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balt sea 02

鏡のようなバルト海から多数の小島が浮かぶサルトシェーン(Saltsjön)入江を延々と進んでストックホルムに入る

スウェーデン

ストックホルム旧市街を中心に、スクーグスチルコゴーデン(森の教会墓地)にも足を延ばしてみました


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バルト海に面する国々

 スウェーデンの首都ストックホルムは奥深いサルトシェーン入り江(Saltsjön:塩の海の意)とその奥のメーラレン湖(Mälaren)を隔てる大小14の島々からなる「水の都」「北欧のヴェニス」と称される美しい都市である。

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ストックホルムは入り江の奥座敷


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ストックホルム市内地図(赤マークはスケッチにリンク)
ここにマウスを乗せると主な島名・幹線道路・鉄道を表示

ストックホルム市庁舎 ガムラ・スタン旧市街 エステルマルム市営市場 王立演劇劇場 スカンセン野外博物館 市民農園 森の教会墓地 これより南へ約3km
案内リスト
1ストックホルム市庁舎
2ガムラ・スタン旧市街
3エステルマルム市営市場
4王立演劇劇場
5スカンセン野外博物館
6市民農園
7森の教会墓地

 スタッツホルメン島(Stadsholmen)とセーデルマルム(Södermalm)島とで塞がれた奥の水域はメーラレン湖(Mälaren)と呼ばれ、その奥深さはここから延々100km以上に及ぶ。 この湖を取り囲んだ内陸部は北緯60度付近の寒さの厳しい地域にありながら農業生産が可能という特異な地域であり、さらに北西部の森林地帯は金属資源の宝庫(バリスラーゲン鉱床地域)でもある。そのためストックホルム成立以前のこの内陸部は政治の中心地であり、かつてのバイキングの本拠地かとも予感させる地域であるが、残念ながら今回はそこまで足を延ばすことは出来なかった。

【ヴァイキングとは】
 800年頃から1000年頃までバルト海・北海を中心にして活躍した人たちをいう。ヨーロッパからはノルマン(北方の人)と恐れられ、ノルマン自身はヴァイキング(ヴィーキング)と呼んだ。語源はVIK(入り江、峡湾)に潜み、通りかかる商船を襲撃するING(人の意味)というのが有力説である。大雑把に三系統あり、スウェーデン・デンマーク・ノルウェイという現在の国に重ねて見ることができる。●スウェーデンバイキング(スヴェア人)はバルト海・ロシア・黒海・カスピ海へと東進し、●デンマークバイキング(デーン人)は北フランス・スペイン・地中海に、●ノルウェーバイキング(ノース人)はスコットランド・アイスランド・グリーンランド・北アメリカという壮大な範囲を活躍の地域としていた。

 13世紀半ばにスタッツホルメン島を丸太の柵で巡らし、砦として築いた「丸太の小島」(スウェーデン語でStockholm)がストックホルムの起源であり、ガムラ・スタンとしての都市の始まりである。
 島の南北に橋を架けることによって海外貿易の大型船には小島の前で停泊を強制し、内陸との交易はガムラ・スタンに集中させることが出来た。すなわち海峡交通を完全に掌握し莫大な通関収入を手にすることとなり、次の砦としての役割は隣のユールゴーデン島(Djurgården)が担うこととなった。
 南のセーデルマルム(Södermalm)島は、交易が拡大するに従い倉庫の役割を果たしていたが、やがては低所得層の人々が住む住宅地域へと変わっていった。現在はストックホルムでもトレンディーな地域と様変わりし、個性的で魅力的な地域となっている。

 街の印象はヘルシンキの「赤い石の町」とは対照的な「黒い石の街」で、道路の舗石も縁石も、多くの建物の基礎石も黒い花崗岩である。市街の主要交通はトラム(市街電車)・バス・地下鉄、さらにはフェリーボートと多彩である。
 岩盤むき出しと思われる島々を結ぶ地下鉄の深さには驚きで、地盤がとても頑強な岩でできていることから、トンネルはコンクリートで天井や壁を固めることはせず素堀りのままと思われる。駅の構内の天井もデコボコの岩盤むき出しの大空間であるが、Kungsträdgården駅構内を初めとしたいくつかの駅では、その岩肌にアーティストによるペイント仕上という大胆なしつらえである。 しかし南のSkogskyrkgården駅まで乗った限りでは、地下の路線は島の中だけで、海を渡ったら高架鉄道となっていた。参考までに地下鉄マップはこちらから。


ストックホルム市庁舎 (Stadshuset)

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 2010.7.13 鉛筆・透明水彩

 中央駅のある繁華街(ノッルマルム:Norrmalm)の西にあるクングスホルメン島(Kungsholmen)の南東端に、メーラレン湖(Mälaren)に浮かぶように建っているのがこの市庁舎で、他の北欧諸国と期を一にして興った運動「ナショナル・ロマンティシズム」の傑作として知られた建物である。
設計はラグナル・エストベリ(Ragnar Östberg 1866-1945)で、1909-1923年に建設された。

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右手の入口を潜るとこの中庭に。左アーケードを横切るとメーラレン湖を望む庭園に続く
2010.7.13 鉛筆・透明水彩

市庁舎に入る唯一の入り口

 アーケードの柱以外はほとんど赤レンガで出来た建物だが、窓・扉・石畳・・・と近づけば近づくほどそのデザインは多様で、暗号か?と思われるようなレンガ積模様も仕込まれている。アーケードの石柱も個性的で、全身像レリーフのものも紛れ込んでいる。

1階平面図

 中庭から弓形に張り出した正面階段を登ると、内部は毎年ノーベル賞受賞の祝賀パーティーが行われる「青の間」で、中庭と対比させた大広間が屋根付き中庭として配置してある。「青の間」と言ってもなぜか?総赤煉瓦造りで実態は「赤の間」である。ガイドの話では下地のレンガだけでも充分きれいなので、そのままとした(多分そんな意だと思う)とのこと。そして計画時の名称はそのまま残されたということのようだ。そのホールの大階段を上がると、ノーベル賞授賞式に舞踏会が催される「黄金の間」に入る。しかしBlue Hallとは大違いで、金色のモザイクタイル仕上げという豪華さである。費用が掛かりすぎて「青の間」に回らなかったのが本当の理由のようだ。
 それから市議会議場やその他の部屋を巡るのだが、ふと窓から外を眺めると見事な景色である。目の前のメーラレン湖と対岸のガムラスタン(旧市街地)や高台に見えるセーデルマム(新市街地)が手に取るように一望できるのだ。

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2階から見たメーラレン湖。 2010.7.13 鉛筆・透明水彩

 窓から外を見ると肖像を掲げた記念柱は湖に浮かぶ船の舳先のようだ。その先にあるのが旧市街で、蜘蛛の巣(レース状)の尖塔の教会(リッダルホルム教会)がよく見える。その左奥の尖塔はドイツ教会だろうか? クレーンで工事中の辺りはバルト海とメーラレン湖とを物理的に切り離す仕掛け(閘門)のあった辺りだろうか。

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ガムラ・スタン旧市街 (Gamla Stan)

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ストックホルム旧市街の島(赤マークはリンクしてます)
ここにマウスを乗せると17世紀中頃の島(想像)を表示
当時の建物がそのまま残っていることがよくわかる

貴族の館前からリッダルホルム教会を望む 大聖堂に向かう坂道 王宮前の広場からオベリスクと大聖堂を見る カフェ広場?ではなくて鉄の広場! Riddarholmskyrkan(蜘蛛の巣のような尖塔がユニークなリッダルホルム教会) Storkyrkan(ストックホルム最古の大聖堂) Tyskakyrkan(ドイツ商人たちが造ったドイツ教会) Riksdagshuset(国会議事堂) Kungliga Slottet(王宮) Stortorget[The Large Square](大広場) Järntorget[The Iron Square](鉄の広場)

 13世紀半ば、ストックホルムが初めて築かれたのがスタッツホルメン島で、たった500m四方程の小さな島一帯が「ガムラ・スタン(旧市街)」と呼ばれている。
 地形を見てみると、北側には王宮をはじめ大聖堂やドイツ教会などの歴史的建造物が点在し、当時から残された石畳が縦横に走っている。 大聖堂や大広場あたりを頂点にして四方に坂道が海に向かって下っている。 下った先の道は等高線のようにして西側の道
(Västerlånggatan"Western Long Street")と東側の道
(Österlånggatan"Eastern Long Street")で島を取り巻いている。当然車が通れる道は限られ、多くの狭い小道は両側にびっしりと当時のファサードをとどめた建物で埋め尽くされている。

 現代の自動車交通網は西側の鉄道・高速道路と東側のかつては海岸縁であったSkeppsbron("The Ship's Bridge")を旧市街とは関係なくバイパスが通り、この中世の島は未だ目を覚ますことなく当時の姿を留めている。

リッダルホルム教会 (Riddarholmskyrkan)
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貴族の館前からからリッダルホルメン島を望む 海だった橋の下は、南北を繋ぐ鉄道と高速道路が走る
2010.7.13 鉛筆・透明水彩

 市庁舎からよく見えた尖塔がこの教会のものである。 ガムラ・スタンの西に浮かぶリッダルホルメン島(Riddarholmen"The Knights' Islet") のこの教会は蜘蛛の巣のような尖塔がユニークで、一目で見分けられる。大聖堂と共に、もっとも古い教会の一つでもある。
 13世紀にはフランシスコ会修道院だったが、その後の宗教改革で改宗され、プロテスタント教会に改められた。蜂の巣(レース模様?)の尖塔は1835年の落雷で壊れてから鋳鉄製の物に変えられたものとのこと。
 1634年にグスタフ2世が埋葬されてから、スウェーデン国王、王妃、そして貴族の墓も、と王室ゆかりの埋葬教会となっている。

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石畳の旧市街に、車が進入できる数少ない道
 (Storkyrkobrinken "Slope of the Great Church")
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大聖堂への坂道(Storkyrkobrinken)から大聖堂(Storkyrkan)を望む 2010.7.13 鉛筆・透明水彩

 この石畳の坂道は王宮前広場に入れる主要道路なので、道幅は広く自動車が進入可能だ。しかし一方交通と言うことはいかにこの旧市街では自動車が不必要な乗り物かを示している。背後にそびえる高い塔はストックホルム最古の大聖堂。

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大聖堂 (Storkyrkan "the Great Church")

ストックホルム最古の教会

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右に見える建物は意外と質素な王宮 2010.7.13 鉛筆・透明水彩

 オベリスクを正面にし背後には塔を背負っている建物が、1279年に建立されたストックホルム最古の教会である。これまで幾度か改築され、現在の内部は後期ゴシック様式で外観はバロック様式となっている。このスケッチポイントの背後は王宮前広場で王宮入り口を守る守衛兵を見るための観光客でいっぱいだ。

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カフェ広場?ではなくて 鉄の広場 (Järntorget "The Iron Square")
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 2010.7.13 鉛筆・透明水彩

広場のサモワール?

 Västerlånggatan("Western Long Street")通りとÖsterlånggatan("Eastern Long Street")通りとが合流する地点は建物で囲まれた広場となっていて、テーブルと椅子・パラソルがあちこちに開いて賑わっている。そして広場の中央には鋳鉄製の立柱が記念碑のように建っていて、テーブル設置の場所確保のためロープで囲まれている。立柱には蛇口のようなもの、汲みだしハンドルのようなもの・・・・左手の建物はちょっと知れたパン屋さんだし、喫茶サービスのための湯沸だろうか?
 しかし、のちにいろいろ調べてみたら意外な昔のことが分かった!

 ここは王宮広場(Stortorget)に次ぐ古い広場でほとんど同時期に造られている。はじめは「穀物広場」と呼ばれ、後に「鉄の広場(Järntorget)」と改名(1498)されている。かつてはメーラレン湖奥の内陸部から穀物や鉄がこの島の港まで運ばれ、陸揚げされ、この広場で検量・点検・保管する場所だったのだ。 正面の建物はかつてはVaghuset(計量館"Scales House")と呼ばれた建物で、検量後の保管倉庫であった。17世紀には現在の建物・Södra Bankohuset("The Southern Bank Building"写真参照)となって20世紀初頭まで役割を担っていたようである。その建物の両脇を通る路地を西に下ると、当時は波止場であったSkeppsbron( "The Ship's Bridge")通りに突き当たり、荷積み・出港と手際よく処理されたものと想像される。
 そして広場中央の立柱は「お化けサモワール」ではなく、かつて不正防止のために公開で計量していた大きな「秤」だった!

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旧市街の狭い路地(Mårten Trotzigs gränd)

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 2010.7.13 鉛筆・透明水彩

 この「鉄の広場」の近くにモーテン・トローツィグ・グレン(Mårten Trotzigs Gränd)というストックホルムで、そしてガムラスタンで最も道幅が狭いといわれている路地がある。入り口はベステルロングガ−タン通りに面して立派な門が構えてあって、いかにも私有地らしく見えるが通行は自由だ。閉所恐怖症の人ならためらいそうな奥深い階段で、途中で両手を広げれば充分に届く幅だ。
 等高線のように反った表通りに面して建物が隣り合って並ぶのだから、所々でこのように撥型の緩衝地帯が発生する。さらに表通りと裏通りとの高低差を解決するために奥狭まりの階段となってしまい、まさにこの場面は坂道の多い街の縮図である。

 夜ともなると建物に取り付けられた街灯がともり、対面する外壁には照り返しの濃淡が現れ、昼間はうす暗い路地でも、きっと心地良いパブリックスペースに変身するのだろう。

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エステルマルム市営市場 (Östermalms Saluhall)

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 2010.7.13 鉛筆・透明水彩

 スウェーデンやフィンランド各都市にある市営市場の先駆けとなった食品市場を見付けた。1888年に銀行家たちが資金を出して建設したもので、時代は工業化が進んだ19世紀末、産業革命による社会の歪みがクローズアップされ、新しい芸術運動が興る前夜である。外壁の意匠にナショナル・ロマンティシズムの香りを感じるのは、その時代の空気を予感していた建物だったということだろうか。建築家はこの設計にあたりヨーロッパの煉瓦と鋳鉄に注目し、外壁は赤煉瓦による組積造、内部の空間は鋳鉄製丸柱と形鋼によるトラス梁という組合せで造られている。エッフェル塔の建設(1887-1889)真っ直中の時代である。
設計はイサーク・グスタフ・クラソン(Isak Gustaf Clason 1856-1930)、構造はカスパー・サラン(Kasper Salin 1856-1919)

参考:エステルマルム市場ホームページ

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王立演劇劇場 (Kungliga Dramatiska Teatern)

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 2010.7.13 鉛筆・透明水彩

 スカンセン野外博物館に向かうトラムの待ち時間に駅前に建っているアール・ヌーボーの建物を描いてみた。古色蒼然の建物にはピカピカに磨かれた金色装飾と鮮やかな幟がはためき、華やかな雰囲気を街角に醸し出している。始めはオペラ劇場か?と思ったが、あとで調べてみたら演劇劇場だった。この劇場はかつてはグレタ・ガルボ、イングリッド・バーグマンなどの大スターが舞台を踏み、イングマール・ベルイマン監督もここの演出家だったとのこと。
設計はフレデリック・リーリクヴィスト(Fredrik Lilljekvist 1863-1932)で、1908年に完成している。

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スカンセン野外博物館 (Skansen)

 この野外博物館はユールゴーデン島(Djurgården)にある。このユールゴーデンとはDjur(動物)とgården(庭園)、すなわち動物園という意味で、いろいろな博物館・遊園地・水族館・・・とランドマークが沢山そろった市民の憩いの場となっている。

 スカンセン(Skansen)とは 小さな砦 という意味だそうで、17世紀頃、それまでの砦であるガムラ・スタンからこのユールゴーデン島に砦の役目が移された。現在ではスカンセンというと野外博物館のことを示している。
 この野外博物館は、近くにある北方民族博物館の野外部としてできたそうで、創設者は歴史学者?アルツール・ハゼリウス(Artur Hazelius)で、1891年に開設された。市民のピクニックの場所でありサマーコンサートも行われるアトラクションの場所でもある。動物園ではムース(へら鹿)という北欧特有の動物達にもお目にかかれた。しかし私的に興味をそそられるのは伝統的な生活を保存・展示しているスカンセンで、1600年代の農家・ラップ人のテント・領主の邸宅・木造の教会・・・など、スウェーデン各地から150軒以上の家屋が集められていることである。そして当時の商店・工房がパン焼き・ガラス・織物の工房・・・実演している様はタイムスリップしたかのようだが、その中のほんの一部をスケッチしてみた。

モラ農場 (Mora Farmstead)
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 2010.7.13 鉛筆・透明水彩

説明板から引用、CG処理

 この農場はノルウェイに接するダラルナ(Dalarna)県中央部モラ(Mora)町にあったもので18世紀末の生活を示している農場だという。数ある建物は各々目的別に建てられていて、住居部分は正面の主屋と左手の老人用住まいの二棟だけであるが、納屋は穀物や食品、衣類が置かれるだけでなく、夏には寝部屋としても利用されたそうだ。右手に見える倉庫は1320年頃からの建物で、このスカンセンで一番古い建物だ。それら全ての建物は豊富な木材をラフに削った丸太小屋で、屋根は木材を敷き詰めた上に、白樺の樹皮を防水層として敷き並べ、半割にした丸太で押さえたものである。

アルブロス農場 (Älvros Farmstead)
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 2010.7.13 鉛筆・透明水彩

説明板から引用、CG処理

 この農場はモラ農場のあったダラルナ(Dalarna)県の北側に隣接するヘルイェダーレン(Härjedalen)県アルブロス(Älvros)町にあったもので、典型的な北スウェーデンの農場である。
 いくつかの建物で構成されていて、主屋・馬小屋・家畜小屋・干し草小屋・納屋・・・と中庭を取り囲んでいる。こちらの建物も丸太小屋で、屋根は白樺の樹皮と木材で出来ている。19世紀初期にはこのような形の農場がスウェーデン北部ではよくあったようだが、個々の建物ついてはもちろんそれよりも古いものである。
 鍛冶場とサウナは火災予防の上からも主屋ウラに別棟で配置されている。サウナは名ばかりで、亜麻、トウモロコシ、肉の乾燥に使われていたようである。サウナはフィンランド文化だからスウェーデンでは深くは定着してなかったということだろうか。

セグロラ教会 (Seglora Church)
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 2010.7.13 鉛筆・透明水彩

この教会は「スウェーデンで一番人気のある結婚式を挙げる教会だ」と入口説明板で紹介していたが、いわれるまでもなく素敵な建物である。 スウェーデン南西部ヴェスターゲートランド(Vastergotland)州(?)に建てられ(1730年)、塔の部分は1780年に付け加えられたものだという。その後1916年にスカンセンに移築したものだが、北欧ならではのすべて木造という教会である。屋根と外壁は樫のシングル葺でタールと混ぜ合わせた伝統的な赤色塗料で保護塗装をされているのだが、このベンガラ色が森の中によく映り外観に引き込まれてしまう。
 内部は板張りによる半割の樽を被せたようなバレルボールトで、水漆喰塗りの上に華やかに着色されていて1735年に画かれたものだ。
 背後上部には本格的なオルガンが設置されていて、Netで調べてみたら数々の録音があるようだ。CDも出されているが音響的には空間がちょっと寂しいので期待はしない方がいいのかもしれない。しかし長い歴史を引きずってきた空間に身を置いて、昔と変わらずに響く音色を聞けるスウェーデンっ子は結婚式抜きでも幸せ者である。

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市民農園 (Kolonilott)

 メーラレン湖畔は北緯60°辺りでも希有な農耕可能地域ということの実例をみた。市街化されているストックホルムの中での住宅地、南隣のセーデルマルム(Södermalm)島で見付けた小さな農園はドイツだったら[Kline Garten・小さな農園]と呼ばれるものだ。当地ではKolonilottという市民農園で、都市部の住民が手軽に農業に携われるものだ。我が国でも最近の菜園ブームで脚光を浴びているが、ここストックホルムの最初の市民農園が開設されたのは1904年というから、はや1世紀の歴史があるということになる。
 ここでは日本とスウェーデンの土地制度の違いがはっきり分かる。ストックホルムの75%は王室か地方自治体の所有であり、建築は都市計画で詳細に決められているから個人が勝手に建てることは難しく、環境の厳しさも手伝ってか集合住宅が基本である。庭といっても白樺の生えた共用中庭で、ベランダは日光浴と鉢植えを置く程度だ。そのため市が都市計画の一部として市民農場を計画している。敷地は地中埋設の電気と(冬季止められるそうだが)水道を整備したものである。 その施設が市内だけで80ヵ所にも及ぶという。

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 2010.7.14 鉛筆・透明水彩

 地下鉄駅から地上に上がると当然繁華街だが、裏通りに回ると広々とした公園に集合住宅が建ち並んでいる。その端にあったのがこの市民農園群で、よく見ると裏山は露出した大きな岩盤のようである。すなわちその山の裾野に沿って造られているのがこのスケッチのような市民農園で、その各々には小さな木造小屋がカラフルに塗装され、零れんばかりの花が育てられていた。小さな電柱が立っていたがあれは電話線のものだろうか?

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左手は市民農園、右手は団地の緑地 2010.7.14 鉛筆・透明水彩

 市民農園前の道は朝がいそがしい。ジョギング・サイクリング・散歩・・・・と朝食前のトレーニングだろうか。
 道の先に見えるのは湖の先にある住宅街だが、煙突がちょっと不思議な形をしている。蛇が巻き付いた形は何を表しているのだろうか?(ねじり棒? そういえばフィンランドでも見かけた!)

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森の教会墓地 スクーグスチルコゴーデン(Skogskyrkgården)

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森の教会墓地全体図 真上から見ると魚のような形!(航空写真:Google map 提供)

大きな十字架はこの墓地のシンボル 森の礼拝堂はこの墓地の最初の、そして最小の礼拝堂 ビジターセンター 復活の礼拝堂

 ストックホルム南部の松の木が茂る古くは砂利の採石場だった場所を1914-1915年に「ストックホルム南墓地国際コンペティション」で、当時まだ無名であった若き建築家グンナール・アスプルンド(Gunnar Asplund )とシーグルド・レヴェレンツ(Sigurd Lewerentz)の協同応募案が選ばれた。
 約25年間(1915-1940)にわたって造成された100ヘクタールの土地に12万人が眠るこの墓地は1994年には世界遺産に指定されている。

長い石畳と大きな十字架
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 2010.7.14 鉛筆・透明水彩

 入り口からまっすぐな石畳を歩く。右手は広々とした草原が広がり、左手の低い白壁の裏は死者が眠る墓地。ほどなくこの花崗岩の十字架にたどり着く。会葬者は大きな十字架の横を通り過ぎ、さらに奥の森の中へと向かっていく。 この400m程の石畳の道が、今を生きている者・誰にでも訪れる死を意識させる、そんな十字架の道だ。

信仰の礼拝堂・希望の礼拝堂・聖十字架の礼拝堂・森の火葬場
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 2010.7.14 鉛筆・透明水彩

 火葬場を中心にして、いくつかの礼拝堂を配置するという計画は、効率的・実用的な機能主義によるものだろうが、赤い皮膚をまとった建物を「森」という大自然と対峙させることにより、森・自然へ帰っていく人間の運命・摂理を直感的に悟らせる意図を感じる。この一帯の設計はアスプルンドにより1940年に完成というから、彼の亡くなる年の作品であり、この墓地の仕上作品でもある。(スウェーデンはキリスト教信仰なので本来は土葬だったが、衛生上の問題から19世紀末には火葬が認められている。)

森の礼拝堂

この礼拝堂はスクーグスチルコゴーデンの施設の中では最初にして、最小の礼拝堂だ。グンナル・アスプルンドにより設計され、1920年に完成している。

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 2010.7.14 鉛筆・透明水彩

 ギリシャ建築のペディメント(切妻)を連想させるゲートとその奥の森の中にひっそりとたたずむ礼拝堂。

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 2010.7.14 鉛筆・透明水彩

扉の鍵穴(上図:拡大)

蛇と髑髏の中扉

 ギリシャ建築が木造だった頃のドーリア式列柱とそれに支えられたシンプルな寄棟屋根で構成され、いたって親しみやすい形である。ヴァイキング時代が終わる頃からキリスト教の布教が始まったという北欧独特の木造教会(stavkirke)を思い出させるからだろうか。
 鉄板で覆われた正面扉は閉じられていて、髑髏のマークが拒んでいるが・・・よく見ると鍵穴だ。しばらくしたら幸運にも管理人が開けてくれたので中を拝見することが出来た!
 次の扉は見事な模様をした鉄扉で、室内が覗える。しかしその前にこの扉模様に注目してしまった。ヴァイキングが舟の舳先に取りつける幸運の印として尊ぶドラゴンか、はたまた邪悪な蛇か、紐のように長い動物の唐草模様で、それ自体が髑髏のような形にも見え、しつこいようにその上に髑髏!が取りつけてある

礼拝堂内部

 内部は正方形の平面に円形に取り巻くドーリア式列柱に支えられた半円ドームが覆っていて、頂部の円形のトップライトから光が注いでいる。その場所は祭壇を中心にするのではなく、死者と天空を中心とした別れの場だった。キリスト教らしくない、北欧本来の自然観を見付けた気がした。

 帰宅してからしばらくこの礼拝堂が頭から離れなかった。
 しばらく月日が経ってから気が付いた。今年の春に訪れた北海道函館のトラピスチヌ修道院にすてきな
「旅人の聖堂」と名付けられた礼拝堂があったことを。たしか香山壽夫氏の設計と記憶しているが・・・。

ビジターセンター
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 2010.7.14 鉛筆・透明水彩

 1923年完成当時は管理職員とサービス用建物だったが、1998年に現在のようなビジターセンター・インフォメーションセンター・カフェテリア・展示会場として利用されている建物群である。 屋根も外壁も青〜といっても緑青色で、形も含めていかに目立たないようにしているかがよくわかる。
設計はアスプルンドによるものだ。

復活の礼拝堂と七井戸の小道
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 2010.7.14 鉛筆・透明水彩

ドアアイから覗いた写真

 この静かな道は「七井戸の小道」と名付けられていて、888メートルの距離があるという。なぜ七井戸なのかは分からないが、この長い道中に七つもの井戸があるのだろうか?
 小道の両側は大木の針葉樹並木で、あちこちに墓石が見える。ここの墓地では豪華な墓石は見当たらず、皆簡単な石のプレート程度のものが置かれただけである。その道の正面に見えるのが「復活の礼拝堂」というチャペルだ。このまっすぐな道は別れの儀式へと向かう弔問客が通る道として造られているのだ。
 礼拝堂は古典的な神殿ともいえるギリシャ建築を摸した堂々たる建物で、長い小道の先からでも認識できるようにだろうか、小さな面積に比して極端に高いプロポーションの列柱を前面に表している。「森の礼拝堂」の周辺への思慮深さと較べると何と豪華な構えであることか。その豪華さが好評なようで、森の礼拝堂よりも人気があるそうである。
 あいにく中には入れなかったが、親切にも覗き穴があったので、そこからデジカメでショット一枚。祭壇もギリシャ建築に倣いペディメントをかざしたものだが、森の礼拝堂とは違って円陣を張ることはせず、普通の祭壇中心の配置となっている。設計はシーグルド・レヴェレンツにより、1925年に完成している。

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参考文献:
 「物語 北欧の歴史」 武田龍夫著 中公新書


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