五代将軍綱吉が生母桂昌院(三代将軍徳川家光の側室、於玉)の願いにより天和元年(1681)に建立した寺院。 桂昌院が帰依していた上野国碓氷郡の大聖護国寺の住職であった亮賢を江戸に招いて開山とし、幕府の牛込御薬園の地に創建された。 本尊は桂昌院の念持仏、天然琥珀如意輪観音菩薩。
一橋御門外の護持院は享保2年(1717)に類火によって焼失したので護国寺境内(東半分)に移し、観音堂を護国寺に、本坊を護持院として幕末まで護持院住職が兼帯した。明治元年には護持院は廃寺、寺地は護国寺に引き継がれたが、明治6年(1873)に一部が皇族墓地(豊島岡)となった。指定文化財も多く、国重要文化財7件、都指定2件、区指定18件に及ぶ。 真言宗別格本山豊山派である。
豊島岡門
「豊島岡」とは元々は護国寺境内の権現山と呼ばれていた小高い地域を指す。遷都するまでの皇族の墓所は京都であった。明治天皇の第一皇子「稚瑞照彦尊(わかみつてるひこのみこと)」が明治6年(1873)に死産したので新たに東京周辺に墓所・葬送儀式を行う場所として明治政府が召し上げたことから始まる。

門塀 と 瓦装飾 2012.03.3 鉛筆・透明水彩
この門柱2本に切妻の屋根をかけただけの棟門(むなもん)は簡潔な形で、前広場を囲むように設けられた屋根葺土塀でひっそりと閉ざされた空間を醸し出している。
特に興味を持ったのは土塀屋根に付けられている飾りで、菊の御紋に菊の葉がまさに京都民家の「鍾馗さま」のように見えることだ。(右図参照)
以前は「豊島ヶ岡御陵」と呼ばれていたが、天皇・皇后を除く皇族の墓なので正式には「豊島ヶ岡墓地」となっている。
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