メタボリズム(METABOLISM)
1959年に黒川紀章や菊竹清訓ら日本の若手建築家・都市計画家グループが開始した建築運動。新陳代謝(メタボリズム)からグループの名をとり、社会の変化や人口の成長に合わせて有機的に成長する都市や建築を提案した。日本における「現代建築」の端緒であると見られている。 都市規模の巨大構造体(メガストラクチャー)を志向しがちなメタボリズム・グループの作品はしばしば技術官僚的と評され、前衛的なデザインも日常への応用とは離れた修辞的なものであった。これらはアーキグラムによる実現しなかった建築デザイン(ウォーキング・シティやプラグイン・シティなど)とよく比較されている。
モダニズム建築を主導してきたCIAM(Congres International d'Architecture Moderne、シアム、近代建築国際会議)が1956年を最後に開かれなくなり1959年に終焉したころ、CIAMの若手メンバーらによる新しいグループ・Team X(チーム・テン)が台頭し世界の若い建築家らに影響を与えた。日本の若手建築家達も彼らと交流し、その影響を受けた。 1960年に日本で世界デザイン会議(World Design Conference)が開かれる予定になっていたが、この会議のプランニングに関わった建築家達(浅田孝、菊竹清訓、黒川紀章、大高正人、栄久庵憲司、粟津潔、槇文彦)と建築評論家の川添登は建築の将来について話し合いグループを結成した。世界デザイン会議において、彼らは最初の宣言である『METABOLISM/1960 - 都市への提案』を発表し、「海上都市」「塔状都市」「新宿ターミナル再開発計画」など成長し新陳代謝する巨大都市のアイデアを披露した。彼らのアイデアは将来の社会を具体的に提案しようとしたもので、建築のみならず哲学など広く近代文明にも言及するものだった。 これら巨大都市計画は実現しなかったが、個々のメンバーは建築にその思想を適用させていった。黒川紀章の中銀カプセルタワービル(1972年)はその一例である。未来志向的な黒川・菊竹らとは別に、建築を集積させて都市を形成しようとする槇や大高らの構想は穏健なものであった。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』抜粋 |