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190519

中山道_1 (軽井沢宿を中心として)



 夏の暑い時期、暫くスケッチはお休みをして涼しい場所をほんのちょっと歩いてきました(^_^)

中山道は江戸時代の五街道の一つ、東海道より宿場は16個所多い69次道。現代では避暑地として賑わう「軽井沢」は江戸の最初の宿「板橋」から数えて18番目の宿。さらに「沓掛」(現・中軽井沢)、「追分」と続く3宿は難所・碓氷峠を控えた「浅間三宿」として栄えたという。しかしいまの三宿にはその面影はほとんどない。

追分宿

 中山道六十九次のうち江戸から数えて二十番目の宿場。
かつての本陣・脇本陣の名前は残っているものの建物は残って居らず、避暑地「軽井沢」の延長として綺麗に舗装だれた観光地となっている。

茶屋つがるや

「追分宿」の西端、旧道が国道18号線に合流する位置に只一軒、当時の茶屋が残っていた!

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茶屋つがるや 2017.08.05 鉛筆・透明水彩

 どの宿場も建物が集約された場所だから一種の城塞の形を成してる。そのため宿場の出入口は宿場の警備・荷物の集積等の役割もあったのだろう、外部から直進できないようにクランク状に通路が設けられ、結果的に多少の広場が形成される。その形から「枡形」とよばれるものが城下町と同じように設けられる。
 この場所もそんな「枡形」があったらしい・・・辛うじてそれを伝えるのが、この茶屋の看板!

史跡追分枡形の茶屋

 寛永12年徳川家光の代、諸大名の参勤交代の制度が実施され、ここを往来する諸侯のため、宿内には問屋、本陣、脇本陣を設置し、宿の西入口、この辺に枡形の道と土手(高さ約2.5メートル)を築いて宿内の警備取り締まりをした。
 今、その面影を見ることは出来ないが当時枡形の地域にあって茶屋つがるや(枡形の茶屋)の建築にその昔を偲ぶことが出来る。

軽井沢町教育委員会
軽井沢町文化財審議委員会
(説明板より)

「茶屋つがるや」の正面図
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茶屋つがるや 正面図 2017.08.05 鉛筆・透明水彩

 いかがですか!建物の二階外壁に二間に渡る見事な鏝絵。建物の一階部分は現代のアルミサッシに換わられているが二階部分は当時の雰囲気を伝える。特に二階建の階高に注目!江戸時代の建物は街道筋に二階建の建物で街道を見下ろすことはタブーで庶民の建物は屋根裏といっていたのだ。そのためギリギリの高さに抑えて二階建を誤魔化す努力。
二間に及ぶ鏝絵の壁は宿場町の最初に晒される建物の角で看板としては最適の場所。しかし誇大妄想よろしく述べれば、一階部分の構成は左側三間は土間。中には大きな囲炉裏が中央に設置。標高一千メートル近く(982m)にもなる当地の寒さは裸火が必須、防火の目的からも外壁部分は内外仕上共漆喰壁は最適。しかし当時の煙出しは吹抜がなくなった時点で囲炉裏は消滅・・・そんな空想をしながら中山道の旧道に拘って歩いてみることにした。

 追分を後に国道18号に沿って歩いてみると程なく「中山道」から「北国街道」が始まる分岐点に差し掛かる。

分去れの道標(わかされのみちしるべ)
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分去れの道標 2017.08.05 鉛筆・透明水彩

 この常夜灯のある三角地が「分去れの道標」と云うそうで、いろんな石が立っている。手前の石には「道祖神」なる文字が・・・その後ろの石碑正面には「東 二世安楽 ・・・」どんな意味?
右側面には「従是北国街道」左側面には「従是中山道」とあり、奥に鎮座している観音様がこれからの旅の安全を祈っているようにも見える。

分去れの道標(わかされのみちしるべ)

[右、従是北国海道 左、従是中仙道]

 中山道と北国街道分岐点に位置する「分去れ」は、今も賑わったありし日の面影をとどめている。
 右は北国街道姨捨山の「田毎の月」で知られる更科へ。左は中山道で京都へ、そこから桜の名所奈良吉野山へ向かうという意味である。

軽井沢町教育委員会
軽井沢町文化財審議委員会
(説明板より)

中山道(旧道)は国道18号を跨いで反対側から次の宿場へと続く・・・

小田井宿

 「追分」から旧道に入ったこの道が至って快適!高木の木洩れ日を受け、爽やかな風に背を押されるように歩が進む。たまに行き交う自動車が道を訪ねる不思議さ。ちらほら見える別荘らしき小屋が垣間見られる森の中の下るだけの舗装道路が延々と続く。
 あまりに順調で、途中の楽しみにしていた「一里塚」を見逃してしまった!

宿場手前のある民家

 この宿場間は約五キロ程だが、さすが疲れてきた頃に宿場の気配・・・そんな町の取っ掛かり民家にであった。

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養蚕農家? 2017.08.05 鉛筆・透明水彩

 総二階建の民家で屋根には桁行き五間にも渡る越屋根がある。この形態は明治時代の養蚕産業を支えた蚕を飼育する民家の形である。妙義山の向こうには「富岡」があるのだから、それを支える産業はここまでも広まっていたと云うことだ。

小田井の旅籠

 五キロほどの行程で標高が200メートルほど下る。標高に反比例して気温は上がるのを実感、足取りも重くなる。そうしてなんとか辿り着いた「小田井宿」は大変整った町並である。町全体が浅間の麓だから南に傾斜していて、脇の水路が気持ちいいくらい速く流れている。しかし観光地化していないからお休み処なんて用意されていない。かろうじて道端の小屋を見つけた!バス停留所である。数時間に一本という貴重なバスの時刻表は後数分で来ることを発見!この歩きもここまでにして最寄り駅(信濃電鉄・御代田駅)に直行することを決めた・・・のだが・・・なかなか来ない。よく見れば土・日は運休。万事休す。そうなればと、ここで椅子を取り出し本格スケッチに切り替えた。

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バス停からの小田井宿 2017.08.05 鉛筆・透明水彩

 道を挟んだ左右の建物は旅籠屋の典型例。駒返しの見事な格子をおもて面に巡らした見世と大戸の取り合わせ。二階にも出窓を広く取った部屋は宿泊場所。さらに覗き窓は布団部屋?ここから殿様行列も見物するのだろうか?

本陣跡
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小田井宿・本陣跡 2017.08.05 鉛筆・透明水彩

 「小田井宿」で忘れてならないことが一つ。この街道は参勤交代で殿様行列が通った道。しかし隣の「追分」「沓掛」「軽井沢」ほどの知名度はないが、大名ではなくお姫様の宿泊がこの「小田井」だったという。今風で云えば「女子会御用達」。徳川に輿入れした和宮もこの宿場町にお泊まり〜ぃ!
 そんなVIPの宿泊提供が「本陣」「脇本陣」であり、この建物もその役目を果たしてきた。

中山道小田井宿・本陣跡(安川家住宅)


 安川家は江戸時代を通じて中山道小田井宿の本陣を務めてきた。現在その本陣の客室部を良好に残している。
 客室部は切妻造でその式台・広間・三の間・二の間・上段の間・入側などは原形をよく留めており、安川家文書で宝暦六年(江戸時代1756年)に大規模改築が行われたと記されていることから、その際の建築と考えられる(長野県史編纂時の調査による)。また湯殿と厠は、幕末の文久元年(1861年)の和宮降嫁の際に修築されたものであろう。 厠は、大用所・小用所ともに二畳の畳敷きとなっている。

昭和53年6月1日

御代田町教育委員会
(説明板による)


 残念ながら内部は非公開のようで、道に表示された情報だけで内部を窺い知ることが出来ない。

旅籠のあれこれ

当時の姿を偲ばせる旅籠屋のいくつかが保存状態よろしく保たれているので、それを正面図で纏めてみた。

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小田井宿 2017.08.05 鉛筆・透明水彩

 どの旅籠屋も街道ぎわに建てられていて、二階は道路側に張り出した形(船竭「り)をしている。

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小田井宿 2017.08.05 鉛筆・透明水彩

 一階部分は時代の変遷で使用方法が変化しているから、残された形からもとの建物を推測するのは難しい。しかし二階部分は階高の低さが幸いして他の転用が余り成されていないようで当時の姿と想像する。
 そうして屋根に注目したい。現在は瓦葺が当たり前のように使われているが当時の旅籠屋でそんな材料が簡単に入手できるとは思えない。況んや鉄板葺きも不可能だろう。そこで「問屋跡」が鉄板葺き建物なので、檜皮葺に置き石をして押さえた屋根にしてみた。それが次の図。

 
勝手に葺き替えた「問屋跡」
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当時の姿を想像した立面図 2017.08.05 鉛筆・透明水彩

 当時の姿の勝手な復元は、問屋と云うことから運搬手段としての現自家用車車庫を馬小屋に、薪置き場を兼ねた場所とする。入口は大戸だろうがそれには手を加えず、内部の大きな土間にやはり大きな囲炉裏を想像、そのための大きな吹抜と煙出しを付け加えている。

石仏のいろいろ

朝から一日中、大いにきまぐれ散歩を楽しんだ。そろそろ引き揚げようと街道の裏を歩いてみたら思わぬ石仏郡に遭遇。

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小田井宿 2017.08.05 鉛筆・透明水彩

 醸造業の家だろうか?黒塀の角地に沢山の石仏が並べられていて、季節の花が自生している。石塔・石仏にはしめ縄が付けられ、交通安全を願っているのだろうか?




参考文献:
 


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