津軽、飯詰から岩木山を望む
津軽平野は本州最北端の平野である。 奥羽山脈の「八甲田山」や、津軽富士とも呼ばれる独立峰「岩木山」を源流として、かつて北前船で賑わったという十三湖までを豊富な水量の岩木川が流れ、津軽平野を豊かな穀倉地帯としている。その中流域に位置しているのが五所川原である。
この地に、代々津軽藩広田組代官所の手代を務めたのが「平山家」で、既に200年以上を経た当地方最古の建造物として岩木川河畔に居を構えている。
中門造りの主屋(左)と表門(右) 2004.8.14 鉛筆・透明水彩
現在の河畔は河幅も狭められ、屋敷との間には自動車交通も頻繁な道路と堤防とで隔てられ、往時の河岸は直には見られない。
主屋平面図
しかし表門(長屋門)の前には当時、川から引き込んだと思わせる堀があり、河川交通が主要な役目を担っていた事をうかがわせる。この表門は、津軽藩に対する功労により許されたものであり、主屋とともに重要文化財に指定されている。 主屋は寄棟の建物で、屋根頂部には煙出しを付け、役人を招くためだけに用意した玄関は巨大な中門造りとしている。東北地方で思い描く曲り屋の間取りは採ってないが、この形が津軽地方での共通して云えるものである。 今回は割愛したが、主屋に連なって明治の時代に増築された建物がある。柱、梁、欄間、鏡板等々総ケヤキ造りの、この地方では入手しにくいであろう材料で普請された建物である。 当時はこの地域でいかに威容を示した建物であったかが想像される。
「五所川原市史」より引用 昭和53年(1978)1月に重要文化財に指定されたこの住宅遺構は、五所川原市の代表的な文化財でもある。 平山家は代々湊村開村以来肝いり役を務め、代々藩の広田組代官所の手代、堰奉行、堤奉行、郷士などもつとめているが、主として農耕を業としていたようである。 主屋の建築年代については、「平山日記」によって、明和3年(1766)の地震により被害を受けたので、明和6年(1769)に主屋を再建したものであることが知られる。表門については、「平山家文書」により、藩主から特に許されて、天保元年(1830)に建てられたものとわかった。 主屋は桁行が17間で32.953m、梁間6間で10.455mであり、寄棟造(玄関部切妻造)茅葺の住宅である。東より7間までを土間部分とし、馬房7室と農作業用の「いなべ」「にら」「とろじ」に別れている。それに続いて「だいどころ」が取られ、さらに「じょうい」「なんど」「きたのざま」が家族の居住部として取られている。西よりの3間は接客部で、「げんかん〈式台)」を突き出して造り、「おもてざしき」「おくざしき」とを設けている。 表門は桁行が3.818m、梁間が1.818mの小さな長屋門で、東側に狭い番所を設けている。屋根は寄棟造の茅葺である。津軽地方の上層農家の規模や形式をほぼそのまま伝えているとみられることや、奥で寝室部が分割されていること、地震後の再建ということで、二重梁や蜘壁が使用されていることなどが特徴としてあげられる。 (引用終わり)
昭和53年(1978)1月に重要文化財に指定されたこの住宅遺構は、五所川原市の代表的な文化財でもある。 平山家は代々湊村開村以来肝いり役を務め、代々藩の広田組代官所の手代、堰奉行、堤奉行、郷士などもつとめているが、主として農耕を業としていたようである。 主屋の建築年代については、「平山日記」によって、明和3年(1766)の地震により被害を受けたので、明和6年(1769)に主屋を再建したものであることが知られる。表門については、「平山家文書」により、藩主から特に許されて、天保元年(1830)に建てられたものとわかった。
主屋は桁行が17間で32.953m、梁間6間で10.455mであり、寄棟造(玄関部切妻造)茅葺の住宅である。東より7間までを土間部分とし、馬房7室と農作業用の「いなべ」「にら」「とろじ」に別れている。それに続いて「だいどころ」が取られ、さらに「じょうい」「なんど」「きたのざま」が家族の居住部として取られている。西よりの3間は接客部で、「げんかん〈式台)」を突き出して造り、「おもてざしき」「おくざしき」とを設けている。 表門は桁行が3.818m、梁間が1.818mの小さな長屋門で、東側に狭い番所を設けている。屋根は寄棟造の茅葺である。津軽地方の上層農家の規模や形式をほぼそのまま伝えているとみられることや、奥で寝室部が分割されていること、地震後の再建ということで、二重梁や蜘壁が使用されていることなどが特徴としてあげられる。
▲Back to Map
天気の崩れる中、ようやくたどり着いた想い入れ多い家。 描いているうちに雨が降ってきて傍らの庇を借りてのスケッチだが絵の具が見事に雨に流されてしまった。 二つの中門構えであるが一つは自家用車乗り入れの駐車場と化していた。昔は田畑で働く馬が出入りするところを今の時代に適応した姿とみる。 裏庭の竹林はこの寒冷地域ではあまり見かけないものであるが、それに連なる大きな蔵がかつての家を物語っているように思えた。
「五所川原市史」より引用 俵元の地に約320年前に初代が開拓に入った旧士族のM家は、この地域の大地主で、屋号はチガイヤマである。山守により約180年ほどの前の建物と伝えられているが、チョウナ柱・転し根太・簡素な小屋組・梁組などからも19世紀初頭の建設と推定される。 南東向きの屋敷の西よりに建てられた主屋の座敷前に文庫蔵が、ダイドコロ(広間)・メンジャの裏側に米蔵が建ち、庭園は簡素ではあるが、大石武学流の趣がある。茅葺寄棟屋根の直屋の主屋には、トロジ前のヒヤシ・ダイドコロ(広間)前のナカノクチ・ジョウイ前の玄関の3ヶ所の出入口がある。間取りはダイドコロ(広間)・ジョウイ・ザシキの3居室列の喰い違い広間型であるが、ザシキ廻りは70年ほど前の増築である。キタザシキには仏壇・床間・違い棚・書院が設けられている。床の間の奥行きは2尺で、裏側に1尺の隙間があり、非常時の隠れ場所であったと伝えられている。土間境とザシキ境は雲壁入りの扠首組で、軒組は垂木を厚板で隠した「ノキイタ」である。 (引用終わり)
俵元の地に約320年前に初代が開拓に入った旧士族のM家は、この地域の大地主で、屋号はチガイヤマである。山守により約180年ほどの前の建物と伝えられているが、チョウナ柱・転し根太・簡素な小屋組・梁組などからも19世紀初頭の建設と推定される。 南東向きの屋敷の西よりに建てられた主屋の座敷前に文庫蔵が、ダイドコロ(広間)・メンジャの裏側に米蔵が建ち、庭園は簡素ではあるが、大石武学流の趣がある。茅葺寄棟屋根の直屋の主屋には、トロジ前のヒヤシ・ダイドコロ(広間)前のナカノクチ・ジョウイ前の玄関の3ヶ所の出入口がある。間取りはダイドコロ(広間)・ジョウイ・ザシキの3居室列の喰い違い広間型であるが、ザシキ廻りは70年ほど前の増築である。キタザシキには仏壇・床間・違い棚・書院が設けられている。床の間の奥行きは2尺で、裏側に1尺の隙間があり、非常時の隠れ場所であったと伝えられている。土間境とザシキ境は雲壁入りの扠首組で、軒組は垂木を厚板で隠した「ノキイタ」である。
2005.4.25 鉛筆・透明水彩
バス通りから徒歩で30分、周りはリンゴ畑、西に岩木山という見事な場所にあったが訪問した時は空き家同然の荒れ放題であった。市の文化財に指定(H12)され、市の管理下に置かれていたので中を伺うことが出来ず外だけを見学させてもらったが、放置された姿はなんとも痛々しい状態であった。 しかしその建物の軒の高さ、桁行きの長さは想像以上のもので圧倒される建物だ。単純な平面に必要最小限の出入り口(中門)は豪雪地方の民家の質実剛健を旨とする典型といえる。 近隣の方の話では、近く公園に移築、公開される予定とのことである。
(東奥日報社説20040115抜粋) 市では狼野長根公園で、市文化財で、西北五では最大級のかやぶき屋根の民家「楠美家住宅」を移設、史跡公園として整備する。 (東奥日報20050810抜粋) かやぶき民家、楠美家の解体進む 五所川原市高野北原にある市文化財「楠美家住宅」の解体移築工事がこのほど始まった。9月ごろまでかけて家屋を取り壊し、同市持子沢の狼野長根公園に柱や骨組みなどの建材を運び、年度内に資料展示施設として復元する。 同住宅は、製材業を営んでいた楠美家が1887(明治20)年ごろに造った木造2階建ての豪邸。戦火による焼失を免れ、西北五地方最大級のかやぶき屋根民家として2000年に市文化財に指定された。建物1階は417平方メートル、2階が90平方メートルと広大で、楠美家の繁栄ぶりがしのばれる。 屋根は老朽化が著しいため、すべてふき替えする。施工する上野建設(中泊町)の古川一敏専務は「長年、全国の旧家で工事してきたが、これほど大きなかやぶき屋根は見たことがない。忠実に復元できるよう努めたい」と語った。
市では狼野長根公園で、市文化財で、西北五では最大級のかやぶき屋根の民家「楠美家住宅」を移設、史跡公園として整備する。
かやぶき民家、楠美家の解体進む
五所川原市高野北原にある市文化財「楠美家住宅」の解体移築工事がこのほど始まった。9月ごろまでかけて家屋を取り壊し、同市持子沢の狼野長根公園に柱や骨組みなどの建材を運び、年度内に資料展示施設として復元する。 同住宅は、製材業を営んでいた楠美家が1887(明治20)年ごろに造った木造2階建ての豪邸。戦火による焼失を免れ、西北五地方最大級のかやぶき屋根民家として2000年に市文化財に指定された。建物1階は417平方メートル、2階が90平方メートルと広大で、楠美家の繁栄ぶりがしのばれる。 屋根は老朽化が著しいため、すべてふき替えする。施工する上野建設(中泊町)の古川一敏専務は「長年、全国の旧家で工事してきたが、これほど大きなかやぶき屋根は見たことがない。忠実に復元できるよう努めたい」と語った。
スケッチした次の年(2006.4.)この公園前を通過する機会があった。 まさにこの建物の移築工事の、ほぼ完成の姿を車中から窺い知ることが出来た。チャンスがあったら生まれ変わった姿を見てみたいものだ。
「五所川原市史」より引用 高野で製材業を営む楠美家は、江戸時代は藩と関係があったと言われ、主屋は112年前の明治25年頃に秋田から材木を買って建てられた茅葺寄棟屋根の桁行15.5間、梁行6.5間、軒高438cmの外観・間取りともに建築当時の様子をよく残した大型民家である。 主屋の構えは左側にドマがある左勝手で、トロジグチ・オオド・ゲンカン・ザシキのゲンカンと4ケ所の出入口があったが、昭和30年頃にザシキのゲンカンがコザシキに改造されている。間取りはダイドコロ(広間)・ジョウイ・ザシキの3居室列で構成された喰い違い広間型で、ザシキ奥にブツマがある。ダイドコロ(広間)の囲炉裏は4尺×8尺と大きく、ダイドコロ(広間)裏側にミンジヤ(流し)・アダコ(女性使用人)のヘヤがあり、土間上・居室列裏側上の2階は使用人の部屋で、コザシキ上には隠し部屋がある。両側から使える1畳ほどの大型流しや梁行6間の和小屋組の上に2間の扠首組が載る小屋組に秋田地方の特徴がみられ、材木だけでなく、大工も秋田からきたと推定される。 (引用終わり) ▲Back to Map A 家 五所川原の南東部で、津軽平野を挟んで西の岩木山と対峙した津軽半島の首部に位置する建物。 2004.8.14 鉛筆・透明水彩 その南西斜面に位置し、殆どが同一氏を名乗るこの地域の中でも飛び抜けて大きく立派な構えの屋敷であり、二重船竭「りによる奥行きの深い屋根の姿は積雪時でも大雪原に存在感を示すものと想像される。訪問したときはちょうど旧盆の時期でもあり来客も多く、突然伺ったのにもかかわらず座敷にお招き下さった。室内は立派な欄間をはじめとした繊細な作りと美術品で満たされ、仏間(仏壇ではない!)を床の間と並べて正面に配した佇まいは、この地域の長と思わせるものであった。 二重船竭「り 断面&見上げ図 鉛筆・透明水彩 「五所川原市史」より引用 「○○○」の屋号を持つ羽野木沢のA家は五所川原地方の大地主で、眼下に広がる水田を見渡す山裾に約1万坪の広大な屋敷を構えている。主屋は間口19間×奥行7間の平屋部分に2階をもつ大型住宅である。90年余り前に建てたと伝えられる明治30年代初頭の建築である。二重船竅iせがい)に化粧垂木を見せた軒組に少し起り(むくり)を持つ切妻屋根の外観は概ね建築当時の様子を伝えているが、今の生活に合わせるためにダイドコロ(広間)・土間廻りを中心に大幅な増改築が行われている。しかし、玄関からナカノマを通り、鷺の襖絵があるサギノマを経てザシキに至る鍵座敷廻りには手が加えられていない。ナカノマとサギノマの間の欄間は繊細な菱格子であり、ザシキの左手は仏間、右手には床・違い棚・書院が設けられ、縁側をはさんで大石武学流の見事な庭園に続いている。二階には床の間付の和室が5部屋あり、「キタノヘヤ」は8畳の続き間座敷である。細部の仕上げも瀟洒で優れたものが多く、明治後半の上層民家の様子を伝える遺構である。 (引用終わり) ▲Back to Map 津軽の板倉 五所川原から飯詰に向かってうろうろ歩いていて見つけた倉庫 2006.4.29 鉛筆・透明水彩 基礎がちょっと違うぞ? そう、土台が上下2重に廻っていて束が挟み込まれている。 秋田の水板倉と同じように池の中に建っていたものだろうか? さっそくそこの主人に伺ったところ、先代が約70年ほど前に飯詰から移築したもので池の中にあったかは分からないとのこと。 ・・ということは少なくとも1900年代初期に築造したものを、釘一本使ってない工法なのでプレファブ工法として再構築できたという、現代の人にとって重要なリサイクルのヒントを頂いた思いをした。 主人曰く「飯詰*註は城下町だからいいものはあっちにあるんだぁ・・・」 そう、いいものを長く使いたいものだ。 「くら」には「倉」と「蔵」の文字があり、「倉」からは正倉院を初めとする高床の倉を思い浮かべる。その他にも地面に直接置かれた板倉があり、かつては各地に緊急時の備えに穀物倉庫としてあったものだ。東北の地ではその板倉を時たま目にする。外壁は柱間なんと1尺程に縦繁にびっしりと建てられ、その間に幅広板を縦に落とし込んだ構造になっている。厳しい冬季の積雪に耐える構造と思われるかもしれないが、中に放り込んだ大量の穀物を支えるためと思われる。板倉に共通していえることは、基礎は固定されず礎石に土台を置いて床を多少浮かせ、換気に留意していることである。そしてその発展型が東北の米どころの水の上に浮かべてしまった「水板倉」である。 *註 後で気がついたことだが、飯詰という地域は 「青森県五所川原市 飯詰 」 と思っていたが「秋田県仙北郡美郷町 飯詰 」もあることを発見した。 秋田の地域は水板倉の地域なのでその秋田の飯詰を意味してたのか !!?それとも関係があるのか?・・・知りたいものだ。 ▲Back to Map N 家 飯詰は五所川原市内から東北に5キロほど離れたところに位置しているが、ここから北へ金木・十三湖方面、東へ陸奥湾に至る街道と二手に分かれる分岐点にあり、かつては活気ある街と思われる。 2006.4.29 鉛筆・透明水彩 当家はその街道に面して代々味噌・醤油の製造業を営んでいたが平成5年(6年?)には廃業してしまったとの事だ。 建物は明治19年の築造で、表の瀟洒な造りの雁木(当地ではコミセと言われる)に反して一歩内部に入ると奥まで続く広い土間とそれに面して連なる座敷があり、大断面の柱梁で構成されている豪快な町家だ。 また街道に面した蔵の窓の隈取りがモダーンで、当家の進取の精神をみた。 「五所川原市史」より引用 旧飯詰村中心部の間口22間の屋敷に建つN家は、梁行8間の妻入の大型町家で、間口11間のコミセの両端に土蔵と板倉を構えている。家伝によれば、初代は尾張の武士で、柏木村に落ち着いたことから、柏屋久之丞と名乗り、屋号は「柏屋」である。二代目から味噌の醸造を手掛け、幕末から明治維新にかけて財を成し、冬には今でもコミセに明り障子付の戸を立てている。 街道側はコミセ、格子、五段の束組をみせた小屋組が豪壮さと繊細さを表している。格子の奥にガラス戸が立てられ、更に建設当時のシトミ戸が残されている。 街道に面して、ミセ(居室側)と呉服を扱ったシタミセ(土間側)があり、ミセの上は2階である。ミセの間を通り奥まで続く幅約2間の通り土間に面して、チョウバ・チヤノマ・ダイドコロが並び、その奥はザシキ・ブツマである。座敷廻りには鶴・雀・扇・桃などの釘隠しが使われ、階段箪笥など商家らしい家具類が残されている。 (引用終わり) ▲Back to Map 飯詰の面白い屋根 飯詰地区で見つけた面白い屋根二題である。 左:お寺の屋根 右:兜造りの民家 2006.4.29 鉛筆・透明水彩 左のスケッチは茅葺屋根のお寺だが、その仕上に注目である! まさにモヒカン刈りの頭を連想させる形だが、この形はナンデダ!と旅行中頭から離れなかったものである。 しかしこれも冬に訪れれば簡単に理解できることだろうと現在では思っている。 すなわち、厳冬期には日本海から強い風と雪が吹き付けるこの地方である。それも年間を通してかなりの期間となれば、入り口(向拝)も雪に埋もれ、雪掻きも大変なことと想像できる。そのため向拝は雪除けの壁で囲うとしても、急勾配の茅葺屋根には上がれない。そのためいくらかでも雪の流れを脇にそらす工夫から、こんな形に行きついたのだろう。 片や右側の、茅葺屋根をめくったような形(兜造り)はこの地方では見られないものだが、本来の寄棟造りの屋根裏に居室を増築したので採光と換気のために開口部を採った、ということは簡単に想像できる。この地域はすぐ脇には川が流れていて、平坦な敷地を確保することは限られるのでこんな工夫がごく自然に行われたのだろう。 ▲Back to Map △Back to Top
高野で製材業を営む楠美家は、江戸時代は藩と関係があったと言われ、主屋は112年前の明治25年頃に秋田から材木を買って建てられた茅葺寄棟屋根の桁行15.5間、梁行6.5間、軒高438cmの外観・間取りともに建築当時の様子をよく残した大型民家である。 主屋の構えは左側にドマがある左勝手で、トロジグチ・オオド・ゲンカン・ザシキのゲンカンと4ケ所の出入口があったが、昭和30年頃にザシキのゲンカンがコザシキに改造されている。間取りはダイドコロ(広間)・ジョウイ・ザシキの3居室列で構成された喰い違い広間型で、ザシキ奥にブツマがある。ダイドコロ(広間)の囲炉裏は4尺×8尺と大きく、ダイドコロ(広間)裏側にミンジヤ(流し)・アダコ(女性使用人)のヘヤがあり、土間上・居室列裏側上の2階は使用人の部屋で、コザシキ上には隠し部屋がある。両側から使える1畳ほどの大型流しや梁行6間の和小屋組の上に2間の扠首組が載る小屋組に秋田地方の特徴がみられ、材木だけでなく、大工も秋田からきたと推定される。
五所川原の南東部で、津軽平野を挟んで西の岩木山と対峙した津軽半島の首部に位置する建物。
2004.8.14 鉛筆・透明水彩
その南西斜面に位置し、殆どが同一氏を名乗るこの地域の中でも飛び抜けて大きく立派な構えの屋敷であり、二重船竭「りによる奥行きの深い屋根の姿は積雪時でも大雪原に存在感を示すものと想像される。訪問したときはちょうど旧盆の時期でもあり来客も多く、突然伺ったのにもかかわらず座敷にお招き下さった。室内は立派な欄間をはじめとした繊細な作りと美術品で満たされ、仏間(仏壇ではない!)を床の間と並べて正面に配した佇まいは、この地域の長と思わせるものであった。
「五所川原市史」より引用 「○○○」の屋号を持つ羽野木沢のA家は五所川原地方の大地主で、眼下に広がる水田を見渡す山裾に約1万坪の広大な屋敷を構えている。主屋は間口19間×奥行7間の平屋部分に2階をもつ大型住宅である。90年余り前に建てたと伝えられる明治30年代初頭の建築である。二重船竅iせがい)に化粧垂木を見せた軒組に少し起り(むくり)を持つ切妻屋根の外観は概ね建築当時の様子を伝えているが、今の生活に合わせるためにダイドコロ(広間)・土間廻りを中心に大幅な増改築が行われている。しかし、玄関からナカノマを通り、鷺の襖絵があるサギノマを経てザシキに至る鍵座敷廻りには手が加えられていない。ナカノマとサギノマの間の欄間は繊細な菱格子であり、ザシキの左手は仏間、右手には床・違い棚・書院が設けられ、縁側をはさんで大石武学流の見事な庭園に続いている。二階には床の間付の和室が5部屋あり、「キタノヘヤ」は8畳の続き間座敷である。細部の仕上げも瀟洒で優れたものが多く、明治後半の上層民家の様子を伝える遺構である。 (引用終わり)
「○○○」の屋号を持つ羽野木沢のA家は五所川原地方の大地主で、眼下に広がる水田を見渡す山裾に約1万坪の広大な屋敷を構えている。主屋は間口19間×奥行7間の平屋部分に2階をもつ大型住宅である。90年余り前に建てたと伝えられる明治30年代初頭の建築である。二重船竅iせがい)に化粧垂木を見せた軒組に少し起り(むくり)を持つ切妻屋根の外観は概ね建築当時の様子を伝えているが、今の生活に合わせるためにダイドコロ(広間)・土間廻りを中心に大幅な増改築が行われている。しかし、玄関からナカノマを通り、鷺の襖絵があるサギノマを経てザシキに至る鍵座敷廻りには手が加えられていない。ナカノマとサギノマの間の欄間は繊細な菱格子であり、ザシキの左手は仏間、右手には床・違い棚・書院が設けられ、縁側をはさんで大石武学流の見事な庭園に続いている。二階には床の間付の和室が5部屋あり、「キタノヘヤ」は8畳の続き間座敷である。細部の仕上げも瀟洒で優れたものが多く、明治後半の上層民家の様子を伝える遺構である。
五所川原から飯詰に向かってうろうろ歩いていて見つけた倉庫
2006.4.29 鉛筆・透明水彩
基礎がちょっと違うぞ? そう、土台が上下2重に廻っていて束が挟み込まれている。 秋田の水板倉と同じように池の中に建っていたものだろうか?
さっそくそこの主人に伺ったところ、先代が約70年ほど前に飯詰から移築したもので池の中にあったかは分からないとのこと。 ・・ということは少なくとも1900年代初期に築造したものを、釘一本使ってない工法なのでプレファブ工法として再構築できたという、現代の人にとって重要なリサイクルのヒントを頂いた思いをした。 主人曰く「飯詰*註は城下町だからいいものはあっちにあるんだぁ・・・」 そう、いいものを長く使いたいものだ。
「くら」には「倉」と「蔵」の文字があり、「倉」からは正倉院を初めとする高床の倉を思い浮かべる。その他にも地面に直接置かれた板倉があり、かつては各地に緊急時の備えに穀物倉庫としてあったものだ。東北の地ではその板倉を時たま目にする。外壁は柱間なんと1尺程に縦繁にびっしりと建てられ、その間に幅広板を縦に落とし込んだ構造になっている。厳しい冬季の積雪に耐える構造と思われるかもしれないが、中に放り込んだ大量の穀物を支えるためと思われる。板倉に共通していえることは、基礎は固定されず礎石に土台を置いて床を多少浮かせ、換気に留意していることである。そしてその発展型が東北の米どころの水の上に浮かべてしまった「水板倉」である。
*註 後で気がついたことだが、飯詰という地域は 「青森県五所川原市 飯詰 」 と思っていたが「秋田県仙北郡美郷町 飯詰 」もあることを発見した。 秋田の地域は水板倉の地域なのでその秋田の飯詰を意味してたのか !!?それとも関係があるのか?・・・知りたいものだ。
*註
後で気がついたことだが、飯詰という地域は
「青森県五所川原市 飯詰 」 と思っていたが「秋田県仙北郡美郷町 飯詰 」もあることを発見した。
秋田の地域は水板倉の地域なのでその秋田の飯詰を意味してたのか !!?それとも関係があるのか?・・・知りたいものだ。
飯詰は五所川原市内から東北に5キロほど離れたところに位置しているが、ここから北へ金木・十三湖方面、東へ陸奥湾に至る街道と二手に分かれる分岐点にあり、かつては活気ある街と思われる。
当家はその街道に面して代々味噌・醤油の製造業を営んでいたが平成5年(6年?)には廃業してしまったとの事だ。 建物は明治19年の築造で、表の瀟洒な造りの雁木(当地ではコミセと言われる)に反して一歩内部に入ると奥まで続く広い土間とそれに面して連なる座敷があり、大断面の柱梁で構成されている豪快な町家だ。 また街道に面した蔵の窓の隈取りがモダーンで、当家の進取の精神をみた。
「五所川原市史」より引用 旧飯詰村中心部の間口22間の屋敷に建つN家は、梁行8間の妻入の大型町家で、間口11間のコミセの両端に土蔵と板倉を構えている。家伝によれば、初代は尾張の武士で、柏木村に落ち着いたことから、柏屋久之丞と名乗り、屋号は「柏屋」である。二代目から味噌の醸造を手掛け、幕末から明治維新にかけて財を成し、冬には今でもコミセに明り障子付の戸を立てている。 街道側はコミセ、格子、五段の束組をみせた小屋組が豪壮さと繊細さを表している。格子の奥にガラス戸が立てられ、更に建設当時のシトミ戸が残されている。 街道に面して、ミセ(居室側)と呉服を扱ったシタミセ(土間側)があり、ミセの上は2階である。ミセの間を通り奥まで続く幅約2間の通り土間に面して、チョウバ・チヤノマ・ダイドコロが並び、その奥はザシキ・ブツマである。座敷廻りには鶴・雀・扇・桃などの釘隠しが使われ、階段箪笥など商家らしい家具類が残されている。 (引用終わり)
旧飯詰村中心部の間口22間の屋敷に建つN家は、梁行8間の妻入の大型町家で、間口11間のコミセの両端に土蔵と板倉を構えている。家伝によれば、初代は尾張の武士で、柏木村に落ち着いたことから、柏屋久之丞と名乗り、屋号は「柏屋」である。二代目から味噌の醸造を手掛け、幕末から明治維新にかけて財を成し、冬には今でもコミセに明り障子付の戸を立てている。 街道側はコミセ、格子、五段の束組をみせた小屋組が豪壮さと繊細さを表している。格子の奥にガラス戸が立てられ、更に建設当時のシトミ戸が残されている。 街道に面して、ミセ(居室側)と呉服を扱ったシタミセ(土間側)があり、ミセの上は2階である。ミセの間を通り奥まで続く幅約2間の通り土間に面して、チョウバ・チヤノマ・ダイドコロが並び、その奥はザシキ・ブツマである。座敷廻りには鶴・雀・扇・桃などの釘隠しが使われ、階段箪笥など商家らしい家具類が残されている。
飯詰地区で見つけた面白い屋根二題である。
左:お寺の屋根 右:兜造りの民家 2006.4.29 鉛筆・透明水彩
左のスケッチは茅葺屋根のお寺だが、その仕上に注目である! まさにモヒカン刈りの頭を連想させる形だが、この形はナンデダ!と旅行中頭から離れなかったものである。 しかしこれも冬に訪れれば簡単に理解できることだろうと現在では思っている。 すなわち、厳冬期には日本海から強い風と雪が吹き付けるこの地方である。それも年間を通してかなりの期間となれば、入り口(向拝)も雪に埋もれ、雪掻きも大変なことと想像できる。そのため向拝は雪除けの壁で囲うとしても、急勾配の茅葺屋根には上がれない。そのためいくらかでも雪の流れを脇にそらす工夫から、こんな形に行きついたのだろう。
片や右側の、茅葺屋根をめくったような形(兜造り)はこの地方では見られないものだが、本来の寄棟造りの屋根裏に居室を増築したので採光と換気のために開口部を採った、ということは簡単に想像できる。この地域はすぐ脇には川が流れていて、平坦な敷地を確保することは限られるのでこんな工夫がごく自然に行われたのだろう。
△Back to Top
copyright©2004-2010 Arc-Yama All Rights Reserved