我孫子宿・手賀沼
手賀沼風景
現在の「我孫子」は水戸街道と成田街道との追分にあたり、その宿場町、我孫子宿から発展した。 我孫子の原風景は東西に延びる手賀沼沿いの低湿地とその北側段丘を上がった高台、旧街道沿いの古い家並みにある。 明治末期から大正にかけて手賀沼に向かった斜面林のすぐ上に、沼を借景とした別荘、邸宅が建てられた。当時は「北の鎌倉」とも称されて志賀直哉、武者小路実篤、そして「民芸」運動の指導者、柳宗悦・・・・「白樺派」と呼ばれる文人達を初めとして文化人達が愛した別荘地であった。
我孫子宿脇本陣
我孫子宿脇本陣 2005.5.15 鉛筆・透明水彩
我孫子宿は水戸街道中、小金宿と取手宿の間にあり、江戸時代、O 家は宿場の問屋兼名主を勤め、脇本陣としての家柄も持っていた。現在の姿は前面の道路も拡幅され、塀越しに眺めるだけ(非公開)であるが、天保2年(1831)の建築で茅葺の屋根は往時の町並みを十分思い起こさせてくれる。
「我孫子本陣」は道路向い側にあり現在は「我孫子宿本陣跡」の標識が残されているのみである。なお本陣の「離れ」が少し離れた場所にある旧村川別荘に茅葺屋根を瓦葺に変更されて移築されている。
門松旅館
門松旅館は大正期には別荘地として知られだし、文人達の常設宿としてよく利用されていたようだ。
どの都市でも見受けられることなのだが、町中の木造老舗旅館などが高層建物に敷地際まで囲まれてしまうのは、やむを得ないことなのか?
我孫子と嘉納治五郎と門松旅館を巡るはなし(引用)
旧脇本陣の小熊家の近くの旧水戸街道ぞいに、「門松」という塀の長い割烹理屋がある。
ここには、明治四十三年頃、講道館を興し、東京高等師範の教授でもあった嘉納治五郎がよく訪れた。 この料理屋の前身は松島屋という宿で、明治十七年明治天皇の御座所となった由緒ある旅館であったが廃業し、そのあと角松に経営が移った。
嘉納が訪れた頃は木造二階建てで、二階に手すり廊下があり、軒には大さな軒燈が下がっていた。 嘉納は、いまの縁一丁目の井出口家のところに別荘をかまえ、土、日曜には東京からよくやってきては、角松で川魚料理に舌鼓をうった。嘉納が我孫子に別荘をかまえたのは、おそらく我孫子生まれの有名な歯学者血脇守之助のすすめであろう。 すっかり気に入って、将来は理想的な学園都市を夢見ていた。 約七万平方メートルに及ぶ広大な土地を手に入れ、そこに幼稚園から大学まで作る予定であった。 地元の人々も進んで土地を提供したり道を拡げたり、ヒノキやケヤキなどの並木を作ったりしてくれたが、いよいよ建物の段階に入って、文部省が強硬に反対してその夢もつぶれた。 不景気な時代に、なにも我孫子のような辺鄙な田舎に大学など作る必要はないというのが当局の考えだったようである。
その後、嘉納後楽農園という農園にきりかえられたが、結局は坪三円から五円で売って、そのあとは尼ケ崎土地会社が区画整理し、売られてしまった。日本の分譲宅地のはしりである。
出典:「新四国相馬霊場八十八ヶ所の巡り」
旧村川別荘
旧村川別荘新館 2006.5.14 鉛筆・透明水彩
西洋古代史の大家であった村川堅固氏とその子息堅太郎氏の別荘。 新館は民芸運動の影響だろうか朝鮮様式を取り入れた独特のデザインの建物で、手賀沼を目の前にする傾斜地に建つ。現在は建物が乱立していて眺めはよくないが、当時はみずうみを一望にして遠くには富士山も目にしたのではないだろうか。昭和初期の別荘地の雰囲気を今に残している。
母屋は我孫子宿本陣にあった離れを移築したものであるが移築時に屋根の茅葺は瓦葺に替えられた。(スケッチ割愛)
志賀直哉邸跡
傾斜地の下りきった位置にあり、現在は公園になっていてその片隅にこの建物がぽつんと建っている。 ここまで下がってくると湖畔という位置なので庭先から水遊びをしたのだろうか。 大正4年(1915)から12年(1923)まで暮らしていて、ここで「城の崎にて」、「和解」、「小僧の神様」、「暗夜行路」などが生まれたそうだ。 現在はその後の湖畔干拓により家並みが建ち並び、みずうみを見渡すことはできない。
なおこの建物は「離れ」で主屋が別にあったものと思われる。
陶芸家バーナード・リーチ氏の碑
陶芸家バーナード・リーチ氏の碑
2006.5.14 鉛筆・透明水彩
我孫子というと柳宗悦を挙げたいところだが現在は関係者の住まいと思われるものがあるだけで、湖に向かう急な階段の小径が当時を偲ばせるだけだ。 手賀沼一望にする張り出した山塊の頂部に位置し、その近くに窯を設け、リーチを呼んで使わせたとのこと。 民芸運動を伝えるものとして湖畔にこの碑が唯一残されている。
I have seen a vision of the marriage of East and West.
Far off down the Halls of Time.
I heard a childlike voice. How long? How long?
Bernard Leach
碑文は氏のうたわれた詩である
私は東洋と西洋の結婚を 夢見つづけて来た
はるか悠久の彼方から
聖童の声を聞いた
それは いつの日か いつの日か
英国人バーナード・リーチ氏は六代尾形乾山に師事し 奥伝を授けられ大正5年当地白樺派同人柳宗悦邸に窯をつくり、作陶をはじめられた。
氏は東西文化の結合を志し歴史を飾る輝かしい芸域を開かれた。
巡礼の像は氏の筆による墨絵であり氏の希望により刻まれた。
旧根戸村新田名主邸
旧根戸村新田名主邸 2006.5.14 鉛筆・透明水彩
I 家は新田開発に功労があり、根戸新田の名主を代々勤めた旧家で、天保時代には代官の「預所」が置かれた。
「築300年近くにもなり、代官羽倉外記巡視時には定宿にもなった」とのこと。(当主談)

現在の姿。表玄関の佇まいは往年の栄華を偲ばせる。
築300年ということは不明だが、天保年間(1830〜1843)頃の名代官といわれた「羽倉外記(はぐらげき)」との関わりは事実だろうから200年以上は十分経っていることになる。
手賀沼東端から湖全体を一望にしたところに位置するこの家は、沼巾を縮める干拓事業で大きな敷地を手にし、かつての湖つづきの屋敷は、現代の自動車道路で遮断され湖まではつながっていない。
現在の建物は金属屋根で覆われて、外壁も金属板で封じ込められた不使用状態になっている。 取りあえずの保存という状態だが、使われている建物になって欲しいところだ。
そんな願いを込めて往時の茅葺と白漆喰壁の姿を画紙の上で再現しておく。
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