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箱根山
新宿区戸山公園の箱根山(都23区内で一番高い山である 標高44.6M)

佐伯祐三アトリエ


 山手線目白駅から西に徒歩15分ほどの地域に大正期に「目白文化村」として開発された場所があった。 現在は新目白通りと山手通りで縦横に分断され、かつての面影はない。 そんな辺りに若くして亡くなった洋画家・佐伯祐三のアトリエが残っている。

sketch
2006.3.5 鉛筆・透明水彩

 そもそもここに新築したのは佐伯にとっての憧れの画家・中村彝(つね)がこの落合に住んでいたからとも云われる。 当時のこの辺りは畑地や原っぱ、雑木林が多く、その中に東京市外の別荘や大邸宅が点在しているような風情だったようだ。ちなみに目白文化村を開発したのは堤康次郎の箱根開発(現・国土開発)で今では有名な田園調布もまだ分譲販売する以前のことだ。 新時代を標榜する文化村にモダンな白いとんがり屋根のアトリエはさぞかし目立ったことだろう。しかし佐伯のここでの生活は新婚時代からパリ渡航までの数年と二次渡航前の1年で合わせても5年程度の期間だったが、南に妙正寺川を挟んで新宿を見渡せる地域は「下落合風景」として多数の連作が残されている。

 現在の建物は迷路のような住宅街の中に埋もれていて、住居部分は取り払われ、アトリエとその庭をこぢんまりとした「区立佐伯公園」として保存されている。
 北面一杯に採光のためのガラス窓が取り付けてあるが、規則正しく四角形を繰り返し使用しているパターンはアール・デコを予感させる。 南側の高い位置に扉が付いているがその意味はいまだに分からない。 南側には住居部分が連なっていたはずだから、アトリエに日差しを取り入れる唯一の窓ということだろうか?

 

佐伯祐三(さえき ゆうぞう、1898年4月28日 - 1928年8月16日)

 佐伯祐三は、大正〜昭和初期の洋画家。大阪市生まれ。
佐伯は画家としての短い活動期間の大部分をパリで過ごし、フランスで客死した。作品はパリの街角、店先などを独特の荒々しいタッチで描いたものが多い。佐伯の風景画にはモチーフとして文字の登場するものが多く、街角のポスター、看板等の文字を造形要素の一部として取り入れている点が特色である。作品の大半は都市風景だが、人物画、静物画等もある。
第1回のパリ渡航は1924年(大正13年)1月から1926年1月までで、約2年の滞在であった。
2度目の滞仏はそれから間もない1927年(昭和2年)8月からであり、佐伯はその後ふたたび日本の土を踏むことはなかった。佐伯は旺盛に制作を続けていたが、1928年3月頃より持病の結核が悪化したほか、精神面でも不安定となった。同年8月16日、入院中のセーヌ県立ヴィル・エヴラール精神病院で死去した。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』抜粋



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