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名栗川から入間川に名称が変わる辺りは河岸段丘が見事であ

下畑の民家


下畑の民家

 峠を越え、しばらく行くと青梅から流れてくる成木川にたどり着く。青梅街道で江戸に運ばれたあの石灰の産地はこのすぐ上流ではないか! 川筋を眼前に北側の山を背にして穏やかな時間が流れているこの山里は、なぜか懐かしさを感じさせる。(これを桃源郷と云ったらいいすぎだろうか)

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下畑の民家 2008.10.25 鉛筆・透明水彩

 敷地全体が傾斜地であるから、畑を出来るだけ確保するためには等高線に沿って石垣が築かれて敷地を確保する。結果的に主屋と付属棟が程よく軸線を振らせて配置されている。自然の地形が無理なく建てた配置の美しさである。山の上の団地にもこれを見習ってもらいたいものである。

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現状の平面図(着色部分は当初の建物範囲・推定)

 なんの約束もなく訪れたのだが、御当主は作業中にも関らず、室内も裏庭(すぐ山が迫っていて、湧き水をためた池まである)も隈無く案内してくださった。この建物は弘化3年(1846)に名栗村の農家を移築して建てたものだそうで、それ以前から当家は何代も続いてこの地に住まわれていたようである。
 右図は現在の平面略図だが、増築・改築が手に取るようによく分かる。移築してからでも160年以上経過しているわけだから、架構と平面が乖離してきてはいるがその時々の生活の変化に対応して、創意工夫が付け加えられている。ここに住宅の住まい方の理想をみる。巷間いわれている100年住宅、いや最近では200年住宅を・・・と庶民を惑わすような住宅建設の誘導を官民一緒になってしているが、所詮はハードを造ることしか念頭にない。長い年月に渡って住まうのに一番大事なことは家族や時代の変遷による住まい方の変化に対応して、住人主体で簡単に・自由に、増改築できるようにした建物であると考える。それを実践しているこの家に住宅の理想を見た。

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当初の平面図(推定)

 この民家の当初の平面を模索してみて、面白いことを発見した。一般的に日本の民家(農家)は東側が土間で、西側が床上部分になっている例が多い。これを南側から見て「右土間形式」というがこの建物は「左土間形式」となっている。移築前の建物がこの形式だったことが原因なのか、移築時に「左土間」にしたのかは定かではない。しかしあえて推察すれば、広い敷地の確保が難しいこの山地では斜面なりに建てざるを得ず、本来は南に向ける面がかなり東寄りに配置された。そのことが形式に囚わらない自由な発想で逆転のプランを創ったのだろう。そんなところも平面図をにらんでいて先人に脱帽したくなるところだ。
 入口脇の風呂場は、農作業後に直接使用できる武蔵野地方共通の仕掛けで、縁側からも出入り可能となっている。
 内部の平面は「広間型」で、いわゆる「田の字形」平面が普及する以前の形式で部屋割が食い違っていることと併せて大変珍しい。当初は馬がいたかどうかは分からないので馬屋は省いてあるが、左側に増築して馬屋にしていたか、別棟が当てられていたのか不明である。(聞き漏らした) 水甕のすぐ外には現在湧き水の溜め池があり、当時からもあったと推定できる。下屋の下は薪置場である。
 屋根は左右入母屋造になってるので、養蚕をしていたのかも知れないが、屋根裏を確認していないのでその点は不明である。

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