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学習院大学


 私にとって、学習院から思う事は

皇族方が学ばれる学校、
「乃木希典」の質実剛健、
教科書の監修名で必ず出てくる学長「安倍能成」、
キャンパス裏にある厩舎の匂い・・・・・
・・・いや、忘れてはいけない、「前川國男」の設計した「ピラミッド校舎」があった。

正門以外に、山手線「目白駅」脇にも校門があり、自由に入れそうなのだがどうも守衛さんの顔が気に掛かり、うかがい知れない学校なのである。
 そんなところに新年早々(08/01/08)の新聞の見出しに驚いた!

ピラミッド校舎 なくなるの?・・・・学習院大目白キャンパス・・・・」

・・・ということで、大学のHPで公開日を確認し、晴れて校内に入ることができた。(2008.1.13)
 

校内マップ
北1号館 ピラミッド校舎 南2号館 大学図書館 旧本部棟 南5号館 資料館

 正門前の「資料館」を左にして、アプローチに導かれていくと「北1号館」に突き当たる。広いピロティを通り過ぎると「ピラミッド校舎」を目の前にしてキャンパスの中心に至る。

なお、1960(昭和35)年竣工の旧本部棟(2階建1棟)は、法学部経済学部研究棟(現・東2号館)の建設に伴い、1991(平成3)年に解体された。

  :前川國男の設計作品(マウスon!)

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キャンパスの要・ピラミッド校舎

 ピラミッド校舎群は、東京・目白の学習院大学キャンパスのほぼ中央にある。「ピラミッド校舎」あるいは「ピラ校」の愛称で呼ばれる「中央教室」を取り囲むように、北側と南東側に2棟の前川國男の設計による校舎が残る。竣工時には東側にも前川が設計した建物(本部棟)があったが1993(平成5)年に建て替えられ、現在は東2号館となっている。


西側鳥瞰写真
竣工当時のピラミッド教室と建物群
(展示パネルより複写・CG処理)

この4つの校舎は、キャンパスの中で研究・教育の中心となる建物(学問のコア)として計画されていて、キャンパス内の各校舎は既存の建物も含めて、ピラ校を中心にして「東1号館」、「西1号館」といった具合に東西南北の名で統一してつけられている。
 ちなみに「南1号館」は1927(昭和2)年に、「西1号館」は1930(昭和5)年に建てられた堂々たるゴシック建築で、共に宮内省の設計によるものである。
 竣工は1960(昭和35)年で、当時相次いで完成した京都会館(1960年)や東京文化会館(1961年)の高い評価の陰に隠れてしまったようにも思えるが、一大学構内のしかもキャンパスの奥深くに入らないとたどり着けないという場所にあるため、大衆の目に触れることもなかったのも一因と考えられる。 それよりも「ウルトラマンセブン」の映画でこのピラミッド教室を舞台にして取り上げられたので、知る人は知ると云うことだろうか。
(詳しくは第29話「ひとりぼっちの地球人」の撮影に使われていて、劇中、プロテ星人と戦うセブンに誤って壊されるというシーンが描かれているという。)

sketch

中央教室(ピラ校)の背景は既存のゴシック建築群。 左端の建物は南2号館。 右は北1号館の広いコンコース。
2008.1.13 鉛筆・透明水彩


中央教室 平・立面図 (展示よりパネル複写)

 ピラミッド校舎は一辺約30メートル・頂点までの高さ25メートルの四角錐形なのだが、エジプトのピラミッドのような正四角錐ではない。
この図面でわかるように頂部が北東側に多少偏芯している。
外周の池は北・西・南の3面を囲って配置されている。北・東面内部は回廊になっているのだが、足下から反射して忍び込む光は広島の厳島神社廻廊を思い出させる。
もっと思い切り柱脚を池の中に浸けてしまえばよかったのに? などと勝手なことを感じた。
・・・・というのも、傾斜壁と同じ角度の柱では雨の時は内部にも雨水が伝わり、水浸しの廻廊になるのではないかとの老婆心から。

sketch

ピラ校を取り囲む校舎建築群 左奥は北1号館 右手は南2号館 建設当初の本部は高層棟に変わってしまっている。
2008.1.13 鉛筆・透明水彩

南東から眺めるとピラミッド校舎は緩やかな傾斜面だけになり、構内がより広く感じられる。背景は前川作品だけになる・・・といいたいところだが、旧本部棟は無表情な高層棟に建て替えられてしまい、ゴシックの建物も含めた豊かな表情を持つキャンパスを一変にオフィス街としようというのだろうか。
ピラミッド校舎の建て替えがどうなるのだろうか?と急に不安になるアングルである。

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北1号館


展示パネルより(抜粋)

 打放しコンクリート(竣工時)の外装と広いピロティ・らせん階段・風の通り抜ける共用廊下・・・・この北1号館と南2号館ではコルビジェの表現を感じる。師匠直伝の手法を引き継いでいる、正統派・前川國男ということだろう。

現在の外装はコンクリート打ち放しに白い塗装が施されているが、建設当初は本部もピラミッド校舎もすべてコンクリート打ち放しそのままの姿であったという。
その頃完成した「東京文化会館」に倣ってコンクリートにアクセントカラーを彩色してみたが、こんな風な意図はなかったのだろうか?

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南2号館

屋上の高架水槽はコルビジェ風。そして堂々とした煙突はなんとなく阿佐ヶ谷住宅の高架水槽を思い出す。


南2号館 平・立面図 (展示パネルより)

 北1号館と同じ手法で設計されているのだが、両建物で目にするのがX字形断面をした柱である。
均等に配置された柱により無限に広げる事も可能な校舎をこの柱の溝がワンスパン毎に区切りをつけ、跳ね出されたバルコニーには柱のV字溝に合わせた大面取り、さらには柱頭の見切を効果的にした、パラペットのスリット・・・これらは平坦になりやすい外観に豊かな表情をもたらしている。さらにV字形溝に縦樋のみならず各種配管をも沿わせることは設備計画でも意図している事なのだろう。露出配管を前提とした計画は建物の維持管理を考えると理想的なことである。
それにしても柱の配筋はどうなっているのだろうか? そのことだけでも難工事を想像させる。

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大学図書館

静かな環境に建つ図書館 右手の校舎は北1号館
2008.1.13 鉛筆・透明水彩

 この図書館には柱がない! 中には入れなかったので外からの観察と展示パネル図面からの推察だが、図書館の性格上重い大量の書籍を収納する機能と明るく開放的な閲覧室が望まれる。この相反する二つの用途を見事なプランニングで解決している。壁で囲まれた閉鎖的なスペースとそれらを結びつけるガラスで囲まれた開放的なスペース、それが回答である。
(図面では割愛したが、閉鎖スペースではたっぷりした階高を二層分(階高1/2)として、結果的に剛性を高めている)
閉鎖的なスペースが構造的には柱の役目を果たし、開放的なスペースが柱と柱の間の「間」を創ることになるのだ。そういえば、前川はこのようなクラスターを散りばめたプランをいろいろな計画でスケッチしていたのを建築雑誌で見た記憶がある。
そして同時代に設計された東京文化会館もそのような思想の一つの回答例だったのかと、今になって彼の真の意図を知った気分だ。
竣工1963(昭和38)年

図書館 平・立面図 (展示パネルより複写)

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【ミニ知識】学校の変遷

1847(弘化 4)年  京都御所日御門前に学習院開講する。
1877(明治10)年  神田錦町に開業式挙行、  改めて「学習院」の勅額下賜。
1884(明治17)年  宮内省所轄の官立学校となる。
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1908(明治41)年  東京府下高田村(目白)に移転。
1947(昭和22)年  官制廃止、私立校となる。
1949(昭和24)年  新制大学開設。初代学長「安倍能成」。

明治10年から始まったとして、130年も経って古い学校なのだ。

ピラミッド校舎

昭和34年度から36年度にかけて実施された「学習院第二次整備事業計画」の一貫として、昭和35年に竣工した。しかし、財政的には非常に厳しく「学習院創立85周年・私学15周年記念建設事業」としてあらたな募金活動を展開することでようやく完成することができた。前川国男建築設計事務所の総合計画により建設された中央教室は、研究・教育活動の中心地「学問のコア」という意味をもたされていた。そのためこの教室の完成とともに、学内の校舎の呼称も全て中央教室を中心とした東西南北に統一された。ピラミッド校舎は本来、学生から募集して愛称として決定していたのは「ピラミッド教室」だったが、いつのころからか、ピラ校と呼ばれるようになった。

出典: 『桜友会報』抜粋



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