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柳沢 吉保
(やなぎさわ よしやす)

(万治元年(1658) - 正徳4年(1714))


 江戸時代前期の幕府側用人・譜代大名。はじめは小身の小姓であったが、第五代将軍徳川綱吉の寵愛を受けて、元禄時代には大老格として幕政を主導した。官位は従四位下・左近衛権少将・出羽守(でわのかみ)、後に美濃守(みののかみ)。武蔵国川越藩主、甲斐国甲府藩初代藩主。郡山藩柳沢家初代。
 家系は清和源氏の流れを引く。河内源氏の支流甲斐源氏武田氏の一門にて、武田氏武川衆に属した家柄。武田氏滅亡後、武田旧臣の多くが、徳川家康の家臣に登用され、柳沢氏も徳川氏の家臣となった。

【 生 涯 】
 万治元年(1658年)12月8日、上野国館林藩士・柳沢安忠の長男として生まれる。母は安忠の側室・佐瀬氏。長男ではあったが父の晩年の庶子であり、柳沢家の家督は姉の夫(父・安忠の娘婿)である柳沢信花が養嗣子となって継いだ。
 通称は十三郎、のち弥太郎。名も房安、佳忠、信本と頻繁に改名。館林藩主をつとめていた綱吉に小姓として仕える。延宝3年(1675年)家督相続。相続を機に保明(やすあき)と改名した。
 延宝8年(1680年)、4代将軍徳川家綱の後継として、弟の綱吉が将軍となるに随って保明も幕臣となり、小納戸役に任ぜられる。綱吉の寵愛により頻繁に加増され、貞享2年(1685年)には従五位下出羽守に叙任。元禄元年(1688年)、将軍親政のために新設された側用人に就任。禄高も1万2000石とされて大名に昇る。2年後にも2万石加増。元禄3年(1690年)、従四位下に昇叙。元禄7年(1694年)1月には7万2000石とされ、武蔵川越藩主(埼玉県川越市)となる。同年12月には老中格。並びに侍従の官職を与えられた。同11年(1698年)、大老が任ぜられる左近衛権少将に転任する。
 同14年(1701年)、将軍綱吉の諱の一字を与えられ、吉保と名乗る。同時に出羽守から美濃守に遷任し、松平の姓を許された。宝永元年(1704年)、綱吉の後継に甲府藩主徳川家宣が決まると、家宣の後任として甲府藩(山梨県甲府市)15万石の藩主となる。甲府は江戸防衛の枢要として、それまで天領か徳川一門の所領に限られていたため、綱吉が吉保をほとんど一門も同然とみなすほど激しく寵愛していたことがうかがえる。また、遠祖である武田氏ゆかりの地を賜った吉保の感激も大きかったと思われる。
 さらに側室に名門公卿の正親町公通の妹を迎えていた関係から朝廷にも影響力を持ち、元禄15年(1702年)に将軍綱吉の生母桂昌院が朝廷から従一位を与えられたのも、吉保が関白近衛基煕など朝廷重臣達へ根回しをしておいたおかげであった。宝永2年(1705年)、家門に列する。宝永3年(1706年)には大老格に上り詰めた。
 しかし宝永6年2月19日(1709年3月29日)、権勢の後ろ盾とも言うべき綱吉が薨去したことで、幕府内の状況は一変した。代わって新将軍家宣とその儒者新井白石が権勢を握るようになり、綱吉近臣派の勢いは失われていった。こうした状況を敏感に察知して6月3日(7月9日)、自ら幕府の役職を辞するとともに長男の吉里に柳沢家の家督を譲って隠居し、以降は保山と号した。結果、その後吉里の領地は甲府藩から郡山藩に移されたものの、柳沢家15万石の知行が減封されることはなかった。
 一方他の綱吉近臣の松平輝貞や荻原重秀らは、なおも地位に残ろうとしたがために新井白石らと対立して免職の上減封の憂き目にあっていることと比較すると見事な身の処し方だった。
 隠居後は江戸本駒込(東京都文京区本駒込6丁目)で過ごし、綱吉が度々訪れた六義園(りくぎえん)の造営などを行った。正徳4年(1714年)11月2日、死去。享年57。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


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