嘉永7年(1854)に日本は開国し、箱館(のちの函館)は伊豆の下田とともに開港場になり、幕府は道南の一部を除く蝦夷地の大部分を直轄し、箱館奉行をおいた。(当時の日露間条約では、千島方面の国境は択捉島とウルップ島との間で決定している)
開港によって西洋人の渡来、諸術調所(洋学校)、弁天台場、五稜郭築城、洋式造船、キリスト教会・・・と僻地であった蝦夷地・箱館は大きく変化し、にわかに近代文明を纏った街となった。
明治の開拓時代には出張所や支庁が置かれ、その後北海道庁設立と共に廃止されはするが、主だった出先機関は残され、相次いで幕末期に設立された学校・病院も姿を変え現在も多数所在している。市街地は度重なる大火の被害を受けてはいるものの、当時の面影を今に伝えている。
函館ハリストス正教会 復活聖堂
函館ハリストス正教会は教会名で、復活聖堂は聖堂の正式名称で、ハリストス(キリストのギリシャ語読み)の復活を記念する聖堂である。
安政5年(1859)に日本で最初のロシア領事館が箱館に置かれ、現在の教会所在地に領事館の敷地を確保して安政7年(1860)に復活聖堂を建てたのが始まりである。明治40年(1907)の大火で焼失したが大正5年(1916)に現在の聖堂が建てられた。設計者は当時、正教会の副輔祭であった河村伊蔵である。明治24年(1891)に東京に建てられたニコライ堂の設計者がロシア工科大学教授シチュールポフ博士、工事監理を英国人コンドル博士、という外来建築家の作品と較べて遜色がない・・・いや、建物の規模こそ小さいが、教会の精神性は気高く、なにより美しいと思われる。それを僅か15年の年月差で日本人建築家が成し遂げたことに驚きを感じた。そしてさらにこの人物を調べていくうちに、この河村伊蔵の孫が内井昭蔵であったことを知り、またまた驚かされた。
函館ハリストス正教会は日本正教会の最初の聖堂を持つ教会であり、日本における正教会伝道の始まりの場所でもある。日本の正教会は拠点はその後、明治5年(1872)ニコライにより東京の神田に移され、以後当地に建設されたニコライ堂(東京復活大聖堂教会)を中心に宣教を拡大させていくが、その後も函館ハリストス正教会は日本正教会でも長い伝統を誇る教会として存在し続けている。
宗教法人 函館ハリストス正教会
包括団体「宗教法人:日本ハリストス正教会」は全世界に2億人を越える信徒を持つ、約2千年前に創立された東方キリスト教会の中lこ所属しています。
日本には1861年(文久元年)の6月14日、現在地:函館ロシア領事館に到着し、伝道を開始されたニコライ修道神父により伝えられました(1970年、彼は日本の亜使徒・大主教として聖人になる)。
ハリストスとはギリシャ語のΧΡΙΣΤΟΣ(CHRIST.救世主)の日本語読みで、新約聖書がギリシャ語で書かれたことより使用されています。日本の本部は、東京都千代田区にあり神田駿河台のニコライ堂(国指定重要文化財)、与謝野晶子の歌「ニコライのドオムの見ゆる小二階の欄干の下の朝がほの花」で有名です。
函館は日本正教会の一つの枝にあたり、明治元年1868年のキリシタン禁制下、3名の白本人が最初に洗礼を受け、伝道活動を開始しました。一人は幕末から明治に名を刻んだ土佐藩士:坂本龍馬の従弟(父親同士が兄弟)坂本数馬や、一人は宮城県栗原郡の人(大阪、緒方洪庵の 塾でオランダ医学を学び函館で開業した医師:酒井篤禮や、一人は岩手県下閉伊郡山田町出身の :浦野大蔵がいます。
また京都で同志社大学校生みの親、新島七五三太(ニイジマシメタ)、クリスチャン名ジョウを米国に送る福士卯之吉に紹介したのも函館の修道司祭ニコライ神父と言れれています。
当時の函館には南部藩士多数が単身赴任しており、彼等も上記3名の教えにより洗礼を受け、明治7年百名以上の藩士ガ盛岡に戻り、加賀野新小路の家老屋敷・西海枝勝己宅を会堂として、青森県、岩手県、宮城県などにも伝道活動を始めました。盛岡で受洗された方には時の総理大臣:原敬の親族:原祐知や一族、石川啄木の恩師:新渡戸仙岳や一族、横川省造の父母や兄弟などがいます。
その他全国に80ヵ所の教会堂があり、国の重要文化財指定聖堂は、上記東京千代田区のニコライ復活聖堂、京都烏丸通りの生神女マリヤ福音聖堂、また当地元町函館正教会復活聖堂があります。
重要文化財 函館ハリストス正教会復活聖堂 昭和大修理
ロシア・ビザンチン様式の外観がひときわ美しいこの聖堂はイイスス・ハリトス(イエス・キリスト)の復活を記念して建てられたため、「復活聖堂」と呼ばれる。当時、正教会の副輔祭であった河村伊蔵の設計で、1916年(大正5年)に竣工した。
平面構成は、正方形の聖所を中心とし、前方に啓蒙所玄関、後方に半円形の至聖所が付く、正教会聖堂の標準的な十字型平面である。
正面玄関上には、八角形平面の鐘塔がそびえ、屋根上にロシア正教独特のクーポルがのる。
壁はレンガと白漆喰塗で、大小のアーチや蛇腹が外観にアクセントを加えている。
天井は、聖所が扁平なドーム型、啓蒙所と至聖所がヴォールト天井で、同じく白漆喰塗である。
内部は唐草模様の花ゴザ敷きで、聖所にはハリストスや聖人を描いたイコノスタス(聖障)が壁面いっぱいに広がる。
修復工事は、1986年(昭和61年)5月から始まり、主として内外壁および天井の漆喰塗直し、屋根銅板葺と小屋組木部腐朽部分の補修、基礎石および蛇腹石の補修、正面石階段の据直し、ワニスおよびペンキの塗直し、イコノスタスのクリーニングなどが行われた。
また、修復工事にともなう綿密の調査によって、聖堂内の*ニカジーワ(シャンデリア)・ランパート(吊**)や***お**正門鉄扉の建設当次の姿が明らかになったので、これらもあわせて復原した。
1988年(昭和63年)10月、とどこおりなく修復工事を終え、翌11月8日に成聖***行し、まさに神の宮として"復活”した。
主降生1958年11月6日 修復成聖記念
旧北海道庁函館支庁庁舎 & 旧函館区公会堂
この建物のある場所は、河野の館跡で、享和2年(1802)以来幕府はここに箱館奉行所を置き、明治に入って開拓使函館支庁・函館県庁・北海道庁函館支庁となり、その庁舎は明治40年(1907)の大火で焼失した。
玄関ポーチのペディメントを支えるクラシックな玄関回りは、明治の木造建築の中でもひときわ美しいもので、背後に見える公会堂や周囲の教会群の点在する元町界隈に一つの彩りを添えている。
明治42年(1909)に建てられた木造2階建の建物である。
宇須岸河野館跡
享徳3年(1454)津軽の豪族安東政季に従って、武田信広(松前氏の始祖)、河野政通らが蝦夷地に渡来したと言う。
政通は、当時「宇須岸」と呼ばれていたこの地に「館」を築いたが、これが「宇須岸河野館」で、その大きさは、東西35間(約126m)、南北28間(約100m)と伝えられ、四方に土塁を築き、乾壕をめぐらしていたといわれる。この「河野館」に由来して、「箱館」という地名が生まれたと伝えられている。(明治2年「函館」と改称された。)
永正9年(1512)アイヌとの抗争で、河野季通(政通の子)ら一族が敗れたため、箱館は以後百余年にわたって衰微したとの伝承が生まれた。
箱館は18世紀初頭(元禄時代末)から亀田川下流域からの住民の移住が増加、これに伴い相次いで寺院も移転し、箱館港の繁栄が顕著になっていった。次いで、寛保元年(1741)には松前藩のこの地域の行政庁「亀田番所」が「河野館」跡地に移されて、繁栄への基礎が築かれた。
寛政11年(1799)幕府は東蝦夷地を直轄地とし、享和2年(1802)は箱館奉行が置かれ、この地に箱館奉行庁舎も築かれ、箱館に拠点を据えた高田屋嘉兵衛の活躍などもあって箱館は大きく発展した。箱館奉行庁舎は、明治の入ってから開拓使の庁舎となり、その後、北海道庁函館支庁庁舎となるなど、「河野館」跡は函館の行政の中心地であった。
函館市
諸術調書跡(しょじゅつしらべしょあと)
諸術調書とは、箱館奉行所の研究教育施設で、蝦夷地の開拓と警備に必要な人材を目指して、安政3年(1856)に設立された。
教授は五稜郭設計で有名な武田斐三郎(あやさぶろう)で、蘭学はもとより、測量・航海・造船・砲術・築城・化学などを教え、亀田丸でロシアまで操縦航海するなど実践を重んじた教育を行った。
元治元年(1864)、斐三郎が江戸開成所(元・東京大学の前身)の教授に転身するまで、門人多くを教育し、前島密(郵便制度創始者)、井上勝(鉄道制度の創設者)など明治日本の動脈を作った優秀な門下生を輩出した。
同志社の創設者「新島襄」が箱館からアメリカへ密航したのも、諸術調書に入るために箱館にやってきたのに、斐三郎が江戸へ出てしまったための行動であったとも言われている。
内外共に多難な幕末期、開明的で進取積極の精神に満ちた人々と学舎があって、その成果を全国に及ぼした事実は、市民の誇りとするところであり、その魂は常に新しい時代の開拓のために生き続けることであろう。
函館市
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五稜郭
日米和親条約締結による箱館開港に伴い、防衛力の強化と役所の移転問題を解決するために徳川家定の命により安政4年(1857)に築造された星形の城郭。
設計を担当したのは洋式軍学者/諸術調所(しょじゅつしらべしょ)教授/武田斐三郎。箱館戦争の遺構として北海道遺産に選定されている。
遠く松前半島の山並みが見渡せるほど低い城郭 2010.4.26 鉛筆・透明水彩
西洋の城塞を基にしたとされる5つの稜が突き出た特異な石積みは意外なほど低いが、奥にさらに石積みを控えた構造になっている。
正面入口の一の橋から、奥に見えるのは鉤型に曲がる二の橋 2010.4.26 鉛筆・透明水彩
五稜郭正面から一の橋を渡って右手の小高くなった所は半月堡(はんげつほ)と呼ばれ、門から出てくる人馬が直接見えないように工夫された「馬出し」である。
当初の計画では5ヵ所設置する予定であったが、完成したのはこの一ヵ所のみである。
箱館奉行所
平成の復元工事は箱館奉行所も完成間近 2010.4.26 鉛筆・透明水彩
元治元年(1864)に奉行が執務を開始したが、そのわずか7年後の明治4年(1871)には、開拓使の手によって解体された。(札幌本庁建築用材として利用するためといわれているが真意は不明)
箱館奉行所庁舎は、間口187尺(約56.6m)、奧行き292尺(約88.5m)の敷地に、建坪は二階も含め812坪(約2,685m2)である。
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トラピスチヌ修道院
トラピストバターという名前を思い描きながら、ちょっと離れた場所まで足を延ばしてみた。
左手の建物は「旅人の聖堂」という外来者のためのもの 2010.4.26 鉛筆・透明水彩
明治31年(1898)、フランスのトラピスチヌ修道院から派遣された8名の修道女によって設立された修道院で、一度修道女となれば、囲い中だけの生活となり俗世から完全に隔離された世界に住むことになる。壁の外に出るのは、選挙などに限られるのだという。一生を神に捧げ、厳格な戒律に従い、共同生活に入り、祈り、読書、そして農作業などの労働が生活の中心となる。会話は必要最低限に限られ沈黙が義務づけられているのだそうだ。朝3時30分起床。夜7時45分就床。 ちなみに男子修道院はトラピスト修道院となる。
・・・・・
現代の、我が国に、こんな世界があるとは・・・・ここを訪れるまで知ることはなかったろう。それに引き替え観光バスで訪れる人たちの無宗教ぶりに我が姿を見ているようでちょっと恥ずかしい思いになった。
天使は今もヨーロッパ人にとってかけがえのない存在である。私たちがことあるごとに八百万の神々へ祈りを捧げることがあるように、ヨーロッパ人は天使に祈りを捧げる。中でもとりわけ、ミカエルは多くの人々の尊敬を集めていて、あらゆる天使の中でも最高の位置を占め、神の右側に座ることの許されるただひとりの存在である。
彼の威光にあやかってその名前をつける人も多く、英語のマイケルMichael、フランス語のミシェルMichelle、ドイツ語のミヒャエル(ミハエル)Michael、ロシア語のミハイルMikhailなどは、すべてこの天使の名前にちなむ。彫刻で有名なミケランジェロMichelangeloの名前も、「天使ミカエル」を意味する言葉から来ている。
画面右下からの斜面を上って修道院に着く。修道女達の生活する建物群は広場とはレンガ壁で隔離されていて別世界となっている。左の手前側が司祭館。
旅人の聖堂
「旅人の聖堂」と名付けられた礼拝堂。たしか香山壽夫氏の設計と記憶しているが・・・。
この聖堂は修道院の庭を訪れてお祈りをなさりたい方のために、二千年の大聖年を記念して建てられたものです。
(観光客に無言で掲げられている説明文)
厳律シトー会天使の聖母トラピスチヌ修道院
天使の聖母トラピスチヌ修道院は、明治31(1898)年、フランスのウプシーにある修道院から8名の修道女が来たのが始まりである。キリスト教伝道のためには、修道院の精神的援助が必要であると、函館教区長ベルリオーズ司教が要請していたものであった。
草創期の修道女たちの生活は困難を極め、それを見かねたフランスから、引き揚げが伝えられるほどであった。
現在の建物は大部分が大正14(1925)年の火災後、昭和2(1927)年に再建されたものである。
函館市
(入口に掲げられていた説明文)
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