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八重根接岸港から八丈富士裾野と八丈小島を望む 2002.04.01 鉛筆・透明水彩

八丈島


夏休み中は観光客で賑わう島だろうが、この時期は台風の影響を受ける季節。閑散とした風景を期待してじっくり歩き回ってみた。

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クリックで各地にジャンプします

 この島は大きく二つの山で形成されている。西に位置する八丈富士と東の三原山だ。地図を眺めて見ると「ひょうたん島」の形にそっくりである。
山の形を見ると、八丈富士(西山とも云う)の裾野はなだらかに海に至り、極めて象徴的な形をしている。片や三原山(東山)は幾つかの峰を抱えた山々から成り、断崖絶壁で海に接している。この二つの山とそれを繋ぐ平地とで出来ている。

 八丈富士は約一万年前に海中から噴出、直近では慶長10年(1605)の噴火が記録されている。一方三原山は少なくとも十数万年前から噴火活動を繰り返し、数千年前から噴火活動は停止、その長い歴史が隆起や浸食を繰り返し、現在の地形になったそうだ。だから三原山周辺の地形は海抜百メートルもの絶壁で海と隔てられているのだ。
(このような知識は「八丈島地熱館」で説明が丁寧になされていて、そのうろ覚えである。)

三根地区 大賀郷地区 樫立地区 中之郷地区 末吉地区

三根地域

 島東北部に位置する平坦な地域。本土との連絡船が最短で結ぶ場所として、島内で一番拓けた地域でもある。

抜舟の場 (ぬけふねのば)
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三根・流人の碑 2013.09.25 鉛筆・透明水彩

 八丈島というと「流人の島」というイメージがつきまとう。しかし流人の歴史は高々400年ほどでしかない。(慶長5年(1600)に豊臣方西軍総大将「宇喜多秀家」の伏見城陥落から始まる)
黒潮の真っ只中・絶海の孤島で、都の生活に慣れ親しんでいた当時の流刑者達は如何ほど故郷を思ったことか?そんな場所として現在では「抜舟の場」を想像して「流人の碑」が建てられていた。

流人の碑

江戸時代の八丈島への流人は1900名程であり、その内の半数は刑期半ばにこの島で亡くなっています。御定書の付文に「流人ソノ生活勝手タルベシ」(自分で勝手に生きなさい)とあるように、突き放された流人達の中には、飢餓や流行病で亡くなる者、本土恋しさに抜け船を計って処刑された者等様々ですが、いずれも恋しい人や最愛の妻あるいは可愛い我が子と、再会できるご赦免の日を待ち侘びながら、淋しく亡くなったものと思われます。しかし刑期満了後も島に残り天寿を全うした人々もいました。

日本橋ライオンズクラブ・浜町ライオンズクラブ・柳橋ライオンズクラブ・掘留ライオンズクラブ・人形町ライオンズクラブ・京橋ライオンズクラブ・八丈島ライオンズクラブ

1993年建立
文責 高橋聡正

神湊 (かみなと)漁港
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三根・神湊漁港 2013.09.25 鉛筆・透明水彩

 この島第一の漁港。活気ある地域のはずだが、あいにく台風接近中で、この漁村はひっそりとしている。唯一の活気ある音は漁港の拡張工事からだけ。

傍らに次のような碑が建っていた。この景色が「八丈八景」の一つ「神湊帰帆」とのこと。

神湊帰帆 (かみなときはん)

 昔、難風の時、山上に女神が現れて漁船をこの港へ導いたところから神湊と呼ばれているが、西南風を遮る位置に在り、江戸向けの出航には最短距離の所でもあるので、八丈一の港とされていた。
 釣りを終えて夕方帰り来る舟の美しさが、「八丈八景」に選ばれたものである。

 追い風に 神の湊の 真帆片帆
  夕日をきせて 帰る釣り舟

服部 弘道

掲示板より

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三根・神湊漁港 2013.09.25 鉛筆・透明水彩

 同じ漁港でも、その奥には昔ながらの小さな漁船が陸揚げされていた。案の定、台風の影響で大きな漁船はすべて更に奥の港内にひしめき合って係留、待機の状態だ。

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三根・神湊漁港 2013.09.25 鉛筆・透明水彩

 陸揚げされている漁船には、船体の横に突きだして固定する浮き(アウトリガー[outrigger])がある。南太平洋で用いられるアウトリガーカヌーを彷彿させ、「海上の道」を身近に感じてしまう。

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三根・神湊漁港で待避する連絡船「還住丸」 2013.09.25 鉛筆・透明水彩

 この漁港をあとにするときにちょっと気になっていた船。周りの船と比べて何となく違う・・・漁船ではない! 船名をメモして、あとで聞いた話ではこの八丈島から更に南60km沖「青ヶ島」への連絡船だという。
 現在、小笠原諸島方面で台風20号が活躍中。そのため海が荒れて連絡船が欠航しているのだが、島にとっては珍しいことではなく、本土と八丈島との連絡船も現在欠航だという。その避難港は波によって選ばれている。現在は南からの影響は大きいので島の北にある「神湊」だが、北からの影響があるときは南の漁港「八重根港」に避難するのだという。ちなみにこの「還住丸」の母港は「青ヶ島」と対面する八重根港である。

底土 (そこど)接岸港
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三根・底土港 2013.09.30 鉛筆・透明水彩

 東京・竹芝桟橋からの連絡船(さるびあ丸)が接岸する港。この島の物資はほとんどこの港を経由するからバックヤードが広く取られている。
 この日はこの程度の波だが、天候によっては島の反対側にある八重根港に入るときもある。

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大賀郷地区

優婆夷宝明神社 (うばいほうめいじんじゃ)

 境内は大賀郷・八重根港に続く高台に位置し、八丈島・八丈小島・青ケ島の総鎮守として崇敬されている古社である。(以下、Webで調べたこの神社にまつわる伝説を独断的に解釈したものである)

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大賀郷・優婆夷宝明神社 2013.09.28 鉛筆・透明水彩

 伊豆諸島は造物主・三島大明神の一族により領有されていた。 三宅島に居を構える事代主命(ことしろぬしのみこと)の崩御に伴い、八人の妃神の一人である八十八重姫(やそやえひめ・優婆夷大神)は八丈島に渡った。その地で古宝丸(宝明神)を生み、その親子から八丈島の繁栄が始まった・・・というのが島民の古くからの言い伝えである。
 そのためこの神社は八十八重姫(やそやえひめ・優婆夷大神)と古宝丸(こほうまる・宝明神)の二柱を八丈島の総鎮守とした二神の相殿となっている。神社名はそのことを素直に語っている。
(一時期、明治維新以後の政府の指導・意向によって、天照皇大神や大山祇命を主神とした歴史も秘めている)

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石造の本殿と木造の拝殿・社務所 2013.09.28 鉛筆・透明水彩

 石造りの本殿に注目!!
社殿はかつては奥の方(海寄り?)に建っていたがシロアリにより崩壊し、石造りの本殿のみが現在位置に建てられた。現在の拝殿・社務所は昭和五十年代に建てられたものだという。

優婆夷宝明神社(うばいほうめいじんじゃ)

 この神社には、事代主命(ことしろぬしのみこと)のお妃優婆夷姫と、その子古宝丸(こほうまる)が祀られている。このお二柱は八丈島民のご先祖であるところから、神社創建は古く、約千年前に編纂された延喜式神名帳に記されている式内社である。式内社があることは、その土地の文化の古さを証明している。
 社殿内には木造女神坐像や、色々な宝物が納められており、境内には織部灯籠や樹齢千年位の大蘇鉄等がある。

境内案内板より

八重根 (やえね)接岸港

 島の反対側にある「底土港」と補完をなす港で、風向きにより使い分けられる。

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八重根接岸港から八丈富士裾野と八丈小島を望む 2013.09.28 鉛筆・透明水彩

 大変気持ちの良い場所だ。何しろ桟橋に立つと黒潮のど真ん中に立つ気分といったら言い過ぎだろうか。
大きな波が来ると埠頭で波が割れ、その飛沫を超えて八丈富士・八丈小島が目の前だ!

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八重根接岸港から八丈富士裾野と八丈小島を望む 2013.09.28 鉛筆・透明水彩

 ここには大きな溶岩流の固まりがそのまま残され、それを利用してこの埠頭が造られたことがよくわかる。 海に張り出した「南原千畳岩海岸」の景色を見るとこの島の生い立ちを感じる。

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八重根接岸港から大坂トンネルを望む 2013.09.28 鉛筆・透明水彩

 八丈富士を背に反対側を見ると、手前には八重根漁港を目の前にし、遠くには海に迫る急斜面に穿かれたトンネルとそれを縫うように走る自動車道路。 海の町(坂下)と山の町(坂上)を繋ぐ大動脈だ。

大坂夕照 (おおさかせきしょう)
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大坂トンネルから八丈富士裾野と八丈小島を望む 2013.09.27 鉛筆・透明水彩

 海の地区(坂下)から山の地区(坂上)へ通ずる坂道は、海に迫る壁状の斜面に張り付くような道である。トンネルもなかった時代にはさぞかし難所だったと想像されるが、ここからの景色が素晴らしい! 事実「「八丈八景」」の一つに挙げられていて、名付けて「大坂夕照」
 現代は自動車でアッという間の通過となってしまうので、車中からのスナップ写真を基にして描く。時刻も夕方時に・・・

では、「坂上」と呼ばれる山の地区に進もう。

「坂上」は三原山を中心にして火山活動は十数万年前(最終噴火は数千年前)からという古い地域で、火山灰も風化し保水性がよく、水の豊かな地域となっている。(伊豆七島では唯一水田のある島だというほどだ) そのため農地としても適していて、江戸時代以前は「坂下」より人口が多かったそうだ。その中の比較的緩斜面に樫立・中之郷・末吉という三つの地域が点在する。

(や)

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樫立地区

三原山登山口

 大坂トンネルを抜けると平坦な幹線・循環道路は続く。しかし山から海へ連なる西山の傾斜地に拓かれた地区のこと、直交する生活道路は急勾配の道路となる。

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三原山登山口 2013.09.27 鉛筆・透明水彩

 循環道路に取り付く山側の道はみなこんな感じ。足腰を十分に鍛えてくれそうだが・・・

廃校

 この島で我が国の縮図を見た。

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旧樫立小学校をいつまでも眺めている蛙の彫刻 2013.09.24 鉛筆・透明水彩

 循環道路から高低差60mほど登ると、この地では珍しく広域・平坦な場所に出会った。小学校である。正確には小学校の跡地である。校舎は撤去されていたが、体育館は[災害時避難所]樫立屋内運動場として残されていた。(海抜168mという表記も添えてあった)
この小学校の明治十年創設という経歴を知り驚いた。「東京都選定歴史的建造物」に指定され、高く評価されている中央区銀座にある区立泰明小学校(建物は震災以後の物)の開校は明治11年(1876)なのでそれより一年早いことになる。

樫立小学校終焉之記

 樫立小学校は、明治十年四月の創設以来二千三百三十七名の卒業生を世に送り出したが、平成十九年三月、児童数減少のため惜しまれながらも百三十年の歴史に幕を閉じた。
 学び、語り、歌い、駆ける子等の声が弾けたこの丘には、松の梢を渡る風に愛でる人もない桜が散るばかりである。
 ああ、少年の多感な日々を育んだ学舎とともに、あの懐かしい思い出も遠い忘却の彼方に消えてしまうのだろうか。
 閉校にあたり、この地が、訪れる人々を優しく迎えるように、母校がいつまでも記憶に蘇るように、そして皆が若返るようにとの願いを込めて六匹の親子蛙を石に刻んだ。天地人になぞらえた石碑群とともに、往時を偲ぶよすがとなれば幸いである。
   平成十九年三月吉日

樫立小学校開校百三十周年記念
 並びに閉校事業実行委員会
   会  長  
   実行委員長 
   八丈町立樫立小学校長

蛙彫刻の傍らに刻まれていた石碑より

小学生の目線で見る太平洋

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樫立一望 2013.09.24 鉛筆・透明水彩

 小学校から脇の道を更に進んで振り返ってみたら、なんと!太平洋が見晴らせる!
そしてもう一つわかったこと。平坦な校庭を確保するために、先人はいかに苦労をしてきたことか。裏山を切り崩し、少しづつでも低地を埋め立ててきたことが体育館側の歩道に座ってスケッチしていて思ったことだ。

八丈太鼓

 この集落の私設集会所とも云うべき休憩所から太鼓の音が聞こえてきた。

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八丈太鼓 2013.09.27 鉛筆・透明水彩

 八丈島の太鼓は両面から打ち、女性も打手になるという全国的に見ても珍しいものである。そして太鼓を打つ機会が、祝い・行事はもとより、一寸した集まりでも太鼓で楽しむ。

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ボタンクリックで各々のリズムが鳴ります

 今回遭遇した太鼓も女性が打つもので、井戸端会議の延長に桴(ばち)を持って楽しんでいるようだった。 思わずスケッチブックを手にして見たものの、妙齢のご婦人のこと、後日、素描の人物に黄八丈の姿を重ねてしまった。

 八丈太鼓では二人の打手は個性的に精一杯打つ上拍子(表拍子)と基本の拍子を正確に打つ下拍子(裏拍子)に分かれて打つ。阿吽の呼吸で即興的に演奏される太鼓はスリリングでさえある。上拍子の大胆とも思える桴さばきは実は下拍子の正確さによるものだろう。そこでこの下拍子に注目してみた。恐れを知らないずぶの素人がその違いを一寸メモしてみた。専門家から見たら笑いものだろうが・・・そこはお許しください。

後日、再訪する機会を得てその太鼓を中心にした宴に出会った。どの島民も八丈太鼓の名手で驚かされた。入れ替わり立ち替わりの名手達をガラケーと呼ばれるお粗末動画で撮影、YouTubeにアップしたのでご覧あれ。

下拍子_その1 下拍子_その1 下拍子_その1 下拍子_その1

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中之郷地区

 樫立地区に続く地域で、坂上では三原山の裾野が広いからだろうか、一番広い地域である。

地熱発電所

 東日本大震災以降に俄然脚光を浴びている「地熱発電所」だが、この島では大震災以前の平成11年(1999)から大活躍している。

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 2013.09.29 鉛筆・透明水彩

 風力発電も同時にスタートしているはずであるが、現在は停止している。やはり台風が頻繁にやってくるこの島には色々トラブルが絶えないのだろう・・・と推測する。
 背景に見られる三原山を初めとする数々の火山の連なりがこの地に恵みをもたらしている。発電だけでなく多くの温泉を生み出し、さらにはその廃熱で温室団地が建ち並び、農業生産に寄与しているのだ。

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 2013.09.29 鉛筆・透明水彩

 画面左に一部見える建物が「八丈島地熱館」で、発電の仕組みはもとより八丈島の生い立ち・地理・地形を小学生でも分かり易く紹介している。

[註] 東日本大震災の影響か?東京都はこの地熱発電の出力を3倍に計画中とのこと。

循環道路から海へ下っていく道
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 2013.09.29 鉛筆・透明水彩

 幹線道路と直交する道は、山側・海側どちらも坂道は避けられない。 しかし敷地なりの擁壁はあくまでも現地の石でていねいに積み上げられていて美しい。

大御堂 (おおみどう)

 波板鉄板葺きの粗末な「社」ではあるが、何ともシンプルな姿形に目が釘付けとなってしまった。平面も単純化しているのでこの美しさが生まれたのだろう。そして調べていくうちに意外なことが・・・

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 2013.09.29 鉛筆・透明水彩

 このお堂の創建年代は不明だが、堂内に納められている石の地蔵は平安初期のものだという。そればかりか鎌倉時代の銅の鉦や、江戸時代製の大鉦、ヴィクトリア銘洋鐘等が保管され、境内には明和年間の飢饉で多数の餓死者を弔う冥福の碑等々・・・中之郷のタイムカプセルなのだ。もちろん内部はのぞけなかったが、その事を知るだけで充分。歴史の生き証人なのだ!

餓死者冥福の碑

 この碑は明治23年(1890)に中之郷村民が、明和年間(1766-1769)の飢餓を追悲して建立したものである。
 中之郷一箇村で餓死者七三三名、生き残った者が四百名足らずであったと記されている。
 絶海の孤島で生きていくことの難しさを物語る惨酷の碑文である。

町郷土資料(金石文)
昭・五一・五・一一指定
八丈町中之郷大御堂境内

境内掲示板より

ヴィクトリア銘洋鐘

 日本が英国から買い取った第二長崎丸(前名ヴィクトリア号)が、元治元年(1864)十一月二十四日八丈島藍ヶ江港に漂着して沈没した。
 この洋鐘はその沈没船から引き揚げたもので、我が国黒船史上貴重なものである。
 因みに、同船乗り組みの緒方精斎(おがたせいさい)、吉雄幸次(よしおこうじ)によって、八丈島で初めて種痘が施されたり、引き揚げられた大判小判が初めて八丈島に流通したりするなど、文明開化の響き豊かな記念品である。

町技芸(工芸)
昭・五一・五・一一指定
八丈町中之郷大御堂蔵

境内掲示板より

藍ヶ江 (あいがえ)漁港

紺碧の海を擁した風光絶佳の漁港である。「八丈八景」の一(藍ヶ江落雁)

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 2013.09.29 鉛筆・透明水彩

 転げ落ちるようにして道は海に至る。漁港が見渡せる場所まできたが、ここでも海抜50mほどある。
「藍ヶ江」という名前のように本来は「藍」のように限りなく深い藍色をしている・・・のだが秋になるとエメラルドグリーンのような碧色だった。(夏の海は確かに藍色だった)

藍ヶ江落雁

藍ヶ江は、その名が示すとおり群青を溶いたようなまつ青な海で、切り立った岩が、天然の良港を形成している。
目には見えないが、山際には水田も開けていて、詩情の湧くところである。
秋には雁も渡つてくる所として、「八丈八景」に選ばれている。

夕されば 吹く風寒さ 藍ヶ江の 苅り田をさして 落つるかりがね 

近藤富蔵

掲示板より

 
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海縁の岩間から港を覗くようにして 2013.09.29 鉛筆・透明水彩

 ここまで降りてきてもこの高さ(海抜20m程)。防波堤まで続く道は海にダイビングするようで恐ろしくなる。 それにしても大きな防波堤だ!灯台?のある場所を地図で調べてみると、こんなちっぽけに見えて海抜4.3mだという。それはそうだろう、何しろ太平洋の荒波を一手に引き受ける防波堤なのだから・・・とへんなところで納得した。

足湯「きらめき」
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 2013.09.29 鉛筆・透明水彩

 この太平洋の大海原を眼下にして足湯に漬かれるとは・・・

裏見ヶ滝温泉

 山からの水流は深い沢を何本も刻んで海に流れるが、その一つ藍ヶ江港に注ぐ沢を上に登っていくと・・・

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 2013.09.29 鉛筆・透明水彩

 道から急階段を下りると崖にしがみつくようにして小屋が建っている。三方は岩で囲まれ、南面は沢を遥か下にして眺望が開かれた露天風呂風温泉なのだ。しかし鬱蒼とした茂みで海は見えなかった。
 ここは水着着用の混浴温泉なのだが脱衣所は傍らにある一ヶ所だけ。誰もいないので持参の水着に着替えて・・・スケッチも抜け目なく。

 「裏見ヶ滝」とはこの沢を更に登っていったところにある、山道を飛び越えて沢に落ちる滝のこと。 この夏は異常なほど降水量が少なく沢も涸れていると云うことを理由に途中で引き返した。(本当は長湯で・・・)

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末吉地区

 坂上の最奥、八丈島では最西端に位置する地域です。

名古の展望

 海縁で特に高い場所がこの「名古」といわれる場所。そのため眺めの良い場所となっている。ちなみに資料によると海抜200m程の高さである。

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八丈島灯台 2013.09.27 鉛筆・透明水彩

 この場所から西を望むと、最西端に位置する灯台が見える。その位置は海抜90m程か? 海より遥かに高い位置から太平洋を照らし、光達距離46.3kmという大型灯台なのだ。

洞輪沢 (ぼらわざわ)漁港を眼下に

 東京タワーの第一展望台(地上125m)を遥かに超える海抜200mからのこの絶景は「八丈八景」の一つとされている。名月観賞には最適場所とのことで「名古秋月」として愛でている。

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 2013.09.27 鉛筆・透明水彩

 視点を南に移すと八丈島最南端の岬(小岩戸ヶ鼻)と打ち寄せる太平洋の波々・・・。スケールが大きいので景色が盆石のように見える。藍ヶ江漁港は足下を覗きこむようにしても手前側は見えない。小さなコンテナーのようなものは海辺では珍しい温泉で、末吉自治会により管理されている。昨日は台風の影響で大波に晒され休業だったが、よくあること。ちなみに海抜2mである。

 傍らの石碑で知ったことだが、この地は先の大戦中には特攻兵器「震洋」の基地があったところだという。

太平洋の黒潮に偲ぶ

第16震群特別攻撃隊ここに亡りき
  安倍晋太郎謹記

碑文  ここ、展望台の真下、八丈町洞輪沢と石積の地は、太平洋戦争が風雲急を告げる昭和二十年三月、八丈島防衛に備え、海軍の特攻兵器震洋艇五十隻と、祖国の礎たらんと自ら志願した部隊長吉田義彦大尉以下百八十九名の隊員が、民家に分宿し、末吉区民及び海陸軍部隊の熱烈な支援を受けながら、一艇一艦体当たりの肉弾攻撃敢行を決意し、日夜猛訓練に励み過した第十六震洋特別攻撃隊の基地跡である。
 第十六震洋特別攻撃隊は、昭和十九年九月横須賀海軍水雷学校において編成され、搭乗員五十三名は、海軍兵学校、兵科予備学生、攻撃術准士官、飛行予科練習生(若冠十七 ─ 十八歳)、出身の精鋭であり、整備隊員、基地隊員には歴戦のベテラン隊員百三十六名が配された部隊である。
 震洋艇とは、長さ五メートルの木製モーターボートの艇首に二百五十瓲の炸薬を搭載し、敵艦船に高速で体当たりし、搭乗員自らも爆死するという特攻兵器であり、当時の海軍はこの震洋特別攻撃隊に限りなき期待を寄せていた。
 昭和十九年十一月第十六震洋特別攻撃隊に、小笠原諸島母島への出撃命令が下り、基地準備隊員は直ちに出発したが、輸送船寿山丸は父島沖で敵潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没、先発隊員五十七名が戦死した。
 部隊再編成のあと、今度は硫黄島への出撃命令が下ったが、同島は敵上陸作戦中の大激戦地であり出撃中止となった。そして昭和二十年三月本土決戦最初の砦と言われた八丈島に布陣したのである。
 しかし、昭和二十年八月十五日終戦の詔勅が下り、ここに、熱い、長い、太平洋戦争が終結したのである。あれから数えて四十一年の歳月が流れた、日本は今驚異的な経済成長を遂げ、自由と平和の民主国家として栄えている。
 赤道より、フィリッピン、台湾、日本の太平洋岸を経て、この展望台眼下を通り、アメリカにまで流れている海の中の川・黒潮、その黒潮に思いを馳せる時、かつて祖国に殉じた数多の兵士が、戦争の犠牲者が彷彿として偲ばれるのである。 この碑に、当時の戦歴を刻み、戦死した友の霊を奉祭し、心から悠久の平和を祈願するものである。

昭和六十一年十月
震洋八丈会建之

長戸路屋敷 (ながとろやしき)

 明応7年(1498)北条氏の代官として来島したという家柄のお屋敷。

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屋敷に入る玉石積みの大階段 2013.09.26 鉛筆・透明水彩

 循環幹線道路から高さ50mほど登ったところにこのお屋敷がある。見晴らしは良いけど日常必要とする水はどうなるんだろうか?と心配しながら着いた屋敷の入口。この大階段突き当たりに建つ碑で納得した。代官、お船預、地役人、神主等を勤めた島のリーダーが為し得た事業なのだろう。

末吉水碑 (すえよしすいひ)

所在 八丈町末吉2538番地
指定 昭和51年5月11日

 長戸路真錬(まさだだ)が嘉永元年(1848)から安政6年(1859)に至る11年間の歳月を費やし、私費を投じて水源の桑屋ヶ洞(くわがやほら)から末吉村の村中まで水道を開通した記念碑。この挙は八丈島各村水道敷設事業誘発の引き金となったもので、八丈島水道史の序章をなすものである。

八丈町教育委員会

石碑より

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 2013.09.26 鉛筆・透明水彩

 沖縄地方では家の門の内側に目隠し(ヒンプン・屏風)を設けるが、それと同じような石垣が邸内にあった。もちろんここからはご遠慮しなさいと云う意味だと捉えた。現在でも住んでおられるのだからこのサイトであまり大きく取り上げるのも憚られるが、島では超有名な家なので固有名詞だけは明らかにしておく。
 かつて(10年以上前になるだろうか)このお宅の高倉を拝見したことがある。この島の高倉は1間×1間のものが一般的なのだが、このお宅の高倉は2間×3間という大きなものだったか?と記憶している。果たして現在も使用されているのだろうか?

末吉の家並み
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 2013.09.26 鉛筆・透明水彩

 末吉地区は島南東の角を太平洋に突き出したような地域である。だから高台では風雨に晒される危険はあるがそれ以上に村の長にとっては海の見張りに好都合なのだろうと考えながら、長戸路屋敷を後にした。もと来た道を下って発見!この景色はなんだ!・・・。

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 2013.09.26 鉛筆・透明水彩

 家並みは強風対策で裏打ちされている。どの家も斜面に半分潜るようにして、突起部分のない低い屋根形状(寄棟)をして、地を這うように家々が並んでいる。たまに見受けられる切妻屋根の建物は新しいもののようだ。

尾越の水汲場

 循環幹線道路の反対側に渡ると今度は急勾配の下り坂で、沢筋の木々に守られ、隠れるように家々が続く。そんな中30m程下ったところで水場を発見した。

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 2013.09.26 鉛筆・透明水彩

 集落は当然湧き水の出るところでこの辺りから始まったと考えられる。この地に踏み込みながら思ったことは、なんでこんな暗いところにまで入り込むのだろう?と云う単純な感想しか持っていなかったが、よくよく考えてみると長い間の知恵で、強風に晒されることのないパラダイスなのだ!と理解した。

尾越の水汲場

所在 八丈町末吉台ヶ原
指定 昭和51年5月11日

 八丈島の集落の形成は、水汲場を中心になされていることが明らかである。この水汲場は水量が豊富で水質もよく、現在もなお近所の人々に利用されていながら、比較的よく原型が保持されており、水汲場考究の貴重な存在である。

八丈町教育委員会

掲示板より

三島神社
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 2013.09.26 鉛筆・透明水彩

 末吉はバス交通では終点の地域。帰りの時間つぶしにバス停周りをうろうろしたら、変な~社が?その入口が問題なのだ! なんという急階段!!直角に近い急階段を上り下りはかなり難しい・・・特に幼児・高齢者には厳しいものと想像される。
 まわりを見て原因がすぐわかった。前面の道路が原因なのだろう。拡幅したのも新しいようだしもしかしたら旧道とは別に新たな道がつけられたのかもしれない。それによってこの神社の貴重な境内が供出されたのだろう。
 後日、この話をある島民にお話ししたところ、自慢話のようにこの急階段で御神輿を上げ下げするのだという。この話を聞いて諏訪神社の切り出した大木を急斜面で滑り落とす行事を連想し、島民の熱気盛んな情熱を感じた。

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 2013.09.26 鉛筆・透明水彩

 三島神社は伊豆半島、特に東海岸沿いに多くある~社らしいが、伊豆七島にも多く建てられているようだ。八丈島でも~社と云えば島内各地にあるこの三島神社を指すようだ。
 側面に回ると権現造りを思わせる平面であることがわかる。しかし拝殿は入母屋造りではなく流れ造りというべき切妻平入の形式を取っている。
 驚いたのはその拝殿前の柱に添えてある大きな「碇」。目の前の太平洋を見渡している守り神の~社にふさわしいものではないか!  (境内へはもちろん正面階段は遠慮して、裏側から入りました)

総 括

 今回のスケッチ旅行は久しぶりの長旅だった。あえてシーズンを終えた時期を選んだのだが、この時期では避けられない台風の影響・・・案の定、南方では数々の台風が次々に発生、終始好天に恵まれたわけではなかった。しかし天候をも吹き飛ばす島民の多くの方々の親切・優しさで毎日を楽しく過ごさせてもらった。改めて八丈島の皆様に感謝したい。
 帰路はあえて船を選んだのだが、不安は的中。朝、着岸する様子を見ると凄いことになっている。しかし不謹慎ではあるが、なぜか楽しい曲が頭の中で巡っていた。その様子はスライドショーでご覧下さい。

さようなら・・西山(八丈富士)

 最後に・・・この島のシンポルとも言える山に触れないわけにはいかないだろう。「八丈富士」である。

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さよなら・・・八丈島 2013.09.30 鉛筆・透明水彩

 「八丈八景」の一つ「西山暮雪」として取りあげられている風景は陸地からなのか、海からなのかは判らない。しかしこの山は海上から仰ぎ見てみたかった。標高854.3mという八丈一の高い山だが、「暮雪」とはどうしたことか? 古老の話ではかつては八丈島にも相当に降雪が見られたとのこと。 これを持って「地球温暖化」を論ずるか? (や)は氷河期に向かっている第三間氷期の振れる範囲内だと信じているのだが・・・
 島を離れる船は平成4年12月竣工の「さるびあ丸」。全長120m、4,973トン、旅客定員は816名という船。大きいか、小さいかは比較の問題だが、昭和40年代に八丈への連絡船に乗船したことが思い出される。それは千トンにも満たない船だった。それと比べたら遥かに大型船に思え、全面的に信頼していたのだが、外洋に出たとたん黒潮に揉まれ、空から見れば木の葉状態だったのではなかろうか? もちろんこのスケッチを最後に船室から戻ることはなく、せっかくの昼間の航路だというのに、二度と甲板に出ることはしなかった・・・。


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