
![]() 西武池袋線・高麗駅を下車すると、村の守護神(チャンスン、ジャンスン)が迎えてくれる
高 麗(こま)の 郷 高麗という地域は、秩父山系が武蔵野台地に接する山里にあり、高麗郷として親しまれている。 ![]() 秩父山系から流れてくる高麗川を中心に里山が形成されている 案内リスト 1_石器時代住居跡 7・8世紀頃の埼玉県には、朝鮮半島からの遺民があちこちに住み着いたようで、北部(深谷、熊谷、妻沼等)には幡羅(はら、はたら)郡が、南部(和光、朝霞、志木、新座)には新羅郡が、そして西部(高麗、飯能)には高麗郡が置かれている。その中で昔を偲ばせる地域の名前が残っているのがこの高麗一帯である。 ![]() 朝鮮半島の三国時代(5世紀末) 【「高句麗」について】 (引用:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』) 【「こま」の呼び名について】 高麗の石器時代住居跡約12,000年前の旧石器時代後半のナイフ形石器も出土したという古い歴史がある日高市だが、この住居跡は約4,500年ほど前の縄文時代中期に、高麗川右岸の台地にあるものである。 ![]() 石器住居跡(左上は住居跡平面図) 2009.4.20 鉛筆・透明水彩 この遺跡を見て先ず感じたことは、北西に高麗川を見渡す小高い丘に位置していて、まことに気持ちのいい場所なのだ。(現在は住宅が間近に迫ってはいるが・・・) 【この石器時代住居跡を復元してみました。興味のある方はこちらからどうぞ。】
高札場と水天の碑狭山方面から飯能を経由して秩父方面に向かう道路が飯能狭山バイパスで、西武池袋線「高麗駅」のすぐ側を走っている。そして高麗から先は山間コースとなる。 ![]() 左:高札場 右:水天の碑 2009.8.01 鉛筆・透明水彩 高麗川と平行に走る道は古来から重要な交通路で、高麗丘陵を越えてきた鎌倉裏街道と出会う交通の要衝にこの高札場があり、その近くに水天の碑がある。 この高札場は江戸時代の造りを今に伝えるもので、掲げられていた高札もキリシタンは出入り為らずという主旨のものであった。巾着田にある郷土資料館にはその他の高札が保存されてあったが、いずれも同様のもので当時の村社会を思わせるものである。 水天の碑は 干魃や大洪水などの天災だけでなく、西川材の筏流しによる水難事故を鎮めるために建てられたものである。高麗地域では製材所を見かけないので忘れかけていたが「西川材」の主要な産地であった。江戸の大火の度に需要が増す材木の一大銘柄材で、飯能の入間川と平行に流れる高麗川を利用して江戸の千住に送り続けた、もう一つの重要な生産地であったことを思い出させてくれる貴重な石碑である。 巾着田高台から下っていくとすぐ高麗川にたどり着く。この川は地図で見ると蛇行している様子がよく分かる。この平地の高低差の無さを示すもので、かつてはあちこちに沼も散在していたのだろう。 ![]() 高麗川沿いの雑木林と日和田山から見た巾着田全景(右下) 2009.8.01 鉛筆・透明水彩 高麗川の蛇行が作りだした美事な円が、日和田山からも確認できる。 その川に沿って下ってみた。 高麗川の曼珠沙華 (この項、後日追加)
地球規模で気候変化が進んでいるのだろうか?決してそうだとは思わないが、今年の台 風は先月から立て続けに日本列島を脅かしている。台風を辛うじてやり過ごした日に高麗川の 巾着田まで足を伸ばしてみた。 ![]() 高麗川端に咲きだした曼珠沙華 2016.09.08 鉛筆・水彩 高麗・巾着田のある日高市は、昔から「高麗郷」として親しまれている。朝鮮半島からの遺民が切り開いた地域だが、今年は入植してからちょうど1300年にあたる年だという。それを祝い《ひだか市民文化祭》協賛事業として「日高市絵画連盟展」が催されていた。その帰りに立ち寄ったから当然夕方、低い雲と林の中とあって薄暗い巾着田である。その中をよーく目を凝らすと・・・アスパラガスのようにしてあちこちから立ち上がる直立不動の曼珠沙華。先端にちょっと恥じらう紅さす姿はこの花のもう一つの美しさを発見した。
あいあい橋巾着田の岸辺が終わる辺りは川遊び場で、そこにこの橋が架かる。めずらしい木造トラス橋である。 ![]() 高麗川に架かる「あいあい橋」 右は大きく円を描いて囲まれた巾着田 2009.8.01 鉛筆・透明水彩 この橋は比較的新しいもので、平成8年(1996)に完成したものである。斜材や引張部材には鋼材を使用した、軽快な3連トラスアーチ橋である。デザインコンセプトや構造は下記リンクによると 巾着田は昔ながらの田園風景を今に残す歴史ある場所であるため、「自然・文化・時代との融合」を基本テーマとし、橋全体が自然と共存出来、かつ文化・歴史を意識した橋梁デザイン、材料選択とする。 ・・・とある。 吊り橋のような高い塔が建つことなく、細い部材で透けるようなトラスで、自然に溶け込んだ形が好ましい。特に構造材に木材を選んだことは、この地方はかつての材木生産地であったことを思わせ、頻繁な保守を覚悟してでも採用したことには敬服する。 しかし家に戻って、調べてみてちょっとガッカリした。この材料は九州・小国の材料で完全にこの土地のものとは関係がなかったのだ! 詳しいデータが知りたい方は こちら で公開されています。(PDFデータでちょっと重いです) 聖天院(高麗山聖天院勝楽寺)あいあい橋からさらに徒歩で20分程川を下っていくと、高句麗の遺民が入植したことを示す建物群にであう。 一つはこの「聖天院」であり、直ぐ近くにある「高麗神社」である。 ![]() 守護神(チャンスン、ジャンスン)が護っている寺の全景 と 山門 2009.4.20 鉛筆・透明水彩 表から山門を見ている限りでは日本の風景そのものである。立派な山門が美しい。大きな提灯には「雷門」とある。 この寺の来歴を知っていても、1300年という長い時間が地域一帯の信頼を得て、本寺として大いに興隆した証であろう。 ![]() (拝観券より複写) 朝廷は霊亀2年(716)に高麗人1799人を武蔵国に移して高麗郡を設置して入植させている。その時の郡長が高句麗末期の王子といわれる「若光」(じゃくこう)であった。(移住する経緯はこちらから) ![]() 若光の墓石と若光像 2009.4.20 鉛筆・透明水彩 当時はまだ開発の進んでいなかったこの地で大いに治績を納めて波乱の生涯を終えたのであろう。その冥福を祈るために天平勝宝3年(751)に建てられたものである。 寺名の勝楽寺は侍念僧「勝楽」の開基によることから、聖天院は若光の守護仏聖天尊(歓喜天)を祀ったことによる。 ちなみに開山以来の法相宗は貞和年間(1345-1350)に真言宗に改め、本尊は天正8年(1580)に「不動明王」を勧請して、初期から祀られていた「歓喜天」は別壇に移されている。まさに周辺地域の文化と融合した結果がもたらしたものだろう。 本堂境内に上がると、山から出土したと思われる大きな岩を足場にした舞台と本堂が現れる。平成12年(2000)落成の新しい本堂である。さらに最近になって開発したらしい裏山を誘われるままに入っていくとその場所はなんと!・・・・・別天地があった。 ![]() 韓国風四阿の八角亭 と 在日韓民族無縁仏慰霊塔 2009.4.20 鉛筆・透明水彩 巨大な石塔と、半島の偉人達の石像で囲まれた広場の雰囲気は完全に半島のものである。左手には彼の国の建築様式だとひと目で分かる四阿(あずまや)がある。しかもどれもこれも出来たてのものである。 この一画だけ如何したのだ!! 傍らに立つ説明板を読んでようやく理解した。 この石塔は平成12年(2000)に在日有志の厚意により出来たもので、第二次世界大戦で亡くなられた半島人の無縁供養塔であった。基壇は納骨堂なのだろう。周囲の石像は檀君・広開土大王・太宗武烈王・鄭夢周・王仁博士・申師任堂・・・等と並んでいる。
八角亭脇の説明板より(註・壇紀4332年は西暦1999年にあたる) この書込を読んで一瞬疑ってしまった。この地は日本なのか?・・・と ここまで書き込みながら、あまりにも知らない朝鮮半島と日本との関係を調べてみて、次に進める筆が止まってしまった。最近、NHKのETV特集でシリーズ「日本と朝鮮半島2000年」と題して何度か古代史を放送していたのを再放送でみた。それを見ても感じたことだが、歴史というのはその時代の為政者が都合の良いように改変してしまうという危ういものだということをつくづく感じたからだ。 日韓の歴史観はそれぞれの立場で見方が異なってしまうのだ。 倭の国が世の中で認知される以前から日本と半島との間(海上)を生活の場とする人たちは居たであろう。この海上は島伝いに見透せて、ちょっとの勇気があれば行き来することが出来るのだから同じ生活圏であったはずである。日本から見れば「任那」という植民地が半島にあると言えば、半島人からしたら日本は彼らの植民地ぐらいに考えるかも知れない。なにしろ当時の日本より遥かに高度な文化を持っていたのだから・・・ ![]() 高浜虚子歌碑 寺を去るときに山門前にある高浜虚子の句碑を見つけた。 山寺は 新義真言 ほととぎす 虚子
こんな解釈をしたが如何? (や) 高麗神社高麗移民の氏神で、高麗王「若光」を祀ったと言い伝えられている。 ![]() 2009.4.20 鉛筆・透明水彩 この神社は別名「白鬚神社」ともいわれている。そのわけは高麗王が年老いて白髪白鬚であったからだが、旧高麗郡内にはこの名前の神社がかなりあるようだ。(加治丘陵の中腹にも同名の極小さな祠があったことを思い出す。)ここがその本元の白鬚神社となる。更にはこの村々の中で第一の大宮であったことから「高麗の大宮」ともいわれていたようだ。
(案内板より) 高麗家住宅高麗神社境内の奥に宮司の自邸がある。建物は江戸初期のものだが、移築もされず同じ場所に当時のままの姿である。 ![]() 2009.4.20 鉛筆・透明水彩 当時のままということは略400年の時間が過ぎているわけだが、昭和52年(1977)の解体修理復元という工事のおかげで当時の雰囲気を伝えてくれている。傍らに立つ大木は垂れ桜で、花は終わったばかりの時期ではあったが、新芽の大樹は美事なものである。幹の太さから優に400年を感じる。 【建物に興味のある方はこちらからどうぞ】
(案内板より) 板仏・板石塔婆中世の面影を残すのが、この石で出来た大きな塔婆だ。 ![]() 2009.8.01 鉛筆・透明水彩 日高市内のほぼ中央部を南北にJR八高線が走っているが、それとほぼ平行にあるのがかつての鎌倉街道である。当然現在は自動車が行き交う主要道路となっているが、かつては関東武士団の兵士や軍馬が移動するための重要な軍事道路であった。 高麗の造酒屋暑いさなかのぶらぶら散歩。行きつくところはおいしい飲物である。 ![]() 2009.8.01 鉛筆・透明水彩 途中の農協の市で知った地酒だが、終点をこの酒蔵に決めて暑いさなかを頑張り抜いた。 Mozilla & Chrome に対応(20140908) 参考文献: |
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