隅田川は江戸時代からたびたび洪水被害を引き起こしてきた。なかでも明治43年(1910)の洪水で東京に甚大な被害をもたらし、これを契機に大規模な放水路の計画が為された。明治44年(1911)には測量が始まり、大正2年(1913)には人力・馬力で掘削がはじめられている。そして関東大震災の翌年・大正13年(1924)に岩淵水門が完成し「荒川放水路」の完成となった。(放水路が単に「荒川」と呼ばれるようになったのは昭和40年(1965)以降のこと)
荒川放水路の建設は千住にとっては大事件で、今までの道の多くが土手に当たって行き止まり、そのため町内の今までの交通網、用水路は使い物にならなくなってしまった。時は自動車交通が盛んになる頃で、千住新橋は鉄橋だが、その他は重量のある自動車は渡れない木橋だったのだ。
旧千住郵便局電話事務室(現 NTT千住ビル)
この建物は昭和4年(1929)に建てられた。設計者は山田守で日本のモダニズム建築の先駆けとなった人物である。御茶ノ水の聖橋、晩年には東京の武道館や京都タワーの設計者といったら分かりやすいだろうか。帝大卒業後に逓信省に技師として入省し、全国各地に多数のモダンな逓信庁舎を設計しているが、この建物は当時の雰囲気を今に伝える数少ない建物の一つである。

国道から少し踏み込むと全景が表れる。(3階は後の増築) 2011.6.12 鉛筆・透明水彩
当時の先進的なデザインはコルビジェを初めとするインターナショナルスタイルでストイックなまでに研ぎすまされた直線的なものだが、それを思わせる全体の纏め方に白壁や窓の連なりにうかがうことが出来る。しかし大きく違うのは当時流行のスクラッチタイルを使用しながらも、角を丸めた曲線を基調そしていて、ポイントになるところには縦長の楕円窓・扁平アーチ入口と、人間くささを醸し出しているのだ。

中庭は駐車場となっていた。 2010.3.19 鉛筆・透明水彩
角の入口は客対応のものだろうが、南正面の入口トンネルを抜けると中庭に出る。現在は工事用の車だろうか梯子を屋根に付けた車がぎっしりと駐車していた。しかし人の気配はなく、使われている建物なのか分からない。
ここに来て目を引くのがトンネル天井が中庭庇に同化していて、それも見事にタイルで覆われているのだ。桃山時代の華麗な唐破風を思い出させ、歌舞伎座や銭湯でお馴染みの日本伝統の入口マークである。裏でこんな楽しみ方をしているとは!

通路のトンネル、曲線の極致 2010.3.19 鉛筆・透明水彩
トンネルの中も十分楽しませてくれますよ。丸窓もトンネルカーブに合わせていたって有機的、受付窓なのだろうか、そちらの方も曲面タイルを使って抜かりがない。
逓信省・郵政省時代から民営化された時代である。いつまでこの建物が残ってくれているか不安を感じながら後にした。
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