![]() まもなく取り壊されるという草創期の住宅公団による団地 遠くに見えるのはRC造の給水塔
阿佐ヶ谷住宅新聞の地域ニュース欄に掲載されていた 記事 の見出しに釘付けとなった。 「来春以降 再開発・・・・阿佐ヶ谷住宅・・・・」 その住民の一人が自宅を開放してギャラリーを開いたというのだ。05年末から06年にかけて開かれた「前川國男建築展」で展示されていた共同住宅の中の一つで、住戸の模型もあったと記憶しているその団地だ。 改めて地図で位置を確認すると、自宅からもそう遠くはない善福寺川沿いの公園近くなので、翌日の休日の散歩は自転車でと決め込んで、その近くを散策することにした。 ![]() 4住戸を1棟にしたテラスハウス CB造を勾配屋根で覆い、置き屋根で防水をしている
2006.10.21 鉛筆・透明水彩 ![]() エレガントなカーブを描く道路 この団地は1958年に日本住宅公団(現都市再生機構)が開発した団地で、中央部分に3〜4階建ての中層住宅棟とその廻りを2階建の低層テラスハウスが緩やかなカーブを描いて計画されている。 住棟間隔はたっぷりと広く保ち、建物以外は全て共用スペースに当てられている公団方式なので広々と爽やかに感じる。 ぎゅうぎゅうに詰め込んで計画されている現代の住宅群と比べてなんとゆったりとしていることか。 それは戦後の米軍キャンプをネットフェンス越しに見て、中の環境が我々のそれとあまりにも違い、西欧の異文化生活を憧れて見ていた・・・・・そんなタイムスリップをさせる建物群であった。 住宅公団は1955年(昭和30年)に発足し(この建物はその3年後の竣工)その当時は日本の高度成長期で、神武景気(55〜57)さらには岩戸景気(58〜61)と、都市はもちろん郊外にも大量の住宅建設が急務となっていた時代である。 まさに住宅公団草創期の新鮮な、かつ使命感も伴った思いがこの団地を造り出したのだろう。 そしてこの団地計画に建築家・前川國男がテラスハウスの設計で参加したのだ。 それ以外の建物は住宅公団の標準設計として熱い思いで取り掛かったものだろうけど、ここではあえて前川國男設計のテラスハウスに焦点を当ててみる。 ・・・・・ このテラスハウスは勾配屋根を持つコンクリートブロック造の2階建で、2〜6戸の偶数戸を1棟にした住棟を緩やかにカーブした道路から直角に振って配置されている。 そのことから派生する住棟間の微妙なずれと低い軒と相まって、アプローチ通路は平家建ての住宅の連なりのような人間的な空間になっている。今は殆どの住戸が転居して空き家状態なのだが、各家々に数々の植木鉢が置かれてあったら下町の通路をも感じさせるといったら言いすぎだろうか。 ・・・・・ 当時の工事現場は今と違って人海作戦であった。 ・・・・・ ここまで述べてきて前川の意図が一寸読めた気がしてきた。この団地とほぼ同時期に晴海の高層アパートを設計している。晴海のほうは取り壊されて残っていないが、設計にあたり街中と郊外という二面で計画の模索をしていたことは間違いないことだろう。しかしこの(あえて云う)阿佐ヶ谷型は決して郊外型ではなく、どんな町でも、村でも、車の入らない所でも、ブロック一つとセメント袋を担いでいければ建設可能なことを示しているのだ。すなわち住宅公団に対して「これが日本の原風景への標準設計だよ」と言っている気がしてならない。 最近、建物についての信頼が偽装問題だけでなく失墜している。戦後建てられてきたコンクリート建築が半永久的に持つと云われていたのに次から次へと取り壊されているのだ。あるデータでは三十数年が耐用年数ともいう。そこで100年住宅というキャッチフレーズも駆使して新築に励む住宅産業。更に新たなキーワードが生まれる。「スケルトン・インフィル住宅」 阿佐ヶ谷住宅はそのものである。決して新しい概念でなく、石造りの建物では当たり前のことであった。その技術が我が国に移入されてから100年以上が経つというのに経済効率優先のことばかりを追い回し、伝統に培われた技術や労働を惜しみ、軽薄な建物を次々に建て替えることだけに邁進して本質は見ようとはしない。 ・・・・・ この団地も来年には取り壊しが始まり、新たな計画で共同住宅が建設されるという。この土壇場で保存しろ!とはあえていわないが、せめて先人達の創意工夫が延々と引き継がれて来たことを忘れることなく、文化という財産を引き継いでいきたいものだ。 <さらに一言> 参考:< 阿佐ヶ谷住宅日記 >
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