かつて高岡(鷹岡)と呼ばれていた弘前城の場所(現・弘前公園)から岩木山を望む 2010/4/23
弘前という町は東北最北端の主要都市として知られ、かつては軍都でもあった。現在では観光地としても賑わっているが、その町の生い立ちを調べてみると当時の科学である風水をもとにした都市計画があった。
その生い立ち調べのきっかけをつくってくれたのは、客待ちのタクシー運転手が「西の方に変な屋根をした山門の寺があるよ」という一言であった。 ・・・確かに変な門があった。 その寺には弘前城を造った津軽初代藩主、為信と二代藩主、信枚公の軍師「沼田面松斎(ぬまためんしょうさい」の墓があり、まだ南部藩の支配下にあった津軽地方を平定し弘前城を築城するまで、多大な影響を与えたという人物のものだった。 城下町の計画では陰陽師でもある彼の才覚に負うところ大だったようで、為信の津軽平定後、高岡(現・弘前城のある場所)を京都や江戸のように四神相応の地とすべく、神社仏閣の配置を考えて城下づくりを進めた。そんな彼は江戸で多大な影響力を持っていた天海僧正とは刎頸(ふんけい)の友でもあったようである。 軍師というものは歴史の表舞台ではなかなか名前が出てこないので、業績の真偽のほどは定かではない。しかし以下「軍師・沼田面松斎が描いた町」という色眼鏡をかけて町を見て回ることとする。
弘前市内地図(赤マークはスケッチにリンクしています)ここにマウスを乗せると風水思想による町造りの軸線が現れます
案内リスト
(上図の風水思想の軸線を表示しながら読んでいただくと理解しやすいと思います) 東西軸では、西の白虎を象徴する革秀寺(格彦稲荷大明神・秀吉像安置 開基為信)と、東の青龍を象徴する東照宮(東照大権現・家康)という東西神を対峙させている。あえて分離配置し、さらに秀吉はカムフラージュして徳川家に対する配慮がうかがえる。 南北軸では、北の玄武を象徴する伊勢神宮(天照大神)と、南の朱雀を象徴する鏡ヶ池と八坂神社(牛頭天王)が向かい合っている。 西の先を延長すると、かつての居城、大浦城があり、そのさらに先は岩木山となる。そして東には青龍を意味する川(土淵川と平川)があり、その先にはかつての誓願寺や大光寺城があった現・平川市となる。 鬼門には八幡大権現(武門の守り神)があり、裏鬼門には禅林街と長勝寺(津軽家菩提寺)となる。 邪気は鬼門から入り裏鬼門に抜けるというから、まさに八幡宮が城を守り、さらにその後ろの津軽家菩提寺(長勝寺)を守っている形になっている。
弘前城は天正年間(1573-92)に津軽平野を平定した津軽氏初代の為信(ためのぶ・初めは大浦姓)により慶長9年(1604)から築城工事にかかり、二代藩主信枚(のぶひら)に引き継がれ慶長16年(1611)に完成したものである。その後の260年間、明治4年(1871)の廃藩置県と東北鎮台の分営が置かれるまで大きな戦乱に巻き込まれることもなく、明治6年(1873)の東北鎮台の分営廃止と廃城令発布により本丸御殿が取り壊されたが、明治28年(1895)には市民公園として市民に開放されている。 当時の天守、櫓、城門、三重の水濠等と、築城形態の全貌をかなりそのままの形で今に残し、日本100名城中人気ランキング第4位(平成18年)とされている名城として知られている。
最初の天守は本丸南西隅に五層のものが建てられたが寛永4年(1627)の落雷により焼失してしまった。その後現在の位置にあった本丸辰巳櫓を文化7年(1810)に改修着手、翌年完成したのが現在我々が目にするものである。屋根瓦は凍結のため粘土瓦ではなく、木製の瓦型に銅板を張ったものである。最初の天守が落雷に遭ったのもそのことが原因だったのだろうか?
下乗橋を前にした天守閣 2010.4.25 鉛筆・透明水彩
手前の垂れ桜が咲き誇っていれば、「弘前城の絵葉書」としてよく見るアングルである。この日は桜祭りの初日だったが、あいにく訪ねた年は春がまだ先のようで桜のつぼみがようやく色付き始めた程度だった。 朱色の橋は本丸と二の丸を結ぶもので、この橋のたもとには下馬札があり、藩士は馬から下りるように定められていたそうである。
下乗橋(げじょうばし) 本丸と二の丸を結ぶ橋で、この橋の二の丸側に下馬札があり、藩士は馬から下りるように定められていた。築城当初、橋の両側は土留板だったが、文化八年(1811)に石垣に直したものである。 以前は擬宝珠が十二支をかたどったものであった。 橋のたもとの説明板より
本丸と二の丸を結ぶ橋で、この橋の二の丸側に下馬札があり、藩士は馬から下りるように定められていた。築城当初、橋の両側は土留板だったが、文化八年(1811)に石垣に直したものである。 以前は擬宝珠が十二支をかたどったものであった。
橋のたもとの説明板より
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弘前城には三の丸(外濠)に3つ、二の丸(内濠)に2つ、合計5つの城門(すべて櫓門)があるが、まずは南に面した正門ともいうべき追手門から。
2010.4.25 鉛筆・透明水彩
城門の構えはこの絵のように外濠を渡ってきた外敵とは正面に構えず、門前を狭い場所としている。入城するには右手から外濠を渡って追手門の前から入城する仕掛けである。そして敵であれば上部の矢狭間、鉄砲狭間から狙い撃ちという段取りである。 内側(二の丸・内濠)にも「南内門」が構えて、同じ形式の櫓門とした二重の門構えである。
この絵の左手濠の外側には現代の建物・青森市役所がこの追手門と対峙して建っている。
この城門も追手門と同じ形式で配置され、形状も同じ。やはり内側も櫓門となっている。
左:二の丸に構える東内門 右:三の丸に構える東門 2010.4.25 鉛筆・透明水彩
あちこちに配置される城門だからどれも同じとは思ってなかったが、裏切られた。基本的には同じ形式・規模である。しかし巨大な柱のサイズを測ってみて驚いた! 外濠城門の中央一対柱は60cm×40cmというものである。 それにひき換え二の丸の内門では中央二柱:50cm×40cm、外側四柱:45cm×35cmと、一サイズ小さくしたものだった。 東内門の奥に見える樹木は樹齢120年という日本最古の「ソメイヨシノ」という説明書きがあったが、それが本当のことだとするとクローン種は意外と短命だということなのだろう。(ソメイヨシノは成長がはやい割に寿命は60〜80年とされる。手っ取り早い街路樹に多く利用されるわけである)
この門は「北門」といっても北に向いてない。形式も他の城門と比べて古いものである。
左上:内側からの全景 左下:外側から見上げた亀甲門 右:外堀からの全景 2010.4.25 鉛筆・透明水彩
この門は追手門(正門)として大光寺城(現在の南津軽郡平賀町大光寺)から移築したものである。他の門と比べると古い形式のもので、規模も形状も異なっている。外見で直ぐ気付く点は、この門に限っては矢狭間、鉄砲狭間がないところだ。 通称、かめのこ門と呼ばれるのは亀と蛇が絡んだ北のシンボル「玄武」の亀とその甲羅を盾にすることからの命名だろう。 この北門が築城当初は追手門だったということは、こちらが正門ということになる。それはなぜか?
津軽地方は長い間、南部藩に属していた地域であった。それが分離独立した津軽藩としては南部藩とは仲が悪かったわけである。そのため参勤交代には奥羽街道を使うことはせず、西浜街道(鰺ヶ沢街道)を使っていて、そのためにも城の出入りには北側が便利だったわけである。 寛文5年(1665)には羽州街道が整備されたので、その後は南門が追手門として本当の表門となっている。
北門のすぐ前にある「こみせ」
亀甲門前からの全景 2010.4.25 鉛筆・透明水彩
北門の北側は「若党町」という名前もあるぐらいの武家屋敷地の広がった地域で、その城門の前にあるのがこの「石場家住宅」である。当主は代々「清兵衛」(屋号、マルセ)を名乗ったという弘前藩出入りの商家であり、主に藁製品を取り扱っていたという。今は津軽地酒専門店石場屋酒店として、連綿と家名を守り続けている。 1973年(昭和48年)2月23日に国の重要文化財に指定されているが現在でも住居として住まわれている貴重なお宅である。
市内の川が集まる辺りは水の豊富な地域だった。そして見つけた小さな小屋。
外観(左) と 内観(右)2010.4.23 鉛筆・透明水彩
この辺りは市外の縁にあたり、かなり勾配のある地形である。この小屋も傾斜地に半分潜り込むようにして建っていた。その中をのぞくと共同浴場のような水槽が沢山並んでいて、環境庁の名水百選にも選ばれている水場だった。地形地図で確認してみると、白神山地の東部山岳地帯を水源にして、その伏流水が湧き出してくる場所のようだ。その証拠にこの地域のまわりには湧き水によると思われる溜池があちこちに確認される。
「富田の清水」について 「富田の清水」の周辺は、古くから清水の豊富なところとして知られ、中津軽郡富田村に所在したことからこう呼ばれてきました。 貞享3年(1686年)、津軽藩四代藩主信政公が越前の熊谷吉兵衛を招き、紙漉き法を導入した際にこの豊かな清水が紙漉きに使われました。 この清水の水源は東方約六十メートルにあり、昭和の初めの頃までは紙漉きに利用されましたが、その後は生活用水として使用され第一槽二槽は飲用、第三槽は米、青物の洗い、洗顔用、第四槽は紙漉きの材料や漬物樽をつける、第五槽六槽は洗濯用、足洗い等の決まりがありました。 昭和六十年、身近で清涼な水として古くから地域住民の生活に融け込み良好に管理されてきたことから、環境庁の名水百選に選ばれました。 平成七年七月七日、それまで所有者として管理にあたって来た紙漉町清水共有会から市に寄贈されました。 弘前市 (説明板より)
「富田の清水」の周辺は、古くから清水の豊富なところとして知られ、中津軽郡富田村に所在したことからこう呼ばれてきました。 貞享3年(1686年)、津軽藩四代藩主信政公が越前の熊谷吉兵衛を招き、紙漉き法を導入した際にこの豊かな清水が紙漉きに使われました。 この清水の水源は東方約六十メートルにあり、昭和の初めの頃までは紙漉きに利用されましたが、その後は生活用水として使用され第一槽二槽は飲用、第三槽は米、青物の洗い、洗顔用、第四槽は紙漉きの材料や漬物樽をつける、第五槽六槽は洗濯用、足洗い等の決まりがありました。 昭和六十年、身近で清涼な水として古くから地域住民の生活に融け込み良好に管理されてきたことから、環境庁の名水百選に選ばれました。 平成七年七月七日、それまで所有者として管理にあたって来た紙漉町清水共有会から市に寄贈されました。
弘前市
(説明板より)
パゴダ(仏塔・五重の塔)と神社が同居している。
左:塀で隔てられている最勝院仁王門と八坂神社鳥居 右:寺と神社共通の入口 2010.4.23 鉛筆・透明水彩
この寺は本来「大圓寺」という寺で、本尊は牛頭天王(素戔嗚尊)といわれている。すなわち本地垂迹(ほんじすいじゃく)そのものだ。しかし明治の神仏分離令により大圓寺は仏教寺として大鰐に追いやられ、同じように神仏分離で廃寺となってしまった最勝院が、檀家のためにこの場所に入り、牛頭天王社は「八坂神社」として改名して存続することとなったのである。さらにその寺と社を塀でハッキリと分離までしている。 おかげで東向きの神社参道は塀に邪魔されて、直角に曲げられてしまった。「牛頭天王社」のスサノオは北に鎮座する「伊勢宮」のアマテラスと男神・女神の陰陽姉弟として弘前を護っているのを良いことに北向きの参道を演出したのだろうか。つまらぬ知恵者(官僚?)が手を出した悪しき例であろう。
この寺には見事な五重塔がある。当然大圓寺時代のものだが、逓減率の高い(上に行くほど絞り込んだ)綺麗なものである。平成3年(1991)の台風で被害を受けたが解体修理され当時の姿を見せてくれている。 この塔はかつては大光寺(現平川市)の三重塔だったものを移築、さらに五層にしたものらしいが、機会があったら改めて訪ねて調べてみたい塔である。
その当時を思い浮かべるにはもう一つ忘れてならないものがある。それはこの寺のそばに寺沢川(市内を流れる土淵川の支流)を堰き止めた溜池があったのだ。風水でいう朱雀を表すもので江戸期に造られた人造湖である。別名、鏡ヶ池というそうだからこの池は五重塔から見たら、岩木山を写す鏡だったに違いない。(この池は現在は埋め立てられ、堰き止めた堤防は幹線道路として面影を残している)
この場所は津軽藩菩提寺「長勝寺」を中心として、領内の曹洞宗寺院32ヶ寺(計33寺)を集め、お城の西南の裏鬼門の守りとして風水に結びつけたものである。それだけでなくこの一帯を「長勝寺構え」として、軍事上の砦として造られたらしい。その名残だろうか、町を隔てるように長さ600m、高さ3m程の土塁が築かれていた。
この地区の南に「新寺町」という地域があるが、そこも城を守る防衛上の砦のようである。 現在でも城の東門の前に「元寺町」という町がある。当然、多くの寺が建ちならんでいたと想像される。しかし慶安2年(1649)の大火を機に多くの寺が鏡ヶ池の南に移されたのだった。「新」といっても三代藩主信義の時代のことで、とても新寺町とは呼べない歴史ある寺町である。そしてこの町ぐるみの引越も城の防御のために侍町にしたいとか、城の隣りで寺社の勢力が大きくなることを恐れて郊外に出城として利用するというような意図がありはしないかと出火原因にも裏読みしたくなる話である。なお三代藩主信義開基とする菩提寺天台宗報恩寺はこの新寺町にある。
道路を跨ぐこの門が「黒門」と呼ばれる長勝寺境内に入る門で、長勝寺までの道に沢山の寺が面して建っている。この通りを禅林街というようだ。
参道の遥か先の正面が長勝寺 2010.4.23 鉛筆・透明水彩
この門の形式は高麗門と記憶するが、本来は城門の内門によく見られる形式。町を隔てていたあの土塁を思い出せば、当然そこに櫓門があっても不思議ではない。まさに禅林街が出城としての軍事的意味合いがよく分かる。しかしこれは私だけの空想である。 左手のお堂に注目してみよう。数年前に来たときに気が付いたお堂で、今回の注目建物である。
禅林街の入り口に六角堂と呼ばれる小さな堂があるが、実際は八角形である。なぜ六角堂と呼ぶのかは分からない。
2010.4.23 鉛筆・透明水彩
内部には入れないのでどうなっている建物かは分からず、外周をうろうろして回った。庇が螺旋状についている。すなわち名前通りに螺旋階段が内蔵されていると思えるのだ。 この建物については「家」の項で改めて解剖して取り上げてみたい。
栄螺堂(さざえどう・俗称六角堂)由緒 この御堂は栄螺堂と云われ天保十年(1839)、時の豪商東長町中田嘉兵衛翁が年々歳々の海難で死亡した者及び天明天保の大飢饉で数万の餓死死亡者の無縁の諸霊冥助のため発願して建立された御堂で八角の稜形であるが内部は栄螺形の廻り階段になって全国でも稀な建築様式で観音菩薩他諸仏体を安置して信仰の対象として有縁・無縁の諸霊冥福を祈り永く後代の人々の為に遺し伝える所以であります。 昭和五十一年九月五日 弘前禅林 管理者 蘭亭院 (掲げられている説明板より)
この御堂は栄螺堂と云われ天保十年(1839)、時の豪商東長町中田嘉兵衛翁が年々歳々の海難で死亡した者及び天明天保の大飢饉で数万の餓死死亡者の無縁の諸霊冥助のため発願して建立された御堂で八角の稜形であるが内部は栄螺形の廻り階段になって全国でも稀な建築様式で観音菩薩他諸仏体を安置して信仰の対象として有縁・無縁の諸霊冥福を祈り永く後代の人々の為に遺し伝える所以であります。
昭和五十一年九月五日
弘前禅林 管理者 蘭亭院
(掲げられている説明板より)
長勝寺は津軽家の先祖大浦家の菩提寺で、かつては岩木山の日本海側のまち鰺ヶ沢に享禄元年(1528)に建立された寺であった。 その後大浦氏(後の津軽氏)の居城とともに、大浦、堀越へと移り、津軽藩二代藩主信枚が弘前城築城に合わせて慶長15年(1610)にこの地に移したとされている。
長勝寺構えを統括する総本山がこの寺だが、まさに最後の砦とも言える出城であり、津軽家の菩提寺としての権威を示す造りとなっている。 山門は仁王さんが威嚇してるものと違って、堂々としてはいるがどこか優美さも感じられる楼門である。 くぐってすぐ右手にある鐘楼はいたって質素なものだが、その銅鐘は嘉元4年(1306)の紀年銘があるというから驚きである。寄進者の筆頭に鎌倉幕府の執権だった北条貞時の法名があり、さらに津軽曽我氏の統領や安藤一族と考えられる名前なども陰刻されているというから、北条氏と津軽の関係を示す貴重なもののようである。(重要文化財) なお、本堂・庫裏の建物など、修理中で足の踏み場もない状態だったが、完成が待たれる。
重要文化財 長勝寺三門 昭和十一年九月十八日指定 三門は、寛永六年(1629)二代藩主津軽信枚により建立されたものである。以後数回の改造を経て、文化六年(1809)には火灯窓を設けるなど、ほぼ現在の形となった。上下層とも桁行9.7m、梁間5.8mで棟高は16.2mである。組物を三手先詰組とし上層縁廻の勾欄親柱に逆蓮柱を用いるなど、禅宗様の手法を基本としている。また、柱はすべて上から下までの通し柱で、特殊な構造となっている楼門である。 境内説明板より
昭和十一年九月十八日指定
三門は、寛永六年(1629)二代藩主津軽信枚により建立されたものである。以後数回の改造を経て、文化六年(1809)には火灯窓を設けるなど、ほぼ現在の形となった。上下層とも桁行9.7m、梁間5.8mで棟高は16.2mである。組物を三手先詰組とし上層縁廻の勾欄親柱に逆蓮柱を用いるなど、禅宗様の手法を基本としている。また、柱はすべて上から下までの通し柱で、特殊な構造となっている楼門である。
境内説明板より
津軽家菩提寺である長勝寺には、初代藩主為信を祀った御影堂と藩の安泰を祈願する五つの廟が祀られている。しかし残念ながら、神域に踏みこむことは出来ず、遠巻きに確認するだけにとどまった。
左手に一列につらなる霊廟 と 右奥に見える御影堂(か?) 2010.4.23 鉛筆・透明水彩
御影堂は初代藩主為信の木像(県重宝)を祀った堂で、内部の厨子と須弥壇は重要美術品に認定されているそうだ。創建は山門と同じ寛永6年(1629)と伝えられ、文化2年(1805)に正面を南から東に改め、全面的な彩色工事が実施されたという。 霊廟は 環月臺、碧巌臺、明鏡臺、白雲臺、凌雲臺の5棟が現存し、初代為信御影堂より南へほぼ等間隔で直線上に5棟並んでいる。(下線は女性を示す) 男性の藩主だけでなく、初代為信の奥方の仙桃院の廟(環月臺)と二代信枚の奥方満天(まて)姫の廟(明鏡臺)の二つの廟がある。 仙桃院は大浦氏の娘で初代藩主為信は大浦氏の養子、後に津軽氏を名乗るようになる。満天姫は徳川家康の弟、松平康元の娘で、しかも家康の養女であった。この二人のおかげで津軽藩の格式が高められ、明治期まで平穏に続いたのである。 碧巌臺は2代信枚霊屋、白雲臺は3代信義霊屋、凌雲臺は6代信著霊屋ということらしいのだが、欠番はどうしてかは不明。
誓願寺は津軽為信によって旧大光寺村(現平川市)に建立されたものを、弘前城築城の時あわせて現在の場所に移転された寺である。その移転に何か因縁を感じる。 風水でいう青龍(東方向)を延長するとかつての津軽家居城であった大光寺城に当たり、その西に位置するのがかつての誓願寺である。居城を弘前に移すと同時にその関係をそっくり写したのが、現在のこの寺となるのだ。 その後幾度も火災にあったが不思議なことに、この山門は難を逃れたそうである。
参道正面から見た姿はうわさ通り、今まで見たことのない不思議な形である。幅に対してアンバランスな程高さを感じるが、意外に小さな門だというのが最初の印象である。 この山門は京都にある誓願寺山門を模したものとの説明書きがあったので、後日Webで調べてみた。確かに京都にも同名の寺社はあったが、山門は全く新しいものとなっていて、真偽の程は確かでない。 上段は切り妻屋根の妻入り、下段は両側に左右片流れという二重屋根となっている。屋根の形状は特殊だが四脚門の楼門ということだろうか。 初めはゲテモノにでも接するように遠巻きに見ていたが、よく考えてみたら至って合理的な形ではないか。 この地域の冬を思ってみればすぐ分かることで、雪深い地域ならでの工夫が込められたものと見るべきだろう。 屋根軒下に飾られている懸魚に鶴と亀が付けられていることから「鶴亀門」と呼ばれている。
仏教では西方浄土の思想がある。そして三途の川(岩木川か?)から浄土に行けるとされる思想である。 軍師・沼田面松斉はこの寺に丁重に埋葬されている。そして軸線をさらに西に延長して岩木川を越えると、そこには初代藩主為信開基とする革秀寺がある。 この城下町を画いたご両人が、静かに真東を向いて城を、町を見守っていたのだ!
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参考文献: 「津軽太平記」 獏 不塩次男 著 河出書房新社 発行 「風水で読み解く弘前」 佐々木 隆 著 北方新社 発行
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