
![]() かつての街道筋が寄り集まる辺りには、こんな馬頭観音が今でもあちこちに残っていた。
狭山茶の里 春も深まり、立春から数えて88日目(2009年は5月2日)の頃といえば新芽が盛んに芽吹く茶摘みの季節である。関東の茶は「狭山茶」として知られているが、さて?どこが狭山茶の本場なのだろう。そして調べた結果が、狭山丘陵と加治丘陵とで挟まれた地域であることを知った。 ![]() 加治丘陵が南北を隔てているのがよくわかる (マウスONで説明) <案内リスト> 茶どころは狭山丘陵西側の現・入間市である。入間川を下った隣町に狭山市があるが、本来なら町名がアベコベだろうと思われる不思議な町同士である。平成の大合併で住民投票がおこなわれ、町名問題も解決かと思われたが合併反対多数で否決されたそうである。 入間宮寺教会(畳敷きの簡素な教会)現在の国道16号線は、かつての八王子千人同人が日光詣でをした「日光脇往還」を概ねなぞった道路である。その街道の宿場町の一つがここ「二本木」で、そのバス停の前にこの教会が建っている。 ![]() 入間宮寺教会の正面と側面図 (平面図は創作) 2009.5.11 鉛筆・透明水彩 尖り帽子の鐘楼がなかったら、正真正銘の日本建築である。小屋組も和小屋構造だと想像する。しかし正面に掲げられた縦横同じ長さのギリシャ十字が、街でよく見かける縦の長いラテン十字と違い、基督教の正統派を思わせる。明治末期(1910)に建てられた教会で、埼玉県で最初のカトリック教会なのだ。
盈進(えいしん)学園東野(ひがしの)高等学校宮寺教会の裏を少し入ったところにかなり変わった建物がある。バブル期にちょっと話題になった学校で、外観を見るだけでも楽しそうなので立ち寄ることにした。 1985年4月の開校である。 ![]() 2009.5.11 鉛筆・透明水彩 正門らしきところに着いた。なんと素っ気ない佇まいだろう。廻りは昔ながらの板塀と、この凱旋門とも店蔵ともつかない建物。構内はこれではうかがい知れない・・・ということで、導かれるように正門を潜り進んでいくと、長い塀に沿って軸線を多少振り、もう一つの正門に出会う。3階建ての長屋門で、海鼠壁(なまこかべ)もどきに白黒で彩られた外壁が内部の構内を暗示しているようである。 ![]() 食堂棟を背に、キャンパス全体を見る。正面が入ってきた正門 2009.5.11 鉛筆・透明水彩 一歩入り込むとそこは講堂と事務所棟に挟まれた広場である。平日で授業中の時間帯でもあり、一応事務所に立ち入りの理にいったら、教室棟以外はご自由にとの承諾を得た。 設計はクリストファー・アレグザンダー。1977年に発表した「A Pattern Language」の理論で知られるアメリカの建築家だが、実作があまり知られていない伝説的建築家である。その理論に沿った設計の数少ない建物であった。 狭山茶の里青梅を源流として入間川に注ぐのが「霞川」だが、その川の右岸側が狭山茶の里で「茶どころ街道」として果てしなく連なっている。 ![]() 2009.5.11 鉛筆・透明水彩 その茶畑たるや、一番茶が見事に刈り込まれているが、その刈り込み風景を目にした。二人がかりで湾曲したバリカンで刈り込んで行くのだ。この器械、バリカンの歯に沿わせたコンプレッサーからのダクトで刈り上げた茶葉を後の収納袋に吹き込む仕掛けになっていて、いたって合理的である。しかし丁寧な仕事はやはり手摘みに限るらしく、そんな場所はバリカン跡のようなきれいな状態ではないので一目で分かる・・・ということは殆どが器械で刈り込んでいるということか。
桜山展望台加治丘陵を登り詰めると吉野ヶ里遺跡で復元された望楼のような展望台が現れる。もちろん現代のものだからRC造だが。 ![]() 展望台から関東平野を望む 2009.5.11 鉛筆・透明水彩 この展望台の最上階に上がるだけでも大変。なにしろ階段で5階分ほどもあるのだから。しかしこの丘陵の標高190mの場所に高さ20mの嵩上げした見晴らしは素晴らしい。眼下の入間市は標高100mほどだろうから、都心の30〜40階の超高層からの眺めと比べてみれば比較できるというものだ。しかも周りは自然そのもの。 ![]() 奥武蔵・秩父方面を望む 2009.5.11 鉛筆・透明水彩 反対側を見ると奥武蔵の山々が連なっているのが手に取るように分かる。手前の街は飯能市で、かつての西川材を江戸に送り出した材木の街、養蚕の街である。 加治丘陵の炭坑加治丘陵の麓では、今も炭鉱が活躍している・・・という話を本当に思いますか? ![]() 2009.5.11 鉛筆・透明水彩 加治丘陵は、日本の主要な地溝帯・フォッサマグナ・・・日本列島の生い立ちを思い起こさせてくれる不思議なところである。かつて海であった証しの貝殻やゾウの化石までも発掘されたと云うこの辺りは亜炭が発見され、戦後しばらくは亜炭が掘られていた。驚いたことに、その炭鉱は現在でも採掘されていた。昔のような燃料にではなく、新たな目的を見出しているようである。 古街道の渡船場丘陵を完全に降りきると目の前は入間川である。橋を渡って対岸に出よう。 ![]() 2009.6.6 鉛筆・透明水彩 この橋は入間川の右岸・阿須と左岸・岩沢を結ぶ「あいわばし」(阿岩橋)。かつては鎌倉裏街道として、そして丹沢の大山阿不利神社への参詣に利用されたことから大山街道と名前を変えて伝えられている古道の渡船場で、明治末期まで橋は架かっていなかった。
八高線の鉄橋東京・八王子から群馬・高崎に北上する鉄道は加治丘陵を渉り、この広い川も原っぱも一気に通り過ぎていく。 ![]() 2009.5.11 鉛筆・透明水彩 奥武蔵の急峻な山岳地帯を源流とする名栗川は飯能から入間川と名前を変え、青梅からの支流も集めてゆったりと流れていく。 遠望する加治丘陵に阻まれて、この辺りでは行先を探るように両岸を大きく浸食しながら蛇行して行く。 鉄橋の向こうはかつての渡船場だった「阿岩橋」。 ![]() 1952年晩秋の八高線鉄橋 クレパス 実はこの鉄橋には半世紀にわたる思い入れがある。この近くの小学生だった頃、この川に出て写生をしたのが左の絵で、当時小学4年生。その絵を最後に東京に転校してしまったので、今回同じポイントで見てみたかったのだ。しかしなかなか同じ場所が見つからない。 ・・・・・ 家に戻って見比べてみるが納得できず、後日梅雨の合間の晴れ間に、意を決してまた同じ処にきてしまった。そして岸辺の畑で作業中の年配の方と話していくうちに疑問が解けた。 「川がこっちばかりに寄ってくるんで畑が少なくなってしまう・・・」 ![]() 2009.6.6 鉛筆・透明水彩
飯能の造酒屋 今回のピクニック?の最後に立寄ったのが、入間川の傍らにある造酒屋。ラベルには「天覧山」として、飯能を背負っている清酒である。夕方になってしまい閉店間際に試飲だけはなんとかすべり込み、その後の仕上は街中のチョウチンと相成った。したがって酒屋のスケッチは省略・・・ Mozilla, Chrome, Opera & I.E. に対応(20150123) |
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