武蔵野台地のほぼ中央部である小平市辺りは昔から葦が茂るだけの不毛な土地だった。田無に近い東部は石神井川の源流地域にもあたるので、多少の湿地帯が形成され小鳥や動物が集まる。石器時代(1〜2万年前)には、それを狙って生活した遺跡が発掘されている。長い間手付かずの土地だったが、人が関わりだしたのは戦国時代以降のことで周辺の山麓に限られていた。本格的には天正18年(1590)の徳川家康、江戸入城以降からで、耕地の狭い周辺の村々から燃料や家畜の飼料、肥料の供給地(入会地(いりあいち)・株場(まぐさば))として辛うじて入りだしてからになる。
江戸時代の当初は江戸川・荒川・多摩川の下流域に水田を開発していったが、それも進むと武蔵野台地に畑作地帯が開かれていった。その先陣を切ったのが「青梅新町」や「砂川新田」であるが、まだ武蔵野台地中央部には及んでいない。 そして承応3年(1654)に玉川上水が完成し、小川用水を取水することで「小川新田」の開発が可能となり明暦2年(1656)に始まる。それでも地味の乏しい武蔵野台地に入る者はあまりいない時代が続いた。
その後財政難の幕府の事情もあって8代将軍吉宗の「享保の改革」で享保7年(1722)江戸日本橋に立てられた高札により新田開発が奨励されることにより多数の希望者が現れ、開墾が一気に進んだ。
(明治22年の町村制施行で小川新田は小平市となるが、開発説明を省略するにはここをクリック)
このように一斉に開発が進められ、青梅から新宿まで瞬く間に開発し尽くされた。しかし幕府から公定金額で買い入れた開拓地の農民生活は厳しく、離散したり土地売却して離れるものが現れる。資力のあるものはそれらを買い入れ、さらには他人に譲渡したり入村農民向けに分譲するものが現れてくる。まさに土地が価値を生み出すことを知ったのだ。このことが本来「平等主義」で開発されてきた新田に貧富の差が生まれ、資金の乏しい農民にとっては厳しい時代を迎えることとなる。そして元文3年(1738)の大飢饉で新田は壊滅状態になると、その救済に迫られるに及んだ幕府は新田奨励策の失敗を認めざるを得なかった。
開拓当初の復元住居
小川家に残る古文書に基づいて復元された小川村・開発当初の住居。開拓農家の建物ではあるが、当時の一般的な農家の様子を知る手がかりにもなる。
2008.8.31 鉛筆・透明水彩
この建物は開発名主「小川家」が代官所に差し出した開発の請け書(下記参照)が残されていて、それに基づき復元された2人用の住居である。この見事に単純・合理的な架構をみると、現在の我々の住宅は大きな間違いをしていないか?と思わせるものだ。
平面は間口3間半、奥行2間、外側各面に3尺の下屋が取り付いたものである。梁・桁は松材、柱は栗丸太で、地面に埋め込んだ堀立柱、床は土間で「かって」はその上に筵を敷いて囲炉裏を切っている。「でい」「なんど」は細竹を編んだ床や藁・籾殻等を敷いた上に筵を敷いてある。屋根は藁、萱、麦藁で葺き、外壁も同様にして葺いている。 このプランはまさに一般的農家に見られる「田の字型形式」以前の「広間型形式」、いや更にさかのぼる原型に見える。
先輩格の「砂川新田」では開発当初は親村から通いの作業だったようである。「小川新田」でもこのような建物が、限られた農作業期間に活用されたのだろうと推測していたが、開拓参加者に与えていた建物と知って驚いた。そしてそのことが後の小川家が一名主としてだけでは収まらず、さらには農民との紛争の一端でもあることを知った。
左下の断面は「肥だめ」であるが、関東ローム層で覆われた武蔵野台地はたいへん地味が痩せていて、大量の施肥が必須であった。江戸へ野菜、穀物、薪炭を運んだ帰りは、人糞を持ち帰りるのが必要不可欠なことで、それを人力で運んだことを知ると当時の農民の生活がいかに大変であったかが想像される。(参考:山本和加子著『青梅街道』)
小平ふるさと村パンフレット(資料・小川家文書)より復刻 (作製&着色・や)
小川家に所蔵されていた開発当時の明暦年間(1655〜1657)のものと思われる古文書のテキストがパンフレットに掲載されていた。新田開発者「小川家」が入植者を呼び込むために、住まいを提供したということだろうか。そのいわば確認申請を代官所に提出した書類である。それを素にWeb版の復刻再生を試みた。
着色部分でよくわかるように、2人用、4人用、6人用と間口奥行を変えて対応している。
このように「小川家文書」としてしっかりと守り伝えられ、現在では小平市中央図書館の資料室で閲覧可能となっている。後世のものにとってはその当時の生活の様子をうかがえる貴重な資料がうれしい。
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旧小川家住宅玄関
小平の開発に重要な役割を果たした名主「小川家」の玄関棟。
2008.8.31 鉛筆・透明水彩
この建物は、旧小川村・小川新田の開発名主「小川家」に代々継承されていたものである。一見しただけでは建物の意味がわからないが、当時の全体像を知るとこの屋敷の壮大さがよくわかる。

明治21年当時の略図(昭和39年小川愛次郎氏-69歳-の記憶による)
(現在残されている表玄関部分を着色・や)
明治期に大改修が行われ、改修前の概略屋敷図がパンフレットに掲載されていたので転載しておく。それ以前の屋敷の概要を知ることが出来る貴重なものである。
それによるとこの表玄関は左右対称のものであること。そして完全に独立した玄関棟であって、その後に渡り廊下を介して数棟もの建物が連なっていること。まさに武家屋敷か?とでもいえるほどの邸宅で、一般の名主宅で見られる主屋に直接寄付き、式台・玄関・座敷へ、と配置した形式より遥かに高い格式をもった形式の住宅であったことがわかる。

明治21年当時の旧邸略図をもとにした鳥瞰想像図
(小川家の間口の広さと背景にした畑の広さがよくわかる)
表屋敷から少し覗いてみうよう。 まずは表大門の大きさが目につく。きっと豪壮な冠木門であったことだろう。門前の広場は「高札場」を設けていたからと思われ、一名主でない実力者と想像される。玄関の「控えの間」は三部屋あり、奥の間は18畳の本座敷・二部屋を繋げれば32畳の大広間となる、なんとも豪勢な部屋のしつらえである。
私人使用の通用門から敷地内に入ると、正面には2階建の長屋門が構えていて、それを通り抜けて初めて内玄関に至る。個人の贅沢さは街道筋からはうかがえ知れないような心配りが成されているのだ。そして勝手裏には水車小屋を配して、24時間フル稼働可能な動力を抱えているだけでなく、水車修理のための迂回水路まで配しているとは屋敷内が都市のような機能も擁していたと理解出来る。
ここまで小川屋敷を調べてみると、この羽振りは何処からもたらせるものか?という疑問がわいてくる。小川家の出自は北条氏の残党のようだが、ここまで重用されたことが不思議なのである。そこで調べていくうちに、小平市中央図書館のこんなページに出くわした。 なんと小川村には20軒を超える「武家抱屋敷」が存在していたのだ。これは時の勢力側と強い結び付きがあったと想像させるものである。新田開発に伴い敷地の転売が始められると土地の価格は2倍にも5倍にも高騰したとあると、現代のついこの間を思い出させる景色が見えてきた。
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旧神山(こうやま)家住宅主屋
江戸時代中期から後期にかけての武蔵野新田農家の姿を示す建物。
2008.8.31 鉛筆・透明水彩
「神山家」は小平市の南寄りを東西に走る五日市街道の北側に面した短冊形敷地に建っていた住居で、この辺りは「廻り田(めぐりだ)新田」になる。敷地はおおよそ間口33間(60m)、奥行142間(260m)で敷地面積約4000坪を超えるというものだが、その北側1/4(約1000坪)が宅地で、残り南側敷地の北半分が雑木林、南半分が畑となっている。表通り(五日市街道)からは畑・雑木林の真ん中を通って宅地に入るのだが、玉川上水からの用水路は五日市街道沿いなので、生活のための水汲みは延々と運んだことになる。昭和16年(1941)に入ってようやく井戸を主屋北東脇に掘ったようだが、その深さ62尺(18.6m)という記録が残されている。いかに井戸掘りが大変だったかと想像する。「神山家」は屋号「すみや」というぐらいで炭焼きを行っていたようだ。宅地前の雑木林というのはそのための材料確保のためであろうか。明治に入ると養蚕が盛んになり、南側敷地は桑畑となったようである。

設立時の平面(推定)(江戸中期〜後期)
言い伝えによるとこの建物は小金井に建っていたものを移築したものだという。屋根の東西が入母屋造りとなったのは養蚕を始める頃からのことで、それまではダイドコロとウマヤの排気用に東側上部だけだったのだろう。復元工事に際しての詳細調査から当初の平面が推定され「三間取り広間型形式」として当時の建物を伝えてくれる。
設立時はウマヤはなく外壁もないが、葺き下ろしの下屋がついていたようである。多分藁や薪が山積みされる場所で外壁を不要としていたのだろう。土間が夜間の重要な作業場だったと推測する。
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旧鈴木家住宅穀櫃
江戸時代後期、天災・飢饉のため幕府備荒貯蓄策によって各村に建てられた稗倉の一種。
2008.8.31 鉛筆・透明水彩
今風に表現すれば、コンテナー倉庫というところだろうか。桁行3間、梁間1.5間、高さ6尺の箱状建物を土地からちょっと浮かせて置き、上部は隠蔽することなく屋根で覆っただけの建物である。東北地方に見られる板倉とはちょっと違った建物となっている。
この違いは収納するものが貴重な籾ではなく非常食の稗・粟であり(名称も「稗倉(へーぐら)」と呼んでいる)、水田のない地下水位の深い関東ロームの地域に建っていることから来ているのだろうか? 地面ギリギリに設置し、断熱たっぷりの大屋根で覆っただけで、温度変化も少なく湿気にも守られた合理的なものになっている。
構造を見てみると
床はケヤキの土台を玉石の礎石の上に廻し、その上に3尺間隔に柱を建てる。大引は2尺間隔でその間に板を張り渡し、床とする。
壁は柱の間に横板を落とし込み、その外側に1尺間隔で間柱を建てて内側に山積みされた荷物でも、その荷重を受ける壁板を支持している。
柱上には桁を廻し、2尺間隔で天井根太を渡し、天井板を張り渡す。
屋根の梁は2尺ほど先に出した出し桁造りとして、軒の深さを確保している
この倉の屋根裏の広い空間が長らく気に掛かっていたが、あるときそれがわかった。そこには備蓄倉庫ならではの「古いものから使い廻す」という技が隠されていたのだ。すなわち屋根裏の天井板となっている床板を上げて、上から新しいものを落し込み、使うものは下から引っ張り出すという、いたって合理的な使い方になっていたのだ。(説明員の話)
【追記】
「櫃(ひつ)」であるから大形の匣(はこ)の類で、上に向かって蓋の開くものなのだ。入口は後世に倉庫として利用するために取り付けたものだった。ではどうやって中のものを取り出すか?
答えは「柱間に落とし込まれていた壁板を順繰りに引き上げて適当な高さの所から取り出していた」が正解。
(2011/05/29:改めて説明員から伺った話)
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