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急傾斜地のヴィンヤードから足利市内が一望できる 2005.01.10

足利のワイナリー


 関東平野の足利にユニークなワイナリーがある。 冬と夏の季節を変えて訪れてみた。

 ワインというとイタリア・フランス・ドイツ・スペイン等々・・・ヨーロッパのものをまず最初に思い描く。それもそのはず、そのヨーロッパのワインはあのローマ帝国が制覇した国々にワイン作りを奨励して大いに普及させた歴史からきている。
 我が国でも明治以降にワイン造りに幾多の栽培家がチャレンジしてきた。 しかし、夏季には湿潤なモンスーン性気候の地域にはワイン用ブドウの生育は合わないようで、失敗・挫折・退却の歴史の積み重ねであった。
そんな中で関東平野の足利で果敢にも挑戦しているのだ。

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正面に見えるのが開墾した急斜面のヴィンヤード 2007.09.02 鉛筆・透明水彩

このワイナリーを知ったきっかけは、2000年の沖縄サミットで、その晩餐会の乾杯に、ここのスパークリングワインが使用されたと知ってからで、そのワイナリーを調べていくうちに色々なことが解ってきた。 まずは栽培地が無謀とも思える、夏季に降水量の多い関東平野を本拠地にしているのだが、そればかりではない。 決して広くはないヴィンヤードの隅々まで懇切丁寧に手入れをしているのだ。 訪ねてみて改めてユニークなワイナリーで驚かされた。

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最初に迎え入れてくれるログハウス 左頁の山腹にストックヤードがある 2005.01.10 鉛筆・透明水彩

まずは生い立ち

 戦後も終わりといわれ始めた頃(1958)栃木県足利市の中学校の特殊学級生徒による急斜面(勾配38度)3ヘクタールの開墾から始まった。
その特殊学級は教員である川田昇を中心として学園の施設へと進め、やがて成人対象の知的障害者厚生施設「こころみ学園」としてスタートした。(1969)
ブドウと椎茸栽培を中心とした農作業を通した自立を目指す施設であるが、やがてそれに賛同する父兄たちの出資により「ココ・ファーム・ワイナリー」が設立され(1980)最初の出荷が1984年という新しいワイナリーなのである。

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山頂よりヴィンヤード全景 真下は覗き込まなければ見えない 2007.09.02 鉛筆・透明水彩

そしてブドウ畑がユニークである

 発足当時の急傾斜地とは足利市街を遠く見通せる山の南西斜面である。 この急斜面が排水性のよい土地と日光を十分に浴び、ブドウ栽培の理想に近づけている。 公称勾配38度と云っているが、場所によっては40度も超えていると思われるような崖地である。 当然こんな崖地のブドウ畑では手入れも取り入れもふつうなら不可能なことであるが、施設の人々の手で根気よく一粒一粒を大切に育てられている。

 生育期には虫がつかないように各根本には虫除けカバーを取り付け、毎日虫の見張りや草取り、房がつけば雨に当たらないように笠カバーを取り付け、小鳥から実をとられないように見守る。
 収穫間近になるとブドウをねらってくるカラス対策には驚いた。 当番園生達が片手に空き缶、もう片方には棒を持って山に上がっていくのだ。 

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カラス番は夕方が忙しい 2007.09.02 鉛筆・透明水彩

 夕方も近づいてくると、 カンカンカンカン・・・・・

それに応えるように山のあちこちから カンカンカンカン・・・・

カンカンカンカン・・・・・

 これも11月の収穫祭までの限られた行事だ。

ストックヤード

 ワインを貯蔵している倉庫を見学した。 コルゲート鋼板のトンネルで山腹をくり抜いたものだ。 一番奥に、樽詰めされたワインが静かに休んでいる。 年間を通して安定した湿度と温度を保って理想的な環境だ。 最近はモーツアルトの曲を聴かせて養生したワインも出荷していると聞くが、このセラーが音楽で満たされているのだろうか?

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ストックヤードはトンネルの中 2005.01.10 鉛筆・透明水彩

 入り口近くはスパークリングワインの作業場になっている。 瓶詰めされた発酵中のワインを長らく逆さに列べて、1日に数回、揺り動かすことで澱を首の方に寄せる。 充分栓の方に寄ったところで瓶首のまわりを凍らせ、短時間に一気に澱の固まりを取り除く。 不足分を補充して正式の打栓をし、完成させる。 この一連の作業がここで行われている。

・・・・・・・・・・・・

 個人的には「ワイン用ブドウ栽培で日本産、いわんや関東産のものなんて良いものができるわけがない」と確信していたのだが、この施設を目にしてからは考えを多少改めさせられた。


 不適格と思われる場所を人間の努力によって克服している様はちょうどイタリアのチンクエ・テッレという町を思い起こさせる。外敵から逃れるために海に迫る岩壁にやむを得ず住み着いたのだろうか、その住民達がその岩場を長い時間をかけて少しずつ砕いては石垣にし、ブドウを栽培し、立派なワインを造り上げている。 そんな姿に重ねて見てしまうのだ。

ブドウについて

原産地

 ワインに適したブドウの原産地は西アジアと言われている。 雨量の少ないところで長い根を地中深く伸ばして自生していた。 乾燥しているので病気にもかからず、虫も付かず、寒暖のはげしい気候から糖度の高いブドウとなる。
 この甘い葡萄汁を瓶に貯め込むと、果皮に自然に付着した酵母のはたらきがブドウの糖分を炭酸ガスを発生しながらアルコールにする。
 そう、ワインの誕生である。
かようにワインとは自然に出来てしまうもので、人類最初のアルコール飲料といわれる所以である。
 コーカサス地方のグルジアあたりでは8000年前とも6000年前ともいわれる頃からすでに飲まれていたと伝え聞く。 地中海全域を舞台に活躍したフェニキア人がギリシャ、やがては北アフリカ、イベリア半島にまで伝えたのはその遥か後のことである。


ブドウの種類

ブドウは大きく分けて2種類ある。
 1つは我々がよく生のままで食べるもので、もう一つはワイン用のもの。 (ワイン用は生ではあまり食べられていないようだ。)

  • 生で食べるもの (アメリカ系)

    私たちが一番馴染んでいるもので、デラウェアを代表としたものだ。これらはアメリカ大陸(東部)原産のものがほとんどである。

    (Fox grape、学名 ヴィティス・ラブルスカ Vitis labrusca)

    これでワインを作ると異臭(フォクシー臭という)がどうしても出来てしまい、ワインには不適当とされる。
    日本で盛んに栽培されているのはこの系統のブドウがほとんどで気候に適合しているからという理由。

  • ワイン用のもの (ヨーロッパ系)

    西アジアを原産としたもので、私たちが飲んでいるワインのほとんどはここを原産地として各地に広がっていった。

    (European grape、学名 ヴィティス・ヴィニフェラ Vitis vinifera)

    このブドウがギリシャ、イタリアと伝わり、ローマ帝国によるヨーロッパを中心としたワイン文化が創られていったのだ。
    19世紀になって特にフランスで成功した品種がアメリカ・カリフォルニアに伝えられた。 その後のヨーロッパは害虫の大発生でそれまでのブドウは全滅したが、アメリカから再移植して救われることになる。

     一方、中央アジアを通して東に伝わったものは中国、そして日本にまで伝わっている。 それが日本唯一のヨーロッパ系ブドウ「甲州」である。

    illust

    葡萄唐草文軒先瓦(岡寺跡)by JAANUS


     仏教美術のデザインの一つ「葡萄唐草文様」はシルクロードの各地に残っているが、我が国にも薬師寺薬師如来像(白鳳時代)台座にある葡萄唐草文様としても伝わっている。 仏教伝来と一緒に伝わったものだろうか?

    :5世紀頃の楼蘭出土の楯や雲崗石窟の仏像光背に葡萄唐草が刻まれている。

  • もう一つ、東アジアで少しだけ栽培されているものがある。

    (学名:ヴィティス・アムレンシス Vitis amurensis)

    これは山葡萄でモンゴルからアムール川流域の寒冷地に自生する固有のもの。 日本の北海道・十勝にも自生している。

    これから出来たワインが 十勝ワイン アムレンシス で野趣溢れるフルボディーワインとして国際的なコンクールで大賞を受け、日本のワインとして世界から高く評価された。
    それ以来、十勝の池田町が脚光を浴びることとなる。

 

池田町について

 元々池田町は産業が乏しく、加えて1952年(昭和27年)の十勝沖地震とその後2年連続の凶作が重なって町の財政が破綻状態となった。 町民の暮らしも周辺に比べて貧しく、当時の町長であった丸谷金保が町内に自生している山ブドウをヒントに町営でワインの醸造に乗り出すことになった。当然のことながらワインの醸造技術を知るものは町内にはおらず、つてを頼って戦後当時のソ連に抑留されワイン農場で働かされていた者を招いたという。
 1963年6月に1k?の試験醸造を始めたが、寒冷地に向いた品種のブドウではなかったため冷害でほとんど収穫できず、醸造技術も未熟で品質は安定しなかった。当然ながら売り物にはならず、加えて本格的なワインがまだ日本で受け入れられなかったことから町内からも町長を批判する声があったという。 しかし、町の職員をドイツに派遣し醸造技術を習得させ、耐寒性の高い品種のブドウに切り替えるなどして1975年になってようやく商品化に成功した。
 以降は生産量や品種の拡大、知名度のアップにつとめた。 現在は品質も向上しており、本格的なワインが広く受け入れられるようになったことから「十勝ワイン」として高い評価を受けるようになっている。 また、町民に対しても「町民還元ワイン」として安価にワインを提供し、普及に努めた(現在は「還元」の文字が取れているが、発売箇所が町内などごく一部に限定されている)。 ワインによる収益はトータルで20億円以上となり、町の財政を潤すことになった。
この池田町の町おこしの取り組みは後に大分県で展開される一村一品運動などに影響を与えている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


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