八丈島の高倉
八丈島は黒潮のまっただ中にある。 そのため年間を通して温暖な気候であり、かつては交流手段を持たない風土が独特な文化を造ってきた。 近年は交通・通信の発達でその様子は一変している。 そんな中で昔はあちこちでみられた民家もほとんどみられなくなったが、伝統的な「高倉」を見つけた。
八丈島の高倉と奄美・沖縄の高倉との違いは、よく観察してみると大きな違いに気がつく。
柱の数は両地域とも4本・6本・9本と規模により色々あるが奄美・沖縄地方の高倉は柱の上に屋根をそのまま載せた形なのに対して八丈島のものは外壁のある2階建なのである。 当然そのための工夫がなされている。 以下その八丈方式とも命名したい構造・骨格を明らかにしてみたい。
先ず目に付く特徴は4本の柱は2階分の長さがあること。 1階柱は2階に延びるところで細くして、鼠返しの役割をする大きな厚板と床桁を貫通し、床桁に直交する床梁は柱を貫通して外側に張り出す。 外側に張り出した桁・梁の先端には外壁の柱が取付き小屋桁・梁の上に寄せ棟の屋根を構成する。 文字では理解しにくいと思うのでブラウザーの設定をアニメーション表示にしてご覧ください。[click]
位 置
東京の南方海上287km、御蔵島の南南東方約75kmにあり、東山(別名:三原山・標高701m)と西山(別名八丈富士・標高854m)のふたつの火山が接合した北西−南西14km、北東−南西7.5kmのひょうたん型をした島。
歴 史
考古学的には縄文時代から人が住んでいて、中国大陸がルーツとされる石製装身具類(「の」の字型ペンダント他)が出土している。
律令制度においては東海道駿河国(のちに駿河国から伊豆国が分立。以後、伊豆国)に属する。室町時代には鎌倉に設置された室町幕府の出仕機関である鎌倉公方を補佐する関東管領の上杉憲顕が代官を派遣している。
平安時代に大島へ流罪となった源為朝が渡来し、八丈小島で自害した伝説が残っているが、八丈島の公式な流人第一号は、慶長5年関が原の戦いに西軍石田三成方に属した宇喜多秀家である。
秀家の子孫は、秀家の正室であった豪姫の実家である加賀藩前田氏の援助を受けながら数家に分かれて存続し、明治維新後の1869年に至ってようやく赦免された(実際には「徳川の臣に下る」ことを条件とした赦免が用意されていたが、五大老まで務めた秀家がこれに甘んじることはなかった)。赦免と同時に直系の者は島を離れて板橋宿の加賀藩下屋敷跡に土地を与えられて移住したが、浮田姓に改名して島に残った分家の一部が現在も秀家の墓を守っている。
方 言
古代関東方言の名残を残している独自の八丈方言を使用している。
通 信
2003年8月4日、ソフトバンクの孫正義社長が来島し「NTTがやらないのであれば我々がやる」と八丈島において、世界の離島初のブロードバンドを整備すると宣言。この一件が新聞によって報道された(参照1)。こうして世間へ公にされると、ブロードバンドをめぐる状況が急変した。
現在、ヤフーBBによる24Mbpsによる八丈島でブロードバンド回線が開通し、それに追随してNTT東日本も伊豆諸島全体でフレッツADSLを開通させた。この問題は、末端の回線を独占してきたNTTに対して、離島であってもブロードバンドサービスの世界では、激しく競合すると言う事実を考えさせるきっかけとなった。 その後の顛末・・(参照2)・(参照3)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』抜粋
参考文献:東京都教育委員会編 「八丈島末吉地区文化財調査報告」


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八重根港から八丈富士裾野と八丈小島を望む