旧奈良家
秋田県中央海岸地帯に見られる典型的な両中門造りの民家として有名な建物で、男鹿半島付け根に位置するみずうみ(男潟)を南にして建っている。
最寄り駅(JR奥羽本線「追分」)から歩いていくとまもなく小泉潟公園に至り、更に西側の湖(男潟)の縁に沿って歩いていくと駅から30分ほどで到着する。
このアプローチはこの町全体を回遊式大庭園に見立て、壮大な気分にさせ大好きなコースで、はや3回目の訪問となった。('06) 初回は雨の中、2度目は屋根の葺き替え中とチャンスには恵まれなかったが、3度目の訪問ではなんとか天気に嫌われることもなく、より整備された状態の建物が見られた。
入口の大戸から右手に馬屋を見て広い土間に入る。直径450mmもある正八角形の柱が土間の中心に立っていて、この土間がこの建物のすべてを語っているように思われる。 傍らの大きな囲炉裏とかまどは使用人を含めた作業場の設備であろうがそれだけでなく貴重な労働力である馬を思いやった厳冬期での暖房装置と想像される。 この屋敷は藩主、奉行など上客を迎える必要からか農作業にとっての貴重な馬屋が通常では南に配置されるものを北側に追いやられているのであろうか?(註)
「おえ」とは「おうえ」が語源と考えられるが「土間」に対して「お上」ということで接客用の部屋になる。 更に奥の「中座敷」、「上座敷」はこの奈良家の上層農家としての格式の高さを表したものである。 庭に面する縁側は積雪時の不自由さを払拭する装置として建物内に土縁を配し、腰までの板戸を巡らすことで冬季でも縁側を機能させる工夫がなされている。 以前これと同じ形式の土縁を角館の武家屋敷でも多く見た記憶がある。町屋での雁木・小店に似た民家での冬の装置といえるだろう。 また貴人を招き入れるために土間とは別に玄関を設けてある。しかし平面で見る限りではこの玄関と寝間は後に付け加えられたものと推察されるが、中座敷東側の広縁の先に式台付の中門があるというのが本来の姿なのかと想像する。
註 東北地方の一般的な曲屋では主屋の南側にL字型に突き出した形で馬屋を配して貴重な馬を大事に扱っていると思わせる平面が多い。
考察
旧奈良家の両中門造りは寝間と玄関が増築されることによって出来上がった形である。 しかし方位を念頭に増築前の平面を見ると、東に厩を配した直屋(すごや)造りの南側に客間を突き出した中門造りと見ることも出来るし、東を南に見立てて曲屋造りに貴人用の中門を付け加えた形と理解する事も出来る。
旧奈良家住宅は、JR奥羽本線追分駅から東北に約2kmの男潟北岸に位置する。 奈良家は、弘治年間(1555〜1558)に大和国(現在の奈良県)の生駒山麓小泉村から現在の南秋田郡昭和町豊川に移住し、江戸時代初期には約10km南にある現在の地に移転したと伝えられている。
現在の旧奈良家住宅は、江戸時代中期の宝暦意年間(1751〜1763)に9代善正(喜兵衛)によって建てられた。このときの棟梁は土崎の間杉五郎八で、3年の歳月と銀70貫を費やしたといわれている。建物の両端が前面に突き出す形は両中門造りとよばれ、秋田県中央海岸部の代表的な農家建築だ。奈良家の場合は、正面左側が上手の中門(座敷中門)、右が下手の中門(厩中門)になっている。両中門と主屋を含む延建築面積は24.05平方米(128.5坪)ある。
茅葺き屋根や屋根や板壁、鉋仕上げ・チョウナ仕上による部材などから、いかにも古風な民家を伺うことが出来る。それと共に、入母屋に構えた厠中門の屋根や、書院造り風の座敷などからは、県内屈指の豪農としての格式の高さを知ることが出来る。
旧奈良家住宅は、秋田県中央海岸部の大型農家建築として、よく初期の形態をとどめ、また建築年代が明らかな点でも貴重な民家であり、昭和40年5月29日に国の重要文化財に指定された。


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