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鴨居に附けられている柏の葉をかたどった釘隠金物  PHOTO & CG処理

旧吉田家住宅


 千葉県北部一帯の台地は、北に広大な内海を介して常陸の国と接する旧下総国の台地の部分を指し、北総台地とも呼ばれる。標高は概ね20〜40メートルで、なだらかな起伏が続く台地である。

千年前の関東平野(推定)

 台地の奥の部分は、昔は生活用水の入手が困難なことから集落はあまり形成されずに原野が広がり、江戸時代には「小金牧」や「佐倉牧」などといわれる徳川幕府の馬の放牧地が広がっていた。

現代の地形に徳川直轄放牧場を配置

 明治時代に入ると、こうした原野は陸軍(習志野原)の施設や御料牧場(三里塚)として開発され、また大規模な開墾が行われた。これを東京新田と総称され、初富(はつとみ、鎌ケ谷市)、二和(ふたわ、船橋市)、三咲(みさき、船橋市)、豊四季(とよしき、柏市)、五香(ごこう、松戸市)、六実(むつみ、松戸市)、七栄(ななえ、富里市)、八街(やちまた、八街市)、九美上(くみあげ、香取市)、十倉(とくら、富里市)、十余一(とよいち、白井市)、十余二(とよふた、柏市)、十余三(とよみ、成田市・多古町)と開発順の番号に因んだ地名が付けられている。

 そんな放牧地の一つ小金牧の中央部に位置している吉田家は、代々名主の役を務めた大型農家で、江戸時代には牧士(もくし)を務めた千葉県柏市でも有数の豪農の家である。建造物は江戸末期から明治期前半に建てられたものが、現在でもほぼ同様の構成となって残されていた。

全 景
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 2012.5.27

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公開される建物群
左側は非公開の明治期の醤油製造施設

 平成16年(2004)に柏市に遺贈され、平成21年(2009)に歴史公園として整備、翌平成22年には国重要文化財に指定されて、一般公開されたものである。そのため広大な芝生の前庭は公園として整備され、周辺はかつての放牧場であった、とのイメージに繋げるものなのだろうか、当時のままかは定かではない。

 全景では15間(27m)にも及ぶ長大な長屋門を構える大屋敷ではあるが、これはほんの一部で、間口だけでもその倍以上ある非公開の現在の当主が住んで居られる左側部分、さらには奥の茂みとなっている部分を想像すると屋敷に占める敷地だけでも壮大なことが理解できる。

旧吉田家住宅建造物築造年一覧
番号建造物名築造年西暦面積・寸法備考
味噌蔵不詳
中 門安政3年18568尺5寸×6尺西 門
長 屋天保2年183138坪、庇18坪、13間4尺5寸×2間4尺5寸長屋門
向 蔵天保4年183312坪、5間×2間半
新 蔵天保4年183318坪、庇3坪9分、6間×3間
居 宅嘉永7年185464坪、11間4尺×5間半主屋
書 院嘉永7年185432坪、2間2尺×8尺+6間2尺×4間4尺
釜 屋元治元年18647坪半、3間×2間半
新座敷慶応元年18655間×3間1尺+3間2尺×5間
10東道具蔵慶応3年18679坪8分、3間半×2間4尺8寸道具蔵
※瓦葺替明細簿、一番記録(明治18年11月作成)を抜粋

長屋門
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 2012.5.27

 間口総延長27メートル(15間)にも及ぶという文字通りの横に長い門。そして武家屋敷に許される武者窓は、乗馬・苗字帯刀などが許されたとされる当家の権威を示すもの。

主 屋

 吉田家は江戸末期から大正末期までは醤油醸造業を営んでいたので、主屋は民家の形態をしているが業務棟として使われていたもの。中庭を囲む建物群は各種の蔵で、画面左隅の門から奥が醤油製造場へと続くが、工場群は非公開となっていた。
 正面寄り付きは武家屋敷にも引けをとらない玄関が目を引く。玄関脇の張り出しは帳場座敷として使われていたもの。

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 2012.5.27

主屋平面図

 主屋は古文書によると建替え普請で、嘉永6年(1853)の建築だという。当時の構成は2列5室で、土間の北にカマドがあったことが発掘調査で確認されている。
その後慶応元年(1865)に、渡り廊下を介して新座敷が建設されている。
明治以降の改築では帳場座敷、釜屋、風呂の増設、土間の南側にあったトリゴヤを使用人部屋に改装されている。これらの改築は、当時の醤油醸造業に合わせたものであろう。 そして戦後には合理的な生活の環境に合わせ、キッチン廻りを中心に現代的に改装された。しかし国重要文化財に指定されたのを機会に、醤油醸造業をしていた最盛期の姿(明治時代)に復元された。

 

【土間】
現在の釜屋は醸造業と関係があるのだろうか、増築がその時期と一にしている。そのため本来土間にあるはずの釜場が見当たらない。しかし吹抜天井に縦横に渡された丸太梁をみると、煤で黒くなっていて、それだけでなく荒縄を巻き上げた下地に漆喰で仕上げたものだとの説明書きがあった。如何に大きな炎が立ち上がっていたかを物語る話である。

【帳場座敷】
玄関脇に南面して張り出した3畳間は皮付き丸太の床の間からして茶室のような小間の佇まいで、帳場を握る主人が常時居る部屋と考えられる。そして説明では畳の下の荒床は中央が取り外し可能で、夏場など納涼のため床下に水を張っていたとされる。
 ここで思い出されるのが武蔵野台地でよく見られる農家の風呂場の事で、武蔵野台地の貴重な水を有効に利用するための工夫があった。概ね入口(土間)脇の縁側に位置していて、畑から引き上げ、庭から直行出来るのだ。風呂では入浴といっても行水する程度で、竹簀の子の床から落ちる水は、床下の大手洗で受けて作物の水遣りに再利用していた。
 そんな農家の工夫はきっとこの北総台地にも知れ渡っていて、深井戸を持てなければ不可能なアイデアをこの当主は実行したということなのだろう。



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