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かつての街道筋が寄り集まる辺りには、こんな馬頭観音が今でもあちこちに残っていた。

狭山茶の里


 春も深まり、立春から数えて88日目(2009年は5月2日)の頃といえば新芽が盛んに芽吹く茶摘みの季節である。関東の茶は「狭山茶」として知られているが、さて?どこが狭山茶の本場なのだろう。そして調べた結果が、狭山丘陵と加治丘陵とで挟まれた地域であることを知った。
早速茶摘みのこの時期、せっかくだから加治丘陵も踏み込んでみようと、小学校時代の友人達と小ピクニック気分で出かけてみた。

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加治丘陵が南北を隔てているのがよくわかる (マウスONで説明)
地図提供:Google map

 <案内リスト>
1_入間宮寺教会
2_盈進学園東野高等学校
3_狭山茶の里
4_桜山展望台
5_加治丘陵の炭坑
6_古街道の渡船場
7_八高線の鉄橋
8_飯能の造酒屋

 茶どころは狭山丘陵西側の現・入間市である。入間川を下った隣町に狭山市があるが、本来なら町名がアベコベだろうと思われる不思議な町同士である。平成の大合併で住民投票がおこなわれ、町名問題も解決かと思われたが合併反対多数で否決されたそうである。
鉄道網が縦横に走る狭山市に比べて、入間市は陸の孤島か?と思わせる地帯であるが、古くは鎌倉裏街道が、江戸期には八王子からの日光脇往還が通り、二本木宿・扇屋宿と宿場町で賑わったところである。明治になると、南の青梅から北の入間を結ぶ豊岡街道を馬車鉄道が走っていたそうである。お茶に最適な温暖な地域が茶どころとして盛んなのは地域の両端に流通都市を控えていることで、今に伝えているのかも知れない。
 なお北に横たわる加治丘陵を境にして、かつては南が入間郡、北が麗郡(後に飯能は入間郡)となる。

入間宮寺教会(畳敷きの簡素な教会)

 現在の国道16号線は、かつての八王子千人同人が日光詣でをした「日光脇往還」を概ねなぞった道路である。その街道の宿場町の一つがここ「二本木」で、そのバス停の前にこの教会が建っている。

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入間宮寺教会の正面と側面図 (平面図は創作) 2009.5.11 鉛筆・透明水彩

 尖り帽子の鐘楼がなかったら、正真正銘の日本建築である。小屋組も和小屋構造だと想像する。しかし正面に掲げられた縦横同じ長さのギリシャ十字が、街でよく見かける縦の長いラテン十字と違い、基督教の正統派を思わせる。明治末期(1910)に建てられた教会で、埼玉県で最初のカトリック教会なのだ。
所沢教会から定期的にやってくる巡回教会なので、日曜日以外は開放されず扉は閉ざされていた。窓から中を伺うと床は畳敷きのようで、正に内部も和式の教会であった。しかし畳の敷き方に注目である。我々が普段見る畳の敷き方はT字形にした祝儀用の敷き方だが、ここでは不祝儀用・・・いや、それとも違う。中央だけを縦に並べて敷き、両脇は横にしている。まさに中央通路と会衆席を表しているのだ。内陣両側には小さなステンドグラスが嵌め込まれていたが、内部から見たらささやかながら、唯一の異教を演出するものなのだろう。

入間宮寺(いるまみやでら)教会

入間市景観50選 No.34

 毎週日曜日の朝、カランカランと鐘が響きます。半世紀以上変わらない光景。入間宮寺教会は、明治43年(1910)、メーラン神父によって、カトリック教会としては埼玉県で最初に作られた教会です。時代を超えた普遍的な光景は今でも続いています。

敷地脇に掲げられていた掲示板より

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盈進(えいしん)学園東野(ひがしの)高等学校

宮寺教会の裏を少し入ったところにかなり変わった建物がある。バブル期にちょっと話題になった学校で、外観を見るだけでも楽しそうなので立ち寄ることにした。 1985年4月の開校である。

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2009.5.11 鉛筆・透明水彩

 正門らしきところに着いた。なんと素っ気ない佇まいだろう。廻りは昔ながらの板塀と、この凱旋門とも店蔵ともつかない建物。構内はこれではうかがい知れない・・・ということで、導かれるように正門を潜り進んでいくと、長い塀に沿って軸線を多少振り、もう一つの正門に出会う。3階建ての長屋門で、海鼠壁(なまこかべ)もどきに白黒で彩られた外壁が内部の構内を暗示しているようである。

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食堂棟を背に、キャンパス全体を見る。正面が入ってきた正門  2009.5.11 鉛筆・透明水彩

 一歩入り込むとそこは講堂と事務所棟に挟まれた広場である。平日で授業中の時間帯でもあり、一応事務所に立ち入りの理にいったら、教室棟以外はご自由にとの承諾を得た。
なんという校内だろう。教室棟は土蔵造りの建物が寄り集まり、中央には運河のような水辺を中心にして、体育館・講堂が、そして太鼓橋を渡った先には食堂棟が配置されている。よく見ると水路は建物の間に入り込んでいて倉敷の町並みの様子に似ている。直に手に触れることが出来た講堂の外壁はなんと黒漆喰で、川越の店蔵に使われている外装である。

設計はクリストファー・アレグザンダー。1977年に発表した「A Pattern Language」の理論で知られるアメリカの建築家だが、実作があまり知られていない伝説的建築家である。その理論に沿った設計の数少ない建物であった。

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狭山茶の里

青梅を源流として入間川に注ぐのが「霞川」だが、その川の右岸側が狭山茶の里で「茶どころ街道」として果てしなく連なっている。

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 2009.5.11 鉛筆・透明水彩

 その茶畑たるや、一番茶が見事に刈り込まれているが、その刈り込み風景を目にした。二人がかりで湾曲したバリカンで刈り込んで行くのだ。この器械、バリカンの歯に沿わせたコンプレッサーからのダクトで刈り上げた茶葉を後の収納袋に吹き込む仕掛けになっていて、いたって合理的である。しかし丁寧な仕事はやはり手摘みに限るらしく、そんな場所はバリカン跡のようなきれいな状態ではないので一目で分かる・・・ということは殆どが器械で刈り込んでいるということか。
霞川を渡ると豊岡街道、はや加治丘陵の麓である。

加治丘陵

入間市景観50選 No.25

 関東平野と山地との境に位置し、東西6km、南北に1kmと細長い形状をなし、標高は203.5〜110m程の丘陵。全体としては雑木林と植林地が多く、オオタカやコミヤマスミレなど貴重ないきものが生息し、その自然環境は私達に安らぎを与えてくれます。

豊岡街道に掲げられた掲示板より

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桜山展望台

 加治丘陵を登り詰めると吉野ヶ里遺跡で復元された望楼のような展望台が現れる。もちろん現代のものだからRC造だが。

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展望台から関東平野を望む 2009.5.11 鉛筆・透明水彩

 この展望台の最上階に上がるだけでも大変。なにしろ階段で5階分ほどもあるのだから。しかしこの丘陵の標高190mの場所に高さ20mの嵩上げした見晴らしは素晴らしい。眼下の入間市は標高100mほどだろうから、都心の30〜40階の超高層からの眺めと比べてみれば比較できるというものだ。しかも周りは自然そのもの。
 丘陵のきわを流れるのは青梅から入間川に注ぐ霞川で、有史以前には多摩川がこのあたりを流れ荒川に注いでいたと云う。武蔵野台地の隆起にあわせて多摩川は西に移動してしまったが、霞川はさしずめその名残川ということか。そんな悠久の歴史を感じさせてくれる風景である。
南側の西武球場も認められる狭山丘陵とに挟まれた温暖な地形が、今では狭山茶の本場となり、東西見渡すかぎりの茶畑となっている。この平地をかつては鎌倉脇街道や日光脇往還が縦走し、正面あたりはその二本木宿。 現在は国道16号や地中化された首都圏中央道路自動車道が一気に通り抜ける唯それだけの場所に、高圧線や携帯電話のアンテナ基地局だろうか、鉄塔が乱立している。

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奥武蔵・秩父方面を望む 2009.5.11 鉛筆・透明水彩

 反対側を見ると奥武蔵の山々が連なっているのが手に取るように分かる。手前の街は飯能市で、かつての西川材を江戸に送り出した材木の街、養蚕の街である。
しかし眼下を見るとこの丘陵も開発がしのび寄っている。 搭状の建物は学校施設である。

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加治丘陵の炭坑

加治丘陵の麓では、今も炭鉱が活躍している・・・という話を本当に思いますか?

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2009.5.11 鉛筆・透明水彩

 加治丘陵は、日本の主要な地溝帯・フォッサマグナ・・・日本列島の生い立ちを思い起こさせてくれる不思議なところである。かつて海であった証しの貝殻やゾウの化石までも発掘されたと云うこの辺りは亜炭が発見され、戦後しばらくは亜炭が掘られていた。驚いたことに、その炭鉱は現在でも採掘されていた。昔のような燃料にではなく、新たな目的を見出しているようである。
 本来は構内への立ち入りは禁止だが、特に踏み込むお許しを頂いて少しだけ覗かせてもらった。トロッコも現役で亜炭混じりの採石が積み込まれていた。しかし現在は宮城産を利用することが殆どだそうで、その成果品は詳しくは伺わなかったが、土壌改良の一助にするものらしい。

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古街道の渡船場

丘陵を完全に降りきると目の前は入間川である。橋を渡って対岸に出よう。

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2009.6.6 鉛筆・透明水彩

 この橋は入間川の右岸・阿須と左岸・岩沢を結ぶ「あいわばし」(阿岩橋)。かつては鎌倉裏街道として、そして丹沢の大山阿不利神社への参詣に利用されたことから大山街道と名前を変えて伝えられている古道の渡船場で、明治末期まで橋は架かっていなかった。
 対岸の地層が黄色く一様に見えるのは、この上流(飯能大橋)辺りに見受けられた飯能礫層の一部だろうか。炭鉱の傍であるが故に興味深い。
 この古道とか渡船場の話は前回の訪問(5/11)では知らなかった。この先の鉄橋を再度見たくて訪れたときに、橋の袂に掲げられた掲示板(下記)で初めて知ったことである。同じ場所でも、何度でも訪れる意味がこんな処にあるのだ。

大山街道と渡船

 大山信仰は、神奈川県にある大山阿夫利神社の信仰で、本社に大山祗大神(オオヤマツミノカミ)、奥社に大雷神(オオイカツチノカミ)、前社に高龗神(タカオカミノカミ)が祀られており、別名、石尊大権現(セキソンダイゴンゲン)とも呼ばれていた。
 雨乞いの神として地方の信仰を集め、飯能周辺でも、毎年この神社へ豊作祈願のため白衣振鈴の姿で、講中そろって参詣したと云われている。
 この神社へ通ずる道は、鎌倉街道の裏街道になっており、鎌倉街道とも呼ばれていたが、この辺りでは、鎌倉街道と云うより、大山街道の方がなじみが深く、道しるべなどもたいてい大山街道となっている。
 眼下の入間川に、橋が架けられる以前には渡船場があり、船で川を渡っていた。明治45年に橋を架けたが、建設費200円を捻出するため、次の通り通行料を徴集するように記されている。

徒歩 1人 5厘
 但し、3歳以上10歳未満のものは半額
牛 馬  1疋 壱銭
荷牛馬車 1輛 壱銭五厘
人力車  1輛 壱銭

その他荷車、駕籠、自転車などがあって、それぞれ料金が定められていた。 (明治45年には白米1キログラムは17銭9厘だった)

昭和55年3月

埼玉県

(橋のたもとに掲げられていた掲示板より)

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八高線の鉄橋

東京・八王子から群馬・高崎に北上する鉄道は加治丘陵を渉り、この広い川も原っぱも一気に通り過ぎていく。

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2009.5.11 鉛筆・透明水彩

 奥武蔵の急峻な山岳地帯を源流とする名栗川は飯能から入間川と名前を変え、青梅からの支流も集めてゆったりと流れていく。 遠望する加治丘陵に阻まれて、この辺りでは行先を探るように両岸を大きく浸食しながら蛇行して行く。 鉄橋の向こうはかつての渡船場だった「阿岩橋」。

 1952年晩秋の八高線鉄橋 クレパス

 実はこの鉄橋には半世紀にわたる思い入れがある。この近くの小学生だった頃、この川に出て写生をしたのが左の絵で、当時小学4年生。その絵を最後に東京に転校してしまったので、今回同じポイントで見てみたかったのだ。しかしなかなか同じ場所が見つからない。

・・・・・

 家に戻って見比べてみるが納得できず、後日梅雨の合間の晴れ間に、意を決してまた同じ処にきてしまった。そして岸辺の畑で作業中の年配の方と話していくうちに疑問が解けた。 「川がこっちばかりに寄ってくるんで畑が少なくなってしまう・・・」
 なるほど川の流れは一定ではなく、人の思うよりも遥かに早く変化・成長しているのだ。この川幅も広がって、きっと鉄橋も架け替えられたことなのだろうと自分に言い聞かせて、改めて描いたのが下のスケッチである。

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2009.6.6 鉛筆・透明水彩

 

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飯能の造酒屋

 今回のピクニック?の最後に立寄ったのが、入間川の傍らにある造酒屋。ラベルには「天覧山」として、飯能を背負っている清酒である。夕方になってしまい閉店間際に試飲だけはなんとかすべり込み、その後の仕上は街中のチョウチンと相成った。したがって酒屋のスケッチは省略・・・
 この日の歩数、友人の万歩計によると31,567歩であった。


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