
![]() 群馬県側から見た利根大堰。対岸は都民・県民の飲料水になる取水口。 茨城・北浦はじめに (霞ヶ浦・北浦について)![]() (ここにマウスを乗せると)千年前の地図に変わる 今から千年ほど昔(平将門の時代)は、霞ヶ浦(香澄流海)や北浦(鹿島流海)、印旛沼(印旛浦)、手賀沼(手上海)はつながり、大きな内海(香取海)だったようである。その内海に面して南の「香取神社」・北の「鹿島神宮」が鎮座している様子は下総の国(現千葉県)と常陸の国(現茨城県)の守護神のようにみえるが、この内海は蝦夷との国境という意識があっただろうから「大和の国」の鎮護としたのではなかろうか? なお、延喜式で神宮と称されるのは、伊勢神宮とこの香取神宮と鹿島神宮の三宮だけだとのこと。 さらに以前の関東平野の変遷を知りたい方は (ここにマウスを乗せ固持すると)左図が20万年の関東平野の変遷アニメが表示されます。 徳川家康が江戸入城当時はこの川の流れは現在とは大きく違っていて、利根川は渡良瀬川と併せて南下し江戸湾(東京湾)に注いでいた(現在でも古利根川としてその名残が見られる)。一方、銚子の方へは鬼怒川と小貝川を併せ「常陸川」として太平洋に注いでいた。 この「利根川」は「坂東太郎」の異名を持ち、「筑紫次郎」(筑後川)「四国三郎」(吉野川)と共に三大暴れ川の一つに数えられていた。 江戸幕府は水害対策・新田開発、さらには舟運を開くために承応3年(1654)には「利根川」を「常陸川」に連ねる大工事が行われた。それでも江戸方面の洪水は絶えることはなく、主流を銚子方面に変える河川改良は幾度となく続けられ、昭和初期まで続いた(利根川の東遷)。 平将門の時代を感じる鹿島流海北浦は、茨城県にある霞ヶ浦を構成する湖のひとつで、太平洋沿岸に沿うように南北に長く延びた湖だ。東京から見ると霞ヶ浦の裏側にあるので目立たないが、そのおかげで貴重な自然がいっぱいだった。 ![]() 2012.4.21 湖畔には葦や真菰が群生している。そのため野鳥の楽園となり、バードウォッチングの小屋も用意されていた。遠くには風車も見える・・・それは ![]() 2012.4.21 この風車は風の力で櫓の下にある水車をまわし、北浦に流入する河川の水を湖畔に汲み上げる。湖畔に植えられた葦や真菰は、水質浄化のための立派な植生施設でもあった。 ![]() 2012.4.21 こんな漁港を見ると、北浦も大海に見えてくる。漁師さんは見当たらなかったが、家族連れの釣りマニアが糸を垂らしていた。お目当てを尋ねてみればバスやブルーギルという外来魚だという。 ![]() 2012.4.21 土手には雑草の花々が咲き乱れ、川辺ではなんと白鳥・黒鳥・鴨・・・と云う野鳥が人見知りすることなく餌をあさっている。川辺の植物は杜若に違いない。その開花期にまた訪れたいと思いながら後にした。 Mozilla, Chrome, Opera & I.E. に対応(20150123) 参考文献: 国土交通省関東地方整備局 霞ヶ浦河川事務所HP |
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