![]() 創建当時の正面図 (法務資料展示室・説明プレートより photo & CG処理)
旧 司法省庁舎明治を考えさせる官庁街を歩いてきた。来年から本当に始まる裁判員制度の普及の一端か、法務省のお祭りに参加してきたのである。名付けて「赤れんが棟見学会」 明治政府が当時抱えていた問題は、江戸幕府が欧米列強と結ばされた不平等条約をいかに改正するかということであった。そのための一つの答えが井上馨による「欧化政策」である。具体的には明治16年(1883)に建てられた「鹿鳴館」(設計:コンドル)で、更には官庁集中計画である。この計画にはコンドルが案を出しているが井上との意見が合わず、急きょドイツより当時の宰相ビスマルクの信頼する建築家「ヘルマン・エンデ」(パートナーは「ベックマン」)を招聘、技師「ホープレヒト」も加わって、問題山積ではあったがなんとか現在の日比谷公園を含めた霞ヶ関地域の「官庁集中計画案」が創られた。しかし「井上馨」が外務大臣辞任(1887M20)で計画は破棄、しかし辛うじて「司法省」と「大審院(後の最高裁判所)」だけは並べて建設された。 「司法省」は現在の法務省「赤れんが棟」で、「大審院」は現在は取り壊され「裁判所・合同庁舎」となっている。 ![]() 中庭側からみた赤れんが棟(左端がセンターライン) 2008.5.25 鉛筆・透明水彩 大きな建物である。表通りから見るのと違って中庭側からだと左右の棟が張り出し、尖塔が立上り、急傾斜の大屋根、ギリシャ神殿風飾り窓と明り取りのドーマー窓、突針の付いた飾り金物、そして赤れんがと白い石の外壁・・・豪華なものである。 ![]() 皇居側の立面 (2階バルコニーが平成の改修で復元された) 2008.5.25 鉛筆・透明水彩 妻側のバルコニーは東京大空襲で列柱は壊され、屋根もすべて焼失した。昭和の改修では列柱は撤去され、屋根は平凡な寄棟で葺かれていたが、平成の大改修では残されたバルコニーを参考にして復元、屋根に関しても天然スレートで一文字葺き、鱗葺き、を取り混ぜて模様をつくっている。更に尖塔屋根では菱葺きにするという職人さん大活躍のものである。 ここまで描いてきて、何か気持ちが収まらないのだ。平成の改修でこんなに立派になりました・・・と宣伝するたびに周りの官庁街から完全に浮き上がった「裸の王様」のような雰囲気なのだ。いわゆるKY(空気が読めない)である。東京駅然り、戦後の不自由な中での創意工夫で改修された建物をバブル景気で博物館にしてしまったのだ! ![]() 中央部の2・3階バルコニー (様式の違い) 2008.5.25 鉛筆・透明水彩 建物中央は正面と中庭を結ぶ通路になっているが、その部分の1階から3階までの詳細である。
(「赤れんが棟見学MAP」パンフレットより)
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