高麗・石器時代住居の復元(試案)
高麗という地域は、秩父山系が武蔵野台地に接する山里にあり、高麗郷として親しまれている。
高麗郷の地形(赤印が住居跡)
この地域一帯はかつて、朝鮮半島からの遺民が住みついたといわれる高麗郡(現・日高市)で、南に横たわる高麗丘陵を境にして、北が麗、南が飯能(後に飯能は入間郡)である。
歴史は遡り、約12,000年前の旧石器時代後半のナイフ形石器も出土したという日高市だが、高麗川右岸の台地に残されていた住居跡は約4,500年ほど前の縄文時代中期のものである。 その高麗川は平地に入ってから蛇行して流れている。すなわち丘陵から平地に下ると魚・鳥・獣も集まる川や沼が続く豊かな地形だったと想像される。
現在の石器時代住居跡
この遺跡を見て先ず感じたことは、北西に高麗川を見渡す小高い丘に位置していて、まことに気持ちのいい場所だということである。 現在は住宅が間近に迫ってはいるが・・・高麗川を見下ろす北斜面で、対岸の日和田山も目の前となる。
この住居跡には二つの住居があり、時期を違えて建てられたものだと、傍らの説明板にはあったが、周囲の土羽が各住居でなく、全体を囲っているのが不自然に感じられる。
これは二つの構造体が合体した一つの建物ではないだろうか?という仮説をたてて、復元を試みてみた。
かつて青森の三内丸山遺跡を訪ねたときに、住居跡の復元をいろいろ試みていたのを思い出した。いずれも地面より多少潜った竪穴住居だが、共通しているのは一つの住居に一つの環状に盛られた土手が築かれていることであった。 そして使用材料により三通りの住居形式に復元の試みがされていた。
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茅・草で葺かれたもの
屋根に草を用いる例は世界中に見られる。ススキ等の茅材は身近な材料で、北海道アイヌでも茅葺を用いているし、日本の古代から中近世にも茅葺の伝統が残っていて、我々の身近な民家がこの系統に含まれるものだ。
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樹皮で葺かれたもの
黒竜江(アムール川)流域や北方アジアに広く見られるもので、木の枝を円錐形に配置して樹皮で覆うものである。 昨年だったか? 関口知宏が中国鉄道の旅を隈無く旅行する様子をTVで放映していた。中国北部のチチハルからさらに山岳部奥地に入った黒竜江も近くと思われる地域で、中国最後の狩猟民族とトナカイの生活を映していたが、アメリカインディアンのテントのような小屋もあったと記憶している。 今回の事例では柱の跡が環状なので、最初に思いつくのがこの形式である。
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土で葺かれたもの
屋根に土を載せて仕上げる工法で、現代の私達日本人にはあまり実感のないものである。しかし世界的には北方アイヌやベーリング海沿岸の民族、アメリカインデアンに・・・と、北方や雨量の少ない地方ではかなり一般的なものである。
この高麗郷石器時代に生活していた当時の住居辺りは山林であろうから、材料は萱よりも樹皮の方が身近なものである。この樹皮は屋根を覆う材料に利用できる。裏返して使えばかなり防水性も期待できるものだ。
さてこれからが難問である。平地であれば円錐状に骨組を組み、屋根を覆えば完成であるが、傾斜地の排水を考慮すると周りの土羽が解決に繋がらない。そこで土で葺く工法で復元したのが下記のスケッチである。
石器時代住居の架構スケッチ
屋根に土を乗せるということは屋根勾配が限られる。茅葺屋根のような急勾配には出来ないので自ずと周囲の土羽が高くなる。周りの豊富な木の枝で杭を打つなりして土羽を固めることになる。そうすると内部の柱は土羽から離れていれば並び方は自由で、その間を盛土の崩れない程度の勾配で屋根を掛け渡せば良いのだ。その骨組の延長を屋根の頂部でまとめ上げれば、ご覧のような素晴らしい小屋の外観である。その後は樹皮で覆って、土を被せ、地押えに枯れ枝を置いてもよし、草を這わせてもよしである。
現代人から見ると寒くないの?ジメジメしてないの?・・・と疑問一杯であろうが、我々の住居は高床式に慣らされていて寒い冬を我慢している。トンネルの中が温かいのと同じように地表面は一年を通して意外に温度差が少ない。そのために、先人達が竪穴住居を長い間利用していたわけである。 さらに土で覆うということはその効果を最大限利用することになる。
湿気対策はどうか? 住居跡でも確認できたことだが、土羽の境には溝が掘られている。即ち排水路が用意されていて、敷地の低い部分に設けられた入口に誘引される、すなわち多少の傾斜がある場所が最適地となる。土羽は大雨の時には滲み出してくることもあるかも知れないが、枝で十分に保護してあればかなり快適と思われる。もちろん床には干草が敷かれ、横になれば夏でも快適だろう。
石器時代住居の復元想像図
土盛りの屋根はぺんぺん草で覆われるか、四季の花々で覆われるかは住人の覚悟次第だが・・・こんな家に住んでみたくありませんか?
日高町麗石器時代住居跡
国指定史跡 昭和26年12月26日指定
この住居跡は縄文時代中期のもので昭和4年に発掘調査された。当時としては、このような竪穴式住居跡の発掘調査例は全国的に見ても数少なく、県内では初めてのものであり、その後の考古学発展の先駆けとなったことで知られている。
この住居跡は、時期の異なる二軒が一部重複しているものである。どちらも円形で、直径が約6メートルほどの大きさである。それぞれ、中央部よりやや北に寄ったところに石で囲まれた炉跡があり、南側の石囲い炉の中には縄文土器が一個体埋設されていた。また、周囲には柱をたてたと考えられる小さな穴が十数個めぐっている。
二軒の住居跡からは多数の縄文土器をはじめ、耳飾りなどの土製品、打製、磨製石斧、石皿、くぼみ石、石鏃、石錐などの石製品も検出されている。
昭和五六年3月春
埼玉県教育委員会
日高市教育委員会
(敷地脇に掲げられていた掲示板より)
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