目白という地域は南に高田馬場、北に池袋という街に挟まれた高台にある。この建物は南側の神田川に面する目白崖線上に建っているので、下の道路・電車からもよく見え、以前から気になる建物であった。 このあたりは大変見晴らしの良いところで、明治33年(1900)に近衛篤麿(学習院長・貴族院議長)が広大な土地(2万坪)を購入、その後の篤麿急死に伴いその子文麿(後の首相)に引き継がれ、大正10年頃までは近衛邸の屋敷の一部だったそうである。(註1)
遠くから眺めるだけで一目瞭然。スパニッシュ風の大変エキゾチックな建物である。しかし何か謎めいている。 この建物は日立製作所の迎賓館「目白日立クラブ」として使われているので、関係者以外は入れない。散歩で立ち寄っても塀に沿って歩くことしかできないのでいつも残念な思いをして帰ってくる。 しかしこの機会にいろいろ調べてみたら意外なことを発見した。
建てられたのは昭和3年(1928)で、学習院旧制高等科の男子を対象とした寮だった。(註2) そして設計は宮内省内匠寮、担当は権藤要吉。この5年後に建てられた旧朝香宮邸(東京都庭園美術館)の設計者である。
この謎めいた不思議な形が一遍に判った気がした。1920年代というのは明治期からの古典的な建築様式だけでなく、ドイツの表現主義や構成主義等々さまざまなデザインが伝わってきた時期である。大正デモクラシーもその文化の一端であろうが、当時の若き建築家達はそれに目覚めていた。そんな表現主義の雰囲気をこの建物の連続アーチに見る事は出来ないだろうか。
その後の修復工事が完了して見学会到来
東京都は歴史的な街並み景観の形成を図る新たな取組として、公益財団法人東京都防災・建築まちづくりセンターに「東京歴史まちづくりファンド」を設立している。 このたび、このファンドを通じて都選定歴史的建造物の保存・修復が成され、たった一日だけの公開となった。その日は関東地方を台風が通過、午後には何とか収まったので出かけてみた。
建物内部の公開はこの本館だけであった。
この施設建設が決定された年は大正14年(1925)で、パリ国際博覧会(通称アール・デコ博覧会)である。そのため当時の最先端アール・デコ様式の影響を至るところ見つけることが出来た・・・が、そのことよりもその裏側に建てられている数々の旧学生寮についても窺い知る絶好のチャンスとなった。

建設当時の「昭和寮」
この敷地は南側に神田川と接する崖地だから、高田馬場・新宿の町並みを一望する場所である。建設当時の資料(右図)でも判るように、敷地の形状を生かして自由な分散配置としている。自ずと各棟間はまちまちで、広場が形成されたり、階段路地だったりと村の景観をなしていたと想像する。現状は維持管理を放棄された状態で、草ぼうぼうの荒れ地となっている。一私企業の所有・管理に頼っているわけだから使い方にとやかく言えないが、何とももったいない気がした。イヴェント好きなら早速でも屋外コンサート会場に・・・とでも提案することだろう。
追加情報
目白日立クラブに向かう正面の道路ど真ん中になぜか欅の大木が立ちはだかっている。そしてこの樹を中心にしたあたりを地元の人たちは「近衛町」と呼んでいる。
かつての近衛邸の車寄せロータリーがあったところがこの大木のところで、その西側に玄関正面を東に向けて建っていた。 大正11年(1922)に敷地を分譲するにあたりその車寄せロータリーは残され、南北に道路が延ばされたのだろう。まさにこの大木は屋敷の主のようなものなのだ。
(註1)
近衛篤麿の急死(1904)で、借財を返済するために大正期から書画骨董の売却から始まり、ついには屋敷を売り出さざるを得なくなった。その分譲をしたのが「東京土地住宅株式会社」で、道路・下水等の設備をして、「近衛町」と名付けて売り出した。分譲価格は68円50銭/坪とのこと。
当時の新聞には 「有識無産階級を主眼として譲るつもりです。同地は学習院の向う側で隣地はたいがい坪当たり110円の値です」 と掲載されている。
それでも思うようには捌けなかったのか、当時「目白文化村」を分譲中の堤康次郎・箱根土地KK(現・国土計画)にその後を託している。
(註2)
旧昭和寮は、昭和3(1928)年に旧制高等科学生の寄宿舎として、現在の新宿区下落合2丁目13 番28号の敷地に建設された。 西洋式建築の堅牢な建物であったが、昭和27(1952)年に売却。 同年、同じく下落合2丁目に大学学生のための寮を設け、それ以前の寮の名称をとり「昭和寮」とした。
以後、当初から数えると70年近い歴史を刻み学生に親しまれてきたが、平成9(1997)年3月ついにその幕を閉じた。

