居並んでいた・・・知らなかったのは私だけだった。
もう一つ知らなかったこと
数々のホテルを渡り歩いたが、どのホテルのエレベーターもおんぼろで閉じるボタンは無し。閉じるまでじっとして待つ。しかも動・止の動作が不安になるほど・・・私たちは最先端技術に慣れすぎているようだ。そしてボタンの階数表示! [0]・[1]・[2]・・・・と、あるのだ。
[0]階は日本で云う1階に相当・・・[1]は2階だ。
この階数は美術館でも同じだったのでスペインでの標準表示なんだろうか?
【後日談】
エレベーターの1階表示問題について、外国旅行にはあまり行っていない私が論ずるのは論外だが、北欧はどうだっか思い巡らすと高い建物もなくエレーベーター自体あまり記憶にない。
中学校の英語では英語で[ground floor] 米語で[first floor] と習った記憶がある。
地面のことをドイツ語では[Erde]? フランス語は? イタリア語は?
ラテン語では[Terra]というから1階は[G] が標準ではなく、ゲルマン系では[E] 、ラテン系は[T] ?
地球規模で見ると、アジアの方に来ると日本と同じ表示になるらしいし、ロシアもそうだという。インドはイギリス圏なのだろうか?
想像たくましく述べれば、ヨーロッパの居住空間の捉え方と我々との違いが地面階の認識の違いにあらわれている気がする。ジプシーの洞穴は一例にすぎないが穴居空間は蟻塚のように自由に拡大可能な三次元システムだ。その DNA が平地に建てるには身近な材料を利用した石や木材を [積み重ねた建物] にする文化となり、基準となる地面階の認識につながるのではなかろうか?
結 論
ヨーロッパは狭い地域で多言語、いろんな表示があったらややこしい。そこで大発明!
[ZERO]の発見なのだ!
これは三次元空間を表示するときには大変合理的な原理で感心する。
地上では[+1] [+2] 地下へは[-1] [-2]・・・これが今のところの結論としておく
(歳のかずを数えるときの[満]と[かぞえ]の違いといったらおかしい?)