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佐倉城址 今は公園と歴史民族博物館として市民に愛されている 2007.03.18. Photo & Arr. CG

 西の小田原、 北の川越などと共に 江戸防御の要衝として徳川譜代の有力大名が封ぜられてきた佐倉藩十一万石の城下町。 明治になってからは、旧佐倉城内に陸軍第一軍管東京鎮台の佐倉営所・陸軍歩兵連隊(第五十七連隊)が設置された。
その城址も戦後には市民の憩いの場「城址公園」となり、傍らには「国立歴史民俗博物館」が建てられている。

佐倉藩十一万石の城下町


 江戸時代から文武芸術を奨励して栄えた佐倉藩十一万石の城下町は、印旛沼を望む小高い丘に城を構え、その丘陵を縫うように通る成田街道に沿って、かつての商家が今も数多く残されている。

三谷家住宅
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2007.3.18 三谷家住宅 鉛筆・透明水彩

 旧街道沿いに建つ商家の中でひときわ立派なこの建物は江戸時代からの呉服太物を扱う老舗とのことで、趣味の良さを商いにするということで納得させられたのが塗り壁の色だ。 1階外壁の 臙脂色 とも 蘇芳色 とも写る大胆な色彩に、2階の 鳥の子色 ・・・ 周りの黒塀によく映えてなんとも粋でいなせな雰囲気だ。 左手の黒い板塀についた出窓は、武家屋敷でも多く見られる「武者窓」「虫籠窓」とも呼ばれるのぞき窓だが、ここでは電力計の収納盤として利用していた。

(おもての表示板より引用)

佐倉市登録有形文化財
三谷家住宅 (Mitanike Juutaku)

登録年月日 平成13年5月16日
主   屋 木造、一部2階建
袖   蔵 木造、2階建
座 敷 屋 木造、2階建

 袖蔵は明治17年に建てられたことが棟札より確認され、主屋もその頃には建っていたと考えられる。また、座敷屋は昭和10年位頃に建てられている。
いずれも近代の佐倉における有力商家にふさわしく造形的に優れた建物であり、出桁造の主屋と並んで袖蔵が建つ当時の商家の構えをよく残している。
佐倉の伝統的な商家として貴重な建物である。
内部は非公開です。

佐倉市教育委員会

手づくり工房さくら
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2007.3.18 手づくり工房さくら 鉛筆・透明水彩

 どこの旧市街地でも同じ問題を抱えているのだが、ここ佐倉でも旧商家の維持管理は大変なようで、歯が抜けたように一つ減り二つ減り・・という状況が続いているとのこと。 そして、この建物は築120年とも云われているものなのだが家主は同じ事で手をこまねいていた。
 そこに旧城下町地区を対象とした中心市街地活性化事業の「空き店舗活用事業」に該当するとしてこの建物は選ばれ、ボランティアスタッフが企画・運営に携わり、観光に訪れた方々への休憩・喫茶、メンバー手づくりの物産展示販売、そして何よりも素晴らしい事は、市民の自己啓発・交流の場(サロン)として各種イベントが催されて大活躍なのである。 まさに市民の寺子屋としてこれからも愛されていくのだろう。
日本全国あちこちで見られる町並みの保存に、貴重なヒントを見た思いをした。

参考リンク:「手づくり工房さくら」

佐倉市立美術館

 この美術館は平成6年(1994)に開館した比較的新しい美術館(設計:坂倉建築研究所大阪事務所)だが、エントランスホールは大正7年(1918)に建てられた煉瓦造りの歴史的建造物(千葉県指定有形文化財)をそっくり利用した建物なのである。 ここでは敢えてこの古い建物を取り上げてみたい。

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2007.3.18 佐倉市立美術館 鉛筆・透明水彩
右側の赤い建物が「旧川崎銀行佐倉支店」

 この歴史的建物の始まりは大正7年(1918)からの「旧川崎銀行佐倉支店」で、それから昭和12年(1937)には佐倉町役場に、昭和29年(1954)の市政の施行に伴い佐倉市役所に、そして佐倉市立公民館(1971-76)、佐倉市立図書館(1976-83)、佐倉新町資料館(1986-92)として利用され、さらに平成6年から現在の美術館のエントランスホールとして美術館に併設され、フルに利用されて来た。もちろん内部は改装が繰り返され往時の面影は見られないが、外部についてはバロック風の装飾を伴ったルネッサンス様式とも呼べるような往時の雰囲気を今に伝え、魅力的なランドマークとなって市民に愛されている。 竣工から90年程生きてきた建物だが、歴史ある収蔵品を納める美術館を温かく見守っているようだ。

設計は矢部又吉(1888-1941)

 同じ設計者の建物として、これと同じ双子の建物が「川崎銀行佐原支店」(大正7年竣工)として残っている。
その他に千葉県内には、昭和2年竣工の「旧川崎銀行千葉支店」を千葉市中央区役所のロビーとして保存されている。 (佐倉市立美術館にて聴き取り)

 なお、郷土出身の画家として留めておきたい洋画家・浅井忠(1856〜1907)がいる。
明治初期から洋画の追及研鑽を重ねていた人物だ。恩師フォンタネージの影響を受けて、浅井を中心としたグループは日本の風景画創造の運動を興し、日本のバルビゾン派を標榜した。 アメリカから来日(1878)したフェノロサと岡倉による古美術保護と新美術創造の運動により一時期、洋画界にとっては日の目を見ない時代もあったようだが、黒田清輝らと並んで明治黎明期の洋画壇を牽引したことでも忘れられない画家だ。 この美術館にも多々作品が収蔵されているようだが、建物の狭さから常設展示はされていなかったのがちょっと残念なことであった。


 実は今回の佐倉に来る目的はこの時の美術館の催しにあった。

題して、 没後80年「森谷延雄展」 

 ロマンあふれる大正時代を彗星のように現れ、イメージ豊かな家具・インテリアを発表し、たったの33才という若さでその生涯を終えたデザイナーだ。

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「朱の食堂」の肘掛け椅子

 展示場内は撮影禁止とのことで盗むようにメモ程度にスケッチをしてきた。 当然鉛筆だけが許される範囲なので帰宅後の着色である。 そのいくつかを載せてみる。

 

 多分、森谷延雄の代表作と思われるのがこの椅子で、今風に表現すれば「かわゆ〜ぃ」とでも云うのだろうか・・・・いやいや、堂々とした風格と若きデザイナーの夢を託したと思わせる楽しい椅子は、その展示コーナーの華となって存在感を示していた。
 この椅子を発表した大正14年(1925)はまさにあのアールデコのパリ万国装飾美術博覧会が開催された年で、その時代の楽しさを伝えてくれる。

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聖シオン会堂(蔵田周忠設計)会衆席

 聖シオン会堂は 現・日本聖公会ミカエル教会(東京・渋谷)として1966年に建て替えのため取り壊されて現存しない。
蔵田 周忠(くらた ちかただ 1895-1966)は過去のデザイン様式から分離するという日本初の建築デザイン運動「分離派」で活躍した建築家である。
家具のデザインにあたっては東京高等工芸学校教授の森谷延男の指導を仰いだと建物についての解説でも語られている。
 製作年代:大正15年(1926)

 教会の禁欲的な雰囲気の中に、グラスゴー派のマッキントッシュを思わせるデザインと装飾性を感じるのは森谷のロマンティシズムからだろうか。

参照:聖シオン会堂

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松岡寿邸のためのベンチ

 松岡 寿(まつおか ひさし 1862-1944)は佐倉出身の画家・浅井忠とも親交があり、浅井を中心とする日本の風景画を創造する運動メンバーの一人である。
松岡は明治39年(1906)には東京高等工業学校(現・東京工大)の教授になっているので、森谷の在学中は師弟という関係であった。 さらに大正4年(1914)には東京美術学校(現東京芸大)教授に、そして大正10年(1921)には東京高等工芸学校(現・千葉大工学部)の初代校長として赴任し、翌年東京高等工芸学校教授として着任してきた森谷とは深い絆があったということだろう。 そんな恩師の私邸に置かれる小さなかわいい収納ベンチである。(大正13年製作)
(内部は二段になっているとのこと)
摘み金物がなんとも素朴で魅力的だ


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