 2012.5.27
 公開される建物群 左側は非公開の明治期の醤油製造施設
平成16年(2004)に柏市に遺贈され、平成21年(2009)に歴史公園として整備、翌平成22年には国重要文化財に指定されて、一般公開されたものである。そのため広大な芝生の前庭は公園として整備され、周辺はかつての放牧場であった、とのイメージに繋げるものなのだろうか、当時のままかは定かではない。
全景では15間(27m)にも及ぶ長大な長屋門を構える大屋敷ではあるが、これはほんの一部で、間口だけでもその倍以上ある非公開の現在の当主が住んで居られる左側部分、さらには奥の茂みとなっている部分を想像すると屋敷に占める敷地だけでも壮大なことが理解できる。
旧吉田家住宅建造物築造年一覧 |
番号 | 建造物名 | 築造年 | 西暦 | 面積・寸法 | 備考 |
1 | 味噌蔵 | 不詳 | | | | |
2 | 中 門 | 安政3年 | 1856 | | 8尺5寸×6尺 | 西 門 |
3 | 長 屋 | 天保2年 | 1831 | | 38坪、庇18坪、13間4尺5寸×2間4尺5寸 | 長屋門 |
4 | 向 蔵 | 天保4年 | 1833 | | 12坪、5間×2間半 | |
5 | 新 蔵 | 天保4年 | 1833 | | 18坪、庇3坪9分、6間×3間 | |
6 | 居 宅 | 嘉永7年 | 1854 | | 64坪、11間4尺×5間半 | 主屋 |
7 | 書 院 | 嘉永7年 | 1854 | | 32坪、2間2尺×8尺+6間2尺×4間4尺 | |
8 | 釜 屋 | 元治元年 | 1864 | | 7坪半、3間×2間半 | |
9 | 新座敷 | 慶応元年 | 1865 | | 5間×3間1尺+3間2尺×5間 | |
10 | 東道具蔵 | 慶応3年 | 1867 | | 9坪8分、3間半×2間4尺8寸 | 道具蔵 |
※瓦葺替明細簿、一番記録(明治18年11月作成)を抜粋 |
長屋門
 2012.5.27
間口総延長27メートル(15間)にも及ぶという文字通りの横に長い門。そして武家屋敷に許される武者窓は、乗馬・苗字帯刀などが許されたとされる当家の権威を示すもの。
主 屋
吉田家は江戸末期から大正末期までは醤油醸造業を営んでいたので、主屋は民家の形態をしているが業務棟として使われていたもの。中庭を囲む建物群は各種の蔵で、画面左隅の門から奥が醤油製造場へと続くが、工場群は非公開となっていた。
正面寄り付きは武家屋敷にも引けをとらない玄関が目を引く。玄関脇の張り出しは帳場座敷として使われていたもの。
 2012.5.27
 主屋平面図
主屋は古文書によると建替え普請で、嘉永6年(1853)の建築だという。当時の構成は2列5室で、土間の北にカマドがあったことが発掘調査で確認されている。
その後慶応元年(1865)に、渡り廊下を介して新座敷が建設されている。
明治以降の改築では帳場座敷、釜屋、風呂の増設、土間の南側にあったトリゴヤを使用人部屋に改装されている。これらの改築は、当時の醤油醸造業に合わせたものであろう。 そして戦後には合理的な生活の環境に合わせ、キッチン廻りを中心に現代的に改装された。しかし国重要文化財に指定されたのを機会に、醤油醸造業をしていた最盛期の姿(明治時代)に復元された。
【土間】
現在の釜屋は醸造業と関係があるのだろうか、増築がその時期と一にしている。そのため本来土間にあるはずの釜場が見当たらない。しかし吹抜天井に縦横に渡された丸太梁をみると、煤で黒くなっていて、それだけでなく荒縄を巻き上げた下地に漆喰で仕上げたものだとの説明書きがあった。如何に大きな炎が立ち上がっていたかを物語る話である。
【帳場座敷】
玄関脇に南面して張り出した3畳間は皮付き丸太の床の間からして茶室のような小間の佇まいで、帳場を握る主人が常時居る部屋と考えられる。そして説明では畳の下の荒床は中央が取り外し可能で、夏場など納涼のため床下に水を張っていたとされる。
ここで思い出されるのが武蔵野台地でよく見られる農家の風呂場の事で、武蔵野台地の貴重な水を有効に利用するための工夫があった。概ね入口(土間)脇の縁側に位置していて、畑から引き上げ、庭から直行出来るのだ。風呂では入浴といっても行水する程度で、竹簀の子の床から落ちる水は、床下の大手洗で受けて作物の水遣りに再利用していた。
そんな農家の工夫はきっとこの北総台地にも知れ渡っていて、深井戸を持てなければ不可能なアイデアをこの当主は実行したということなのだろう。
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