高麗家住宅(こまけじゅうたく)
高麗郷の地形(赤印が麗家)
高麗という地域は、秩父山系が武蔵野台地に接する山里にあり、高麗郷として親しまれている。 この地域一帯はかつて、朝鮮半島からの遺民が住みついたといわれる高麗郡(現・日高市)で、南に横たわる高麗丘陵を境にして、北が麗、南が飯能(後に飯能は入間郡)である。
霊亀2年(716)、高麗人1799人を武蔵国に移して高麗郡を設置して入植させている。その時の郡長が高句麗末期の王子「若光」(じゃくこう)であった。 (高麗に入植するまでの経緯はこちらから)
若光の亡き後、「高麗神社」を建て、子孫が宮司を務めて祀ってきた。その宮司・麗家の住まいである。
この住宅は江戸時代初期のもので、400年は経とうかという古い建物である。
残念ながら屋内は非公開だったので窓側から内部を観察するだけだったので土間や奥の部屋については推測である。
いたって質素な佇まいである。 間取りは右土間広間型という江戸初期によく見られる平面である。柱や梁の部材はどれも標準的な大きさのもので、況んや大黒柱というものは存在していない。
注目すべきは、中央の部屋が21畳敷きという非常に広いことである。 さらに畳とは無関係に炉が切られている。このことは本来の板敷きの部屋に、畳を敷きつめたものと思われる。 南側の開口部は掃出しではなく縦格子の付いた窓である。
奥の部屋(でい)の前に4畳ほどの小部屋があるが、これは何に使われたのかよく分からない。当主が宮司であることを考えると、書斎であったのか、でい(応接間)に招き入れる玄関の役目をしたのか不明であるが、少なくとも名主以外は式台は許されないだろうから玄関の可能性は充分にある。
外観では、雨戸の戸袋のないのに気付く。すなわち雨戸を開いても半分は閉じられた状態になるので現在の生活から見たら内部は大変くらいものとなる。
麗家当主は大変教育熱心な方だったようで、この大部屋は寺子屋として使われていたようだ。神社前にあった「温知学校跡」という説明板を後になって気付き、そこでは江戸から明治に代わった時に尋常小学校開設までの当主の活躍が書かれてあった。
採光のために雨戸を省略して格子戸で代用したのが広間の窓だったのだ!
高麗家住宅(こまけじゅうたく)
国指定史重要文化財
高麗家は、代々高麗神社の神職を勤めてきた旧家である。この住宅は、江戸時代初期の重要民家として昭和46年6月22日、重要文化財に指定された。
建築年代については慶長年間(1596〜1614)との伝承があるのみで明確な資料は欠くが構造手法から17世紀中頃まで遡り得ると思われる。
建物は山を背にして、東面して建てられ、その規模は間口14.292m(約7間半)奥行き9.529m(約5間)総面積136.188m(約37.5坪)で屋根は入母屋造り茅葺きである。
間取りは5つの部屋と比較的狭い土間とから成っている。5室の内表側下手の部屋(21畳)はもっとも広く当住宅は表座敷を中心とした間取りである。
広間には長押を打ち押板を構え前面5.717m(約3間)には格子窓が付けてある。柱や梁は全部丸味のある手斧で仕上げられ柱の数は多く、必要なところは太い材木を使っているが梁は全面的に細い材料を使っている。
なおこの住宅は昭和51年10月解体修理に着手し解体工事中の調査発見した痕跡資料等により、当初の構造を復元し昭和52年9月竣工した。
昭和52年11月30日
埼玉県教育委員会
日高市教育委員会
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