旧朝香宮邸(東京都庭園美術館)
この建物は1933年(昭和8年)に宮内省内匠寮(権藤要吉)とフランスの装飾芸術家アンリ・ラパンやルネ・ラリックが参加して出来上がった。当時のファッションであるアール・デコ様式を取り入れた品格あるデザインは今日までほぼオリジナルの状態で保存されていて、現在では貴重な建物となっている。
現在は庭園も開放した美術館として利用されている。普段は非公開の部屋も公開し、限定付きではあるが撮影可能という期間に訪ねてみた。
正面車寄せから一歩入ると、鉄枠のガラス扉・把手・床のモザイクタイル・・・とどれも素晴らしいしつらえの連続なのだが、ホール正面のガラスレリーフには目を奪われる。
さらにメインホールに進むとルネ・ラリックのシャンデリアやガラス大扉が建物のインテリアを決定づけている。
外壁の窓下には暖房ラジエターが設置され、その表には鉄製のグリルが組み込まれている。
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ホールからは外の庭に進むことも出来る。まさにパーティーを主眼においたプランだということがよく解る。 左よりの円形に膨らんだ場所がメインダイニングルーム。 プライベートな食堂はさらに左側の藤棚のある辺り。
2階はプライペーとスペースなのだが左側3階にあたるところがガラスばりの「サンルーム」。じつはこのサンルームがお目当てなのだ。
2階からさらにこの部屋専用の階段をつかってはいる。 中の様子は今までのアール・デコ様式と一変してバウハウス様式となる。 南・西・北の3方をガラスばりにして思いっきり明るい部屋となる。それよりも目に付くのは床の市松模様。しかも白と黒のコントラストのはっきりした模様は当時の最先端モダーンというところだろう。 しかも置かれた椅子がローズ・マダー・レッドとは!
部屋の中から見返ると、その市松床はなんと床にまで立上り、大胆の極み。
そこにおかれていた椅子に注目したい。 なんとマルト・スタムのデザインした椅子なのだ!
このような椅子は普段よく目にする我々だが、じつはそのルーツはこの椅子にあるのだ。
アール・デコの時代は工業化が進み、椅子もそれまでの木製からスチールに変わる時代であった。そんな時代の作家が「マルト・スタム」であり「マルセル・ブロイヤー」であり「ミース・ファン・デル・ローエ」でこの図のようなキャンティレバー構造の椅子が完成したのだ。
そのオリジナル椅子にお目にかかれるのは、他にはそうはない。自分の大事な場所としたい。
マルト・スタム(1899-1986)
椅子 制作年不詳 当館蔵
美術館表示プレートより
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アール・デコ
アール・デコのデザインは1925年に開催されたパリ万国装飾美術博覧会で花開いた。
博覧会の正式名称は「現代装飾美術・産業美術国際博覧会」(Exposition Internationale des Arts Decoratifs et Industriels modernes)、
略称をアール・デコ博といい、この略称にちなんでアール・デコ様式と呼ばれるようになった。
また「1925年様式」と呼ばれることもある。
キュビズム、バウハウス、古代エジプト美術、ロシア・バレエ、東洋美術などの影響が指摘されている。
世紀末のアール・ヌーヴォーは植物などを思わせる曲線を多用した有機的なデザインであったが、自動車・飛行機や各種の工業製品、近代的都市生活といったものが生まれた時代への移り変わりに伴い、より機能的・合理的で簡潔なデザインが流行するようになった。アール・デコ様式の影響を受けた分野は絵画や彫刻、建築、服飾、宝飾、ポスター、生活雑貨など多岐にわたる。
建築様式としては、ニューヨークの摩天楼(クライスラービル・エンパイアステートビル・ロックフェラーセンターなど)が有名で一世を風靡した。
しかし大恐慌によりアメリカ経済が力を失っていくのと同時にブームは去った。
日本でも昭和時代初期の一時期、アール・デコ様式が流行した。当時国際都市であった上海の近代建築にもアール・デコの影響が見られる(サッスーンハウス、フランスクラブなど)。
アール・ヌーヴォー同様、主に商業美術の分野で用いられたこと、及び装飾を否定するモダニズムの美学に合わないことから現代美術史上は全く評価されてこなかったが、ポスト・モダニズムの流れにおいて近年では再評価が進んでいる。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』抜粋
朝香宮(あさかのみや)
朝香宮(あさかのみや)は、明治後期、久邇宮朝彦親王の第8皇子である鳩彦王が創設した宮家。
初代鳩彦王(やすひこおう、1887年10月20日 - 1981年4月12日)は、明治20年10月20日生まれ。明治39年に明治天皇から朝香宮の宮号を賜る。 明治43年には、明治天皇の皇女允子(のぶこ)内親王と結婚。陸軍士官学校、陸軍大学校を経て、大正11年にフランスに留学した。
1923年(大正12年)にフランス北部ベレネー近郊で、義兄の北白川宮成久王の運転する自動車が事故を起こし、同乗した鳩彦王は重傷を負う(北白川宮は事故死)。怪我の療養のためフランス滞在が長引いたことで、フランス文化により長くふれることになった。特に、看病のため渡仏した宮妃とともに1925年のアールデコ博を観覧し、同様式に対して強い関心と理解を示した。
帰国後は、近衛師団長、軍事参議官などを歴任し陸軍大将まで進んだ。 日中戦争(支那事変)では上海派遣軍司令官として上海・南京攻略に当たる。 第2次世界大戦中は、終始強硬な主戦論者であり、本土決戦に備えた陸海軍統合(統帥一元化)を主張・力説していた。
昭和22年に皇籍離脱。熱海に移り、趣味のゴルフ三昧の生活を送った。ゴルフ好きは戦前から知られ、東京ゴルフ倶楽部の名誉総裁であった。(昭和7年に東京ゴルフ倶楽部ゴルフ場が東京駒沢から埼玉県膝折村に移転された際に、膝折村は朝香宮にちなんで朝霞町(現在の朝霞市)と改名された。)
東京白金宮家本邸は、西武グループの所有を経て、現在東京都庭園美術館となっているが、日本では数少ないアールデコ・スタイルの豪華な内装で知られる。昭和56年4月12日に94歳で逝去した。
孚彦王は鳩彦王第1王子で、終戦時は陸軍中佐である。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』抜粋


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(061001撮影・CG処理)