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東京の箱根山


 箱根山という名前ではあるが決して《天下の剣》の箱根山ではなく、早稲田・戸山公園にあるもの。
その経緯等の解説はこちらでご覧下さい。

 近くには目白崖線が迫る場所で、高台には日本女子大学、低地にはかつての周辺は田圃だらけだった早稲田大学があるあたりである。その早稲田の先にはなぜか?「箱根山」という丘がある。半世紀ほど前には周りは何もない禿げ山(丘?)だったが、近年は桜の名所にも加えても良いぐらいの場所となっている。

 こんな歌↓ 口ずさんだらどうでしょう。

(ブラウザーによっては対応しないものもあるようです。そんな方はこちらでどうぞ)

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新宿区戸山町の箱根山 頂上から麓を望む 2012.4.9 鉛筆・透明水彩

 標高44.6mの山手線内で一番高い「おやま」である。かつての頂上は展望台としてパーゴラも掛かっていたが、現在はない。じつは昨年(2011年)の大震災で、その「おやま」の頂上に裂け目が入ったのだ。この春には復旧されたが、かつての地肌はなく、コンクリートで蓋をしたような頂上となった。しかしこの時期、全方位桜の花が満開で、手に取るように身近に見下ろせる珍しい花見の場所である。

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箱根山の紅葉 2013.12.06 鉛筆・透明水彩

 2012年夏に近くの病院でひと月入院していた。その後の定期検診で帰宅途中に立ち寄ることが多くなったが、晩秋の紅葉山状態を発見!

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箱根山の桜 2014.04.02 鉛筆・透明水彩

 めぐる春はいつもの桜が満開!

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箱根山の桜 2015.04.06 鉛筆・透明水彩

 度々の箱根山通いで新たな発見!こんな処にひっそりと教会が・・・

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箱根山の桜 2017.04.07 鉛筆・透明水彩・パステル

 マンネリの花見を今年は合唱仲間で野点を楽しむ。しかし歌は出ず、花より団子・・・

箱根山地区の歴史

 この地区は、その昔 源頼朝の武将 和田左衛門尉義盛の領地で、和田村と外山村の両村に属していたことから「和田外山」と呼ばれていた。
 寛文8年(1668)に至り尾州徳川家(尾張藩)の下屋敷となり、その総面積は約13万6千坪(約44万8千8百余平米)に及び、「外山荘」と呼ばれるようになった。
 この「外山荘」は、寛文9年(1669)に工事を始め、天和(1681-1683)・貞享(1684-1687)の時代を経て元禄年間(1688-1703)に完成した回遊式築山泉水庭である。
 庭園の南端には余慶堂(よけいどう)と称する「御殿」を配し、敷地のほぼ中央に大泉水を掘り琥珀橋と呼ばれる木橋を渡し、所々に築山・渓谷・田畑などを設け、社祠堂塔・茶屋なども配した25の景勝地が造られていた。
 なかでも小田原宿の景色を模した「町並」は、あたかも東海道五十三次を思わせる、他に類のない景観を呈していたと伝えられている。
 その後、一時荒廃したが、寛政年間(1789-1800)の初め第11代将軍家斉の来遊を契機に復旧された。その眺めは、将軍をして「すべて天下の園地は、まさにこの荘を以て第一とすべし」と折り紙を付けしめたほどであった。
 安政年間(1854-1859)に入り再び災害にあい、その姿を失い復旧されることなく明治維新(1868)を迎えた。
 明治7年(1874)からは陸軍外山学校用地となり、第二次大戦後は国有地となりその一部が昭和29年から今日の公園となった。
 陸軍用地の頃から誰からともなく、この園地の築山(玉円峰)を「函根山」・「箱根山」と呼ぶようになり、この山だけが当時を偲ぶ唯一のものとなっている。

平成2年3月公園整備を記念して    東京都

(公園の説明板より)


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