川越の町は、江戸の時代から大火との戦いだった
川 越
川越は1457年(長禄元年)太田道真(どうしん)道灌(どうかん)親子により、築城された城下町である。
現在は「小江戸」として脚光を浴びている川越だが、かつて(1970年頃)自転車で東京から度々訪れたこともあり、私にとって親しみのある町である。 その頃の川越街道はそれほど自動車も通っていることもなく、そんなツーリングも可能にしていたのだ。 その頃の想い出も振り返りながら街を歩いてみた。
店蔵が連なる町並み 2006.6.25 鉛筆・透明水彩
川越と云えば蔵造りの街として知られているが明治26年(1893)の大火後にそれぞれ個性のある蔵造りの建物が軒を並べ、それが現在の姿の元である。 以前に訪れたときはその蔵造りの町並みが崩れんばかりの状態で漆喰壁の下地もあらわに、時の鐘の建物も板壁が所々破れていたように記憶している。
しかし今回の散歩で観光を主とした町おこしには、めざましい変化を感じた。
メインになる蔵造りの通りは電柱を撤去し、銘々の路地は独自の舗装を施し、傷んだ建物は往時の姿に戻し、そればかりでなく町中がその姿に合わせるように看板や街路の装置を整えていることである。
時の鐘
寛永年間(1624年〜44年)に建てられたのだが、現在のものは明治の大火翌年(1894)に再建されたものである。
3層構造、高さ約16Mの姿は街のシンボルで、寛永の創建当時から時を告げてきた。そして現在でもそれが生かされていると云うことが素晴らしいところで、町並み保存のお手本である。
足下には半夏生の花が楚々として咲いていたのが印象的だった。
山崎家住宅(亀屋菓子店)
天命3年(1783)創業の小江戸川越を象徴する和菓子の老舗である。 間口4間、奥行き2.5間の蔵造りは 黒漆喰で塗り込められ、袖壁は隣家からの火事にも耐えられる防火目的と、重い屋根からの横力を支えるための耐力壁で、代表的な川越の店蔵である。 以前は和菓子工場が隣設されていて見学させてもらった記憶があるが、現在の町の賑わいにはそんな工場は似合わないということか、見あたらなかった。
大沢家住宅(小松屋履物店)
寛政4年(1792)に建造され、国の重要文化財指定を受けた蔵造りの古い町屋として有名。
明治26年の大火もまぬがれ、川越の店蔵復興の元になったものである。
じつは以前来た頃はまわりの蔵造りに圧倒されて、この古い形式の店はあまり関心を持っていなかった。 今回改めて知った次第である。 ・・というか・・それほど痛んだ建物だったと記憶する。 それがこのように大改修で見違えるようになったことは嬉しいことだ。
(小松屋女主人から伺って分かったこと)
ほとんどの店蔵が黒漆喰註で仕上げてあるが、町の旦那衆の建物へのより凝った仕上にする拘りがそうさせたそうだ。 それに対して大沢家の改修では反骨の精神で白漆喰にしたとのこと。 どちらにしても川越の旦那衆は町の歴史と文化をしっかり見据えた自信がそうさせるのだと思った。
以前見たときは、この黒い町並みは先の大戦のために黒く塗らされたものか?・・と思っていたので、 大外れ! が嬉しかった。
註:黒漆喰は、同じ色合いをだすのが困難で手間のかかる仕事 といわれ、この仕上は「富の象徴」とも云われている。
東照宮 鐘楼門
喜多院の南側に仙波東照宮がある。元和3年(1617)、家康の遺骸を久能山から日光へ運ぶ途中、喜多院で法要が営まれたことにより、後の寛永10年(1633) に建立された。 日光・久能山とともに三大東照宮といわれている。 寛永15年(1638)の大火には喜多院と東照宮は被災したようだが鐘楼門は建立当時のもので重要文化財に指定されている。
桁行三間、梁間二間、楼閣造袴腰付入母屋造で、本瓦葺の屋根を持ち、勾欄を巡らした縁が取り付けられている。 またこの鐘楼に懸けられている銅鐘には元禄15年(1702)の銘があるが、面白いのは門扉上部の天井が円形にくり抜かれ、通路から鐘の内部が見られることである。正面壁の龍、背面壁の鷹がそれぞれ左右に取り付けられて豪華さを付加している。
(この鐘楼門には鳩が寄りつかないという。 一説にはこの鷹の彫り物のリアルさがそうさせたとか・・)
喜多院は天長7年(830)に慈覚大師が無量寿寺を開いたのが始まりで、永仁4年(1296)、尊海が慈恵大師を勧請して無量寿寺を再興し、北院・中院・南院となる各房が建てられた。
慶長17年(1612)、徳川家康の信任を得る天海僧正が住職となってから喜多院となり、東叡山を号し、後に寛永寺が成立するまでの間、関東天台の総本山の位置にあった。 寛永15年(1638)の大火で喜多院、東照宮が消失するや江戸城からかなりの建物が移築され、江戸との関係が深かったことが偲ばれる。 それが今日の「小江戸」と呼ばれる所以であろう。
「北院」を「喜多院」に読み替えた天海僧正は、日光の「二荒山」を「日光山」にしたことといい、現代ならさしずめ名コピーライターというところだろうか。
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