弘前から黒石に向かう弘南鉄道の途中駅から岩木山を望む 2010/4/25
津軽平野の冬は強風と大雪とで厳しい季節だが、春になると「八甲田山」「岩木山」の雪解け水を源流とする豊富な水が豊かな地域にしてくれる。 その山岳近くに位置するのが黒石市で、岩木川支流の浅瀬石川に沿って十和田道を少し踏み入れば「温湯(ぬるゆ)温泉」をはじめとした数々の湯治湯が古くから栄えている。そこは津軽系こけしの故郷でもある。
ここにマウスを乗せると昔の町割りが現れます
じつはこの町を訪れるのは二度目で、温湯温泉に完成間もない菊竹清訓設計の「黒石ほるぷ子ども館」を訪問して以来のことだから、はや三十数年という年月が経ってしまった。当時はこけし収集に熱中していて伝統作家(佐藤善二)の工房を訪ね、工人の創り出す達磨の虜となった記憶もある。そんな達磨発見の高揚感から黒石の町並は「こみせ」を多少意識しただけで、帰京してしまった。 今回はそんな昔の記憶を辿り再訪したが、「こみせ(雁木)」が驚くほど残されて・・・いや、昔以上に残されているかも知れない・・・この町の景観を護っている市民の熱意を大いに感じた。そんな「こみせ」を中心に歩いてみた。
【黒石の歴史】(概略) 津軽という地域は三内丸山遺跡や遮光器土偶の亀ヶ岡だけでなく黒石市からも縄文遺跡が多く確認されていて、東北から北海道に渉る縄文巨石文化圏の中心地とも云える所である。さらには勾玉などの律令祭祀遺物も発見されているそうだから早くから律令制度にも組み込まれていたのだろう。 鎌倉時代は北条氏の支配下に、その後は南部一族の支配下にあったが、江戸時代に津軽藩から分地された黒石津軽家の黒石藩として現在の町が始まる。町の南を流れる岩木川支流「浅瀬石川」の河岸段丘を防御に利用した陣屋を中心とした城下町であり、弘前・大浜(現・青森)間の中継地点として栄えた商業の町だった。 明治に入ると廃藩置県により藩は黒石県に(2ヶ月後には弘前県と合併)、城は破却されて城下町は簡単に歴史から消されてしまった。そして街道交通は鉄道交通に変わり、奥羽本線から外れたこの町にも国鉄が川部・黒石間を開業(1912年/T1)、戦後には弘前から弘南鉄道が延長され賑わいは駅前付近に移ることとなる。やがて民営化の波に飲み込まれて国鉄路線は競争相手の弘南鉄道に引き継がれ、民営移管第一号(1984年/S59)となるがやがて旧国鉄線は廃線(1998年/H10)。まさに日本全国バブル景気が膨張するのと期を一にしてユニバーサルサービスが黙止されていく。そして駅前付近の商店街も衰退していくこととなったのであろう。 かたや昔ながらの市中では伝統的な家業が綿綿と受け継がれ、狭い道路は車社会を受け入れ難く、町並を大幅に変えることも出来なかった。そしてその後のバブル崩壊が、その町並こそが未来につたえる貴重な財産であることと気づかせたようで、昔から賑わっていた「浜街道」を「こみせ通り」と名付け、そこを中心にして町の見直しが始まっている。
藩政時代には弘前と青森を結ぶ「浜街道」がここ黒石を通りぬける町の中心地で町名が「中町」、そのおもかげを残しているといわれる雪国ならではの木造アーケード「こみせ」が列なる通りである。
2010.4.25 鉛筆・透明水彩
昭和7年(1932)当時の町並画像提供:中町こみせ通り(CG処理)
公衆浴場だった建物だが、現在は廃業している。建物と一体になったような松の木がこの建物の古さを物語っているようだ。道路奥の建物と較べて「こみせ」の軒高が大きいのが良くわかるが、この形のこみせは例外である。本来の「こみせ」は主屋とは別建物で、街道側に提供された通路幅一間ほどの平屋の下屋であるが、ここ「松ノ湯」では主屋から葺き降ろしたような「こみせ」としている。そのため十分に屋根まで高さがあり明るい通路を確保している。冬季の吹きさらしには欄間をプラスチック板で塞いで工夫している。 この浴場は明治44年(1911)から平成5年(1993)まで営業していたそうだから、建物もかなり古いものと想像されるが詳細は不明。 最近、市が土地・建物を取得、外観はそのまま残して「こみせ通り」の町並保存の一助にするべく具体的な内容を検討中のようだ。
右の写真は昭和初期の浜街道風景を写したものだが、旧来の家業を受け継いできた昔ながらの低い家並みが続いている。こみせも周りと一体となって連なり、ここ「松ノ湯」の松の木が堂々としたランドマークとなっている。
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巨大な杉玉(酒林、さかばやし)を掲げている、大正2年(1913)創業の造酒屋。
この酒林の説明が店頭にあった。それによると直径1.1間(2.1m)、重さ1,500kgとのことで、日本一だそうである。こういう看板を見せつけられると、都会の看板の醜さについて考えざるを得ない。いつからか「大きいことはいいことだ!」とばかりに、建物を看板でより大きく飾り立て、建物も隣と如何に違うものにするかと工面する。その結果、町並の景観は勝手気儘に並んだ建物と如何に目立つかという看板の乱立した景色となってしまい、そのことになんの疑問も懐かずに慣らされてしまった。そんな濁った目にはこの酒林は新鮮である。この大きさがちっとも嫌みには見えないのは看板の本質をわきまえていて、それを引き立てる町並があるからだ。
江戸時代中期に建てられた商家で、この「こみせ通り」を代表する建物として国・重要文化財の指定を受けている。周りの建物と比べて屋根の低さが目につく。 現在でも住宅として住まわれているが、一部を開放しておられたので覗かせてもらった。
パンフレットによると、高橋家は代々「理右衛門」を名乗る黒石藩御用達の商家で、主に米穀を扱ったことから、屋号を「米屋」といい、その他に味噌、醤油、塩などの製造や販売をしていたという。
(左):断面 (右):平面間取り図
建物の形態と間取りはどの近隣の商家も似たような構成で、切妻屋根の妻入、こみせに面して商売の部屋(みせ)と入り口(大戸)があり、通り土間が大戸から建物最奥まで列なっている。土間は、間口の広さと小屋組表しという天井の高さ、高窓からの採光・換気というしつらえが、単なる奥の部屋への通路としてだけでなく、冬季の屋外への不自由さを打ち消す「屋内庭」ともいえる空間となっている。 御当主の好意で、ミセの上にある部屋に隠し階段で上がらせてもらった。いわゆる屋根裏部屋で、商談・密談?にも使われたことを想像させるような天井の低い部屋で、さらに他人の目を避けて帰れるという階段も、というお話も伺った。当時の庶民の建物は二階建が禁じられていたから、一般的には倉庫程度の利用しかしてこなかった。しかしここ黒石藩御用達の商家では武士たちの金策相談にも・・と、想像がふくらむ話であった。
文化3年(1806)創業の造酒屋で、角地に建つので裏の倉庫まで全容が良くわかる。
大戸からはいると気持ちのいい土間空間である。片隅では利き酒コーナーが設えてあり観光客で賑わっている。更に奥に許しを得て踏みこむと酒造りの現場だった。広い間口に架かる大きな梁とその上の小屋組が見事で、奥の倉庫まで長く連なっている。その土間空間に大きな樽や竈、屋根まで伸びる煙突・・・と建物の通り土間がそっくり醸造工場となっていた。外観で確認すると奥の倉庫と主屋を繋げる土間だったわけだが、町並を保存するということはこのような増築を一体にした配慮が必要なのだという良い一例を見た。
中町の「こみせ通り」を後にして元町に向かうと、その正面に見えるのがこのユニークな消防署である。なんと火の見櫓が屋根の上に鎮座している!
弘前でもこのようなものを見かけた火の見櫓だが、厳しい冬季でも支障なく町の見回りが出来る工夫なのだろう、見事な櫓だ。視点を変えて町から見上げれば、なんと頼もしい灯明台?と思える形である。町のランドマークとして好もしいデザインとみた。そしてそれに合わせたように間口いっぱいに張られた注連縄、前に並べられた高張提灯、さらには電信柱に立て掛けられた纏、その印に「元」の一文字。あまりにも出来過ぎとも思えるような道具立ては日常のことなのだろうか。町民に愛され、信頼されていることは間違いないことだろう。 町内にはこれと同じような屯所がいくつかあり、この建物が一番古いそうで大正9年(1920)に建築されたものとのこと。
この元町でも酒造店を見つけた。この町は黒石藩の陣屋前に構える侍町に隣接するという位置からして古い町だと想像する。
この建物は明治27年(1894)創業の佐藤酒造店のものだが、最近?廃業されたとのこと。主屋正面には杉玉(酒林)が銅板葺小屋根に吊り下げられ、敷地奥には煉瓦造りの煙突がそびえるのを見ると今でも立派に酒造りをされているのではないか?と往時の賑わいを感じる。
この町の通りに面した長い「こみせ」をみると、次回は雪深い季節に訪れてみたいという気分で黒石を後にした。
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参考文献: 重要伝統的建造物群保存地区「中町こみせ通り」
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