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丸の内


 丸の内の江戸城築城時代は東京湾の一部・日比谷入り江。江戸城拡張時に内堀を埋め立て、外側に外堀が築かれたので「丸の内」・・・古い名称だと推測する。

 明治以降、陸軍関連施設を経て三菱に売却、オフィス街として開発が進められる。当時は三菱が原(江戸っ子だったらミツビシガッパラ)と呼ばれる原野で、そこにこの赤煉瓦建物がポツンと一棟。
一丁倫敦(いっちょうろんどん)と呼ばれた赤煉瓦街(1894-1968)の始まりである。

三菱一号館

 東京駅前広場の丸ビルから南に2ブロック(二丁・約100m×2)すすむと突然、ハリー・ポッターが現れるような古風な建物に出会う。

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三菱一号館 2016.05.22 鉛筆・透明水彩

 1900年代初期には「一丁倫敦」として街並みを形成していた。その第一号オフィスビルがこの建物で、そのレプリカがこの建物(2009復元)、現・三菱一号館美術館。

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 2014.12.7 鉛筆・透明水彩

 竣工は明治27年(1894)、日清戦争が始まった年で、設計はイギリスから招聘されたジョサイア・コンドル。工部大学校(現・東大、建築学科)で教鞭を執り、東京駅の設計者、辰野金吾ら、創成期の日本人建築家を育成している。

参考:明治42年(1909)頃の「一丁倫敦」風景(出典:wikipedia)

明治生命館

煉瓦の建物(三菱一号館)と一つ建物を隔てたところにこの建物が建つ。

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明治生命館 2016.05.22 鉛筆・透明水彩

18世紀のクイーン・アン様式の煉瓦建物から19世紀に盛んに持て囃された新古典主義の建物に様変わりだ。この丸の内だけで色々な建物巡りが出来るのが楽しい。

日本工業倶楽部
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正面ファサード 2012.10.18

 この建物も大正期に建設され、最近修復された幸せな建物。建設当時はアールデコのデザインが脚光を浴びている時代。我が国も古いデザインからの脱却を計る時代であった。
 背後のガラス張りオフィス(隣接地)との一体開発で、容積率の権利を修復費に当てた 東京駅・中央郵便局と同じように、丸の内地区だからの手法で可能にしたのだろうか。

丸の内界隈の昔からの建物を竣工順に挙げてみると
   ●1894年(M27)の三菱一号館、
   ●1914年(T3)の東京駅、
   ●1920年(T9)の日本工業倶楽部会館、
   ●1933年(S8)の東京中央郵便局、
   ●1934年(S9)の明治生命館。
この無節操な様式乱立は西洋文化を吸収する時代の為せる事? 軍靴の響きを予感する時代の重厚な明治生命館に対してなんと清々しい東京中央郵便局! そんなことを思ってしまう丸の内だ。

 東京駅は新橋駅から山手線延長で出来た建物。大正3年(1914)の竣工だから、たった20年で鉄道開通。当時の高度成長ぶりが目に見えるようだ。「一丁倫敦」は諸般の事情?で取り壊された(1968-2006)が、平成22年(2010)には一号館だけが復元された。三菱地所の再開発では、東京駅前広場前に復元するという選択はなかったのだろうか? そうすれば異次元建物の相乗効果は良い意味で成功したと思われるが・・・如何なものだろう。


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