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箱根山

「不忍通り」に面して違う形式の3つの門が列んでいる。そのかたちが各々を表現しているから面白い。

護国寺


 五代将軍綱吉が生母桂昌院(三代将軍徳川家光の側室、於玉)の願いにより天和元年(1681)に建立した寺院。 桂昌院が帰依していた上野国碓氷郡の大聖護国寺の住職であった亮賢を江戸に招いて開山とし、幕府の牛込御薬園の地に創建された。 本尊は桂昌院の念持仏、天然琥珀如意輪観音菩薩。

将軍家の祈願寺

 初めは、桂昌院の祈願寺であったが、元禄8年(1695)には護持院(註1)に次ぐ将軍家の武運長久を祈る祈願寺となり、寺領も1,200石の大寺院となった。桂昌院の護国寺参詣は三十数度に及び、多くは将軍綱吉も同道したという。

文京区の辺境にある護国寺

 一橋御門外の護持院は享保2年(1717)に類火によって焼失したので護国寺境内(東半分)に移し、観音堂を護国寺に、本坊を護持院として幕末まで護持院住職が兼帯した。明治元年には護持院は廃寺、寺地は護国寺に引き継がれたが、明治6年(1873)に一部が皇族墓地(豊島岡)となった。指定文化財も多く、国重要文化財7件、都指定2件、区指定18件に及ぶ。 真言宗別格本山豊山派である。

仁王門 不老門 大師堂 月光殿と多宝塔 惣 門 豊島岡門

 明治以降の周辺を付け加えると、北には「巣鴨監獄」(現・サンシャインシティー)、南には「東京陸軍兵器支廠」(現・お茶の水女子大)があり、都市部の僻地だった。そして当時の重要交通機関である路面電車は赤羽の「兵器支廠赤羽根火薬庫」と「東京陸軍兵器支廠」をつなげ、さらに都心にむけて走っていた。現在の(大塚 ─ 早稲田)間を走る以前の話である。

<案内リスト>

  1. 仁王門
  2. 不老門
  3. 大師堂
  4. 月光殿と多宝塔
  5. 惣 門
  6. 豊島岡門

 上図で江戸時代の配置図を見ると二つの寺院を合わせた伽藍であることが分かる。本来は現護国寺本堂は護国寺・観音堂であったが、神田にあった護持院が消滅(1717)したため、護国寺の本坊(住職の住む僧坊)を護持院とし、観音堂を護国寺(本堂)としたもの。当時は「享保(1716-1735)の改革」真っ直中、倹約奨励の時代である。

仁王門
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2012.03.3 鉛筆・透明水彩

 徳川将軍の祈願寺としての伽藍の中で重要な表門である。建立年月は不明であるが元禄期の造営で、現本堂(旧観音堂)造営の元禄10年(1697)より時代が下がると考えられている。
 形式は切妻造りの丹塗り八脚門、左右に金剛力士像、背面にも二天像が安置されている。

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不老門
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2012.03.3 鉛筆・透明水彩

 仁王門を潜り、本堂に続く石段の中腹にある一寸珍しい形式の門である。唐破風の庇を透して本堂を望む演出はかなり高度なものと理解する。建立は昭和13年(1938)に個人の寄進によるものであるとのこと。この門の左側に茶室がいろいろ点在していることを勘案すると、この長い参道と高低差を幾らかでも近づけたいという意図があるのだろう。それとも茶会を意図した待合いの用途も計算されていたのかも知れない。どちらにしろ社寺には珍しいものだとはいえる。

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大師堂
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2012.03.3 鉛筆・透明水彩

 一重の寄棟造り、桟瓦葺きで装飾を廃した外観は、素朴にして荘重な姿が好もしい。
元禄14年(1701)再営された旧薬師堂を大正15年(1926)に大修理、現在地に移築、大師堂としたたものだという。

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月光殿 と 多宝塔
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2012.03.3 鉛筆・透明水彩

 桃山風の唐破風のある建物は「月光殿」で、大津三井寺にあった日光院客殿をこの地を茶道本山の中心にふさわし建物として昭和3年(1928)に移築したものだという。
 また隣に配する多宝塔は同じ石山寺の多宝塔を模して昭和13年(1938)に当時の技術を結集して建設されたもの。その時代はまさに軍国主義が叫ばれる時代、境内西側を占める軍人墓地と護国神社につながるような護国と、何某かの関連があるのではないかと推察するのだが如何なものだろうか。

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惣 門
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2012.03.3 鉛筆・透明水彩

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断面スケッチ 2012.03.3 鉛筆・透明水彩

 この門は断面で見ると本来は格式のある大名クラスの武家屋敷に用いられる「薬医門」である。そして横幅が5間という大きなものだ。しかし入口の延長線には建物が見当たらないで、左手には「音羽ゆりかご会」で有名な幼稚園や、葬儀関係の施設が並んでいる。
 ここでこの寺の歴史に立ち返ると、護国寺の本坊は享保2年に護持院としている。だからこの門は護国寺の本坊表門だったと推定できる。そして護持院は明治に入って廃寺、しかしこの門は残ったということだろう。すなわちこの門の建設は護国寺創建当時の元禄年間だと推察される。
 ここで思い出されるのが上野の旧寛永寺本坊表門
通称・黒門である。寛永寺のものは貫首が皇族であることから自ずとそれなりの品格を示しているが、こちらの方は武士の豪快さを十分に示していて、規模では決して負けてはいない。

 がらくた市でお宝発見!今回のスケッチで一番の収穫である。

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豊島岡門
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豊島岡墓地入口 2012.03.3 鉛筆・透明水彩

 「豊島岡」とは元々は護国寺境内の権現山と呼ばれていた小高い地域を指す。遷都するまでの皇族の墓所は京都であった。明治天皇の第一皇子「稚瑞照彦尊(わかみつてるひこのみこと)」が明治6年(1873)に死産したので新たに東京周辺に墓所・葬送儀式を行う場所として明治政府が召し上げたことから始まる。

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門塀 と 瓦装飾 2012.03.3 鉛筆・透明水彩

この門柱2本に切妻の屋根をかけただけの棟門(むなもん)は簡潔な形で、前広場を囲むように設けられた屋根葺土塀でひっそりと閉ざされた空間を醸し出している。

 特に興味を持ったのは土塀屋根に付けられている飾りで、菊の御紋に菊の葉がまさに京都民家の「鍾馗さま」のように見えることだ。(右図参照)

 以前は「豊島ヶ岡御陵」と呼ばれていたが、天皇・皇后を除く皇族の墓なので正式には「豊島ヶ岡墓地」となっている。

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(註1)
【護持院】(ごじいん)
 江戸神田橋外(今の千代田区神田錦町)にあった真言宗の寺。山号は元禄山。1688年徳川綱吉が湯島の知足院を移して護持院と改称した。開山は隆光。1717年焼失,焼け跡は火除け地となり,護持院ヶ原と呼ばれた。寺名を音羽(おとわ)の護国寺内の本坊に移したが,明治初年に護持院の名称も消滅した。

出典:大辞林 第三版の解説


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参考文献:
 「BUNKYOUKU TEMPLE GUIDE」
 「護国寺・ホームページ」


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