街道と並行してJRの青梅線が走っているが、青梅を過ぎると急に山も迫り、多摩川に沿って深い谷を走る単線となり、列車の本数も少なくなる。駅舎も無人駅が沢山あると聞く。
その青梅から一つ先の「宮の平」(やはり無人駅だった)から、青梅丘陵を歩いてみた。
矢倉台からの展望
青梅丘陵は武蔵野台地に迫った丘陵地で、見晴らしの良い「矢倉台」が目指すポイントである。
矢倉台からの眺め。中央部に何やら不釣り合いな建物が・・・・ 2008.12.21 鉛筆・透明水彩
矢倉台とは、かつて多摩川上流域にまで支配が及んだ勝沼城主・三田綱秀によって青梅丘陵に築かれた辛垣城(からかいじょう)の物見櫓のことで、戦略上重要な物見の場所だったところである。
「雨上がりの日には遠く筑波山も確認できる」とは常連の登山者の話だが、そこまでは確認できなくても、多摩川を眼下にして対岸の多摩丘陵とそれに連なる関東平野の地形は一目瞭然だ。都心からさほど遠くないこの場所でこれだけの自然を満喫できる手軽さは貴重なものだ。
しばらく景色に見とれていたが・・・自然いっぱいの多摩川流域に何やらネオルネッサンス風の建物が気になる。市街地の建物が賑わしいのは見慣れているが、なんとも緑いっぱいの環境にはあまりにも似合わない景色である。あれは一体何だろう・・・・?
辛垣城(からかいじょう)
三田氏により築かれた山城。上杉謙信の関東侵攻後、後北条氏(ごほうじょうし)を離れ上杉方に付いた三田氏がその峻険な地形を頼んで拠り、名族三田氏の終焉の地となった。
【歴史・沿革】
永禄年間初期、三田綱秀によって築かれた。
永禄3年(1560年)の上杉謙信関東出兵後、城主の綱秀は後北条氏を離れ上杉方に付いた。
永禄4年(1561年)の上杉氏撤兵後、後北条氏と対立した綱秀が勝沼城から居を移した。
永禄6年(1563年)、北条氏照に攻められ落城した。
雷電山から延びる尾根上に聳える、独立性の高い円錐形様の辛垣山山頂付近に郭を重ねる。北方を除く三方の尾根上には郭が認められ、特に南に延びる尾根上には馬洗い場と呼ばれる比較的大きな郭が設けられている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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釜の淵公園 と 鮎美橋
地図を見ると多摩川が巨大な岩盤にでも突き当たったところなのだろうか?大きく迂回している場所がある。この辺りは、かつて川の水量が今よりも多かった頃、形がお釜のようで深かったことから「釜の淵」と呼ばれたそうだ。この半島状の部分が公園として利用されているが、青梅駅方面からは二つの橋(柳淵(りゅうえん)橋と鮎美(あゆみ)橋)から入ることになる。
鮎美橋と対岸の釜の淵公園 後ろに見えるのが「かんぽの宿」 2008.12.21 鉛筆・透明水彩
矢倉台で見つけた不思議な建物に導かれるようにたどり着いた場所がこの川端で、対岸が「釜の淵公園」だ。このきれいな斜張橋を渡ると青梅市郷土資料館があり、傍らには市の重要文化財にもなっている目的の民家がある。そしてここまでたどり着いて気がついた。街中からあれほど目につくあのグロテスクな建物はここまで来て始めて気にならないようになっていたのだ!
駅までの帰り道に迷い、尋ね次いでに問題の建物の評判を聞いてみた。その答には驚かされた。
意外にも 「好評ですよ。特に造りかえてからは・・・」 とのこと。
よそ者が無責任な批評をすることは差し控えなければいけないと反省させられた。
帰宅後この建物が気になって調べてみたら、その後に世間を賑わせている「かんぽの宿」であった。尋ねた人は帰宅途中なので親切にも駅まで同行してくれたのか?・・・と云うことは関係者だったのか! と今は理解している。 そうだろう、この建物が目に入らない唯一の場所、美しい多摩川を独占して満喫できる宿なのである。 宿の案内によると、最上階が浴室で評判がよいとのこと。今度近くに行ったら、タオルを持って寄ってみようか・・・・・。
この宿はご存知の通り郵政簡易保険の福祉施設で、法律で義務づけられた一業務であり、利益・利潤を第一目標としていない施設である。それが世の中「民営化」の名の下に民間施設の秤に乗せられて売却されると云う。この公園にネオンサインの輝くのも間もなくと危惧するがどうなってしまうのだろう。 最後に、この施設は現状でも充分に黒字とのことであることをこの宿の名誉のためにも付け加えておく。 それにしてもこの公園にピタッと寄り添うように建つだけでなく、林の樹形から遥かに高くもたげて建つ姿は、自然をぶちこわしにして犯罪ものだ!
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旧宮崎家住宅
橋を渡ると民家に導かれる。これが国指定重要文化財の「旧宮崎家住宅」だ。
2008.12.21 鉛筆・透明水彩
この住宅は、江戸城修復の石灰生産で有名な成木・小曽木地区に建っていた民家を移築・復元したものである。北小曽木村字夕倉(現・青梅市成木8丁目)というから、辛垣城があったという雷電山の北山麓というかなり奥まった集落のようだ。

主屋 平面図
この平面は、全国的に広まっている民家の四間型に発展する以前の三間型(広間型)の古い形式である。 石灰生産には多数の人手が必要となる。当然、人の出入りは多くなると思われる。その点で判断するとこの建物は、ごく一般的な農業に従事していた山間の民家だったのだろうか。
特に注目したいのは南面の柱間開口部である。敷居の溝が3本用意されていて、引違の板戸と片引きの明り障子が建て込まれている。すなわち明り取りとしては半スパンだけ有効なので採光面積が少ない。外側の板戸は雨戸としての機能を持たせたもので、戸袋が一般的に備わる以前のものだと知った。
また屋根葺きに特徴がある。通常の茅葺屋根は名前が示すとおり茅で葺かれるが、この奥多摩や青梅の地方では茅と杉皮を段を違えて混ぜて葺くのだという。これを「まぜぶき」または縞模様になることから「とらぶき」というそうだ。 この山地ならではの材料の選択と工法により型くずれしにくいものと思われるが水はけの面ではどうなのだろうか。移築完成が昭和54年(1979)で、はや30年経過しているわけだが苔や草で覆われた屋根になっていて傷みが早いのかと気にかかっていた。 しかしこれは移築された場所が河原に面した北向きの敷地であり、更に南の高台は杉林で、陽の当たらない場所である。建物も生き物で環境の良い場所が必要なのではないのだろうか。因みに南の高台にある防御壁のようにそそりたつ建物が「かんぽの宿」である。建てる場所が逆であろう!と思ってしまうのだがいかがなものか。
隣りには市内で発掘された石器や土器などを展示している青梅市郷土博物館がある。
(参考:青梅市教育委員会編「文化財住宅のしおり」)
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旧稲葉家住宅
青梅は近郷から材木・薪炭・織物等が集められ、江戸に向かって運ばれる集散地で、問屋や仲買商の建物が立ち並び、月に6回も市が立つ程賑わった町であったという。その中で町年寄を勤めた家が「稲葉家」で、材木商を営むかたわら青梅縞などの仲買問屋を行っていた。更には江戸に支店も構えるほどの青梅でも有数の豪商だったそうである。その建物が青梅市に寄贈され、公開されている。
2008.12.21 鉛筆・透明水彩
江戸後期建築の代表的な土蔵造りで、街道に面した間口が狭く奥行きがある造りである。
見世前面は格子戸が建て込まれているが、火事の時には防火戸(土戸)が建て込まれれ、両側の袖壁はその防火戸を納める戸袋である。2階の窓も防火のための土戸が引き込まれる。
屋根は立派な置き屋根だが、以前は杉皮葺きだったそうだ。(現在は鉄板葺き) 屋根も含めて建物全体を漆喰で塗り込め、そのうえに載せた屋根が「置き屋根」で、日照の影響も受けない防火建築となっている。
2008.12.21 鉛筆・透明水彩
間口いっぱいを土間とした「前土間形式」がよくわかる。建物内は外部と違って木造・板張りで出来ている。そのほうが商品のためにはよいのだろう。2階も見せてもらったがその仕上の徹底ぶりが窺えた。しかしこの仕上げも店蔵だけで、すぐ後ろに控えている主屋との境には金庫扉のような観音開きの土戸で遮蔽され、まさに店蔵部分だけが完全に防火建物となっていた。主屋から見た店蔵は黒漆喰の底光りする美事な店蔵ということが印象的であった。
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青梅街道の街並み
街のあちこちには蔵造りの建物が大事に伝えられている。
店蔵-1
2008.12.21 鉛筆・透明水彩
何のお店か確認しなかったが、左右の蔵を配した見世となっている。
店蔵-2
2008.12.21 鉛筆・透明水彩
この建物はもともと一つの建物(見世)だったのだろうが、真ん中を取り外して駐車スペースにしている。
店蔵-3、-4
2008.12.21 鉛筆・透明水彩
右の建物は1階袖壁、2階窓の扉、屋根と完全武装の店蔵だったことがよくわかる。それを美事に住宅に利用している。
左の建物も店蔵を住宅転用の例で、採光を十分に取るための改装がなされている。
店蔵-5
2008.12.21 油性鉛筆・透明水彩
この住宅は蔵を住まいに利用するための工夫が随所に見られる。窓の形も構造の意のままにつくっているのが面白い。
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Mozilla, Chrome, Opera & I.E. に対応(20150123)

