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 園内に踏みこんだ最初の風景。苑路の左側は昔から公開されていた外苑で、右側は個人専用の内苑。

三溪園(さんけいえん)


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本牧の鼻という名の岬

 外洋から船で浦賀水道を通過して東京湾に入ってくると、横浜港を覆い隠しているような岬が目につくはずである。この岬の断崖は船にとっては格好の目標であり、戦国時代には北条水軍の拠点が置かれていたところとも聞く。海に突き出した形から本牧の鼻と呼ばれた岬だが、現在のその海岸は広く埋め立てられて工場や埠頭となって、首都高速湾岸線が辛うじてかつての海岸線を偲ばせる。その海を見渡せる岬の突端部に庭園「三溪園」がある。

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湾岸線辺りがかつての岸辺
庭園が開発を阻止している

 この庭園は18ヘクタールという広大な土地ということで先ず驚かされるが、それにもまして一個人の趣味が高じて成されたものと知り、その人物にも興味が持たれる。 文明開化で開港した横浜は絹交易で知られたところであるが、その絹の貿易で富を築いた原 富三郎(号・三渓)がその人で、美術品の収集家としても、また多くの芸術家を援助したことでも知られている。そして茶人としての拘りからだろうか、全国の古い建物を移築して造り上げたのがこの「三溪園」というわけである。 通常の建物内部は非公開であるが、 この夏('09/8/1〜16)一挙公開 とのニュースを知り、訪れてみた。

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広大な苑内を貫く苑路を境界にして外苑と内苑とに分けられている
(マークにマウスONで説明&ジャンプ)

鶴翔閣 原家の旧宅。 三溪記念館 三溪の業績やゆかりの美術品を紹介、呈茶処、ミュージアムショップ 御門 京都東山の西方寺にあった薬医門、ここからが「内苑」となる 白雲邸 三溪の隠居所として建てられた数寄屋風建築 臨春閣 紀州徳川家初代・頼宣が建てた別荘建築 月華殿 徳川家康時代の京都伏見城内にあった、諸大名控え所に使われた建物。三溪作の一畳台目茶室も付け加えられている。(金毛窟) 天授院 鎌倉心平寺跡にあった禅宗様の地蔵堂 聴秋閣 京都二条城にあった徳川家光・春日局ゆかりの楼閣建築 春草廬 織田信長の弟・有楽斎の作と伝わる三畳台目の茶室 旧天瑞寺寿塔覆堂 豊臣秀吉が京都大徳寺内に母の長寿を祝って建てた寿塔の覆堂 蓮華院 三溪作の田舎家風の茶室 旧燈明寺三重塔 聖武天皇の勅願寺・京都燈明寺にあった建物 松風閣 関東大震災で焼失したが海を見渡す絶景ポイント 林洞庵 宗偏流林洞会寄贈の茶室 初音茶屋  旧東慶寺仏殿 鎌倉東慶寺にあった禅宗様の建物 旧矢箆原家住宅 岐阜白川郷にあった江戸時代の合掌造り住宅 横笛庵 田舎家風草庵 待春軒 旧燈明寺本堂 三重塔と同じ京都燈明寺からの移築建物

<案内リスト>

01_
鶴翔閣【市文】
02_三渓記念館

  以下  内 苑 

03_御 門【市文】
04_白雲邸【市文】
05_臨春閣【重文】
06_月華殿【重文】
07_天授院【重文】
08_聴秋閣【重文】
09_春草廬【重文】
10_旧天瑞寺寿塔覆堂【重文】
11_蓮華院

  以下  外 苑 

12_旧燈明寺三重塔【重文】
13_松風閣
14_林洞庵
15_初音茶屋
16_旧東慶寺仏殿【重文】
17_旧矢箆原家住宅【重文】
18_横笛庵
19_待春軒
20_旧燈明寺本堂屋【重文】)

註 【重文】:国指定重要文化財 【市文】:横浜市指定有形文化財 

 この三溪園の歴史は三溪(富太郎)の先々代「原善三郎」がこの一帯の土地を慶応4年(1868)に購入し、明治20年(1887)に三溪園の南端に山荘「松風閣」(上図:13)を建てたことから始まる。
 本格的な造園は三溪の代になってからで、明治35年(1902)に原家本宅「鶴翔閣」を建築し、明治39年(1906)には現在の外苑部分を無料開放している。
その後の大正期には本格的に古建築の収集が始まりほぼ現在のかたちに造られたが、当然関東大震災や先の大戦による焼失を受けている。
 戦後に原家から庭園の大部分を横浜市に委譲して復旧工事が行われ、外苑だけでなく内苑も含めて公開されることとなった。その後数々の建物が追加移築され、日本庭園であるだけでなく17棟もの歴史的建造物が点在する様はまさに建物博物館といったところだろうか。(三溪園の歴史はこちらからどうぞ)


鶴翔閣(かくしょうかく)

正門から広大な苑に一歩踏み込むと正面遠方にひときわ巨大な茅葺の建物が目につく。
それがこの建物で原家の旧宅である。【横浜市指定有形文化財】

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大きな車寄せの茅葺屋根 2009.8.13 インクペン・透明水彩

 遠くからは入母屋造りの大きな屋根が目につくが、近づいていくうちに高台に構えるだけでなく異常なほどの軒高をとった建物ということもあって威圧感を感じる。これが個人の住宅だろうか?

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(パンフレットから引用・CG処理)

 この鶴翔閣は居住用の棟のほかに来客用など様々な機能の棟から構成されていて、この豪商の生活の一端を垣間見ることができる。 室内は至って簡素な造りであるが、壁には大きな絵を飾り、テーブル・椅子という生活が基になって天井の高さを必要としていたのだ。
 平面配置をみると雁行する建物の中央部に楽室棟があるが、襖を取り払うことにより80畳にはなろうかという畳空間が出現する。 接客に使われたであろう広間も含めると、いかに私邸であっても営業的意味合いの強い建物であるということがわかる。私的空間はその奥に連なってはいるが、毎日の食事を想像すると配膳は来客には便利でも、とても家人の使用を考慮しているとは思えない。しかしこれも多数の使用人がいるから成り立つ生活なのだろう。そして三溪が籠もったという書斎はさらに奥の一段高いところにあり、苑内の池や山を一望できるところであった。(現在は木々が生長してちょっと難しいが)
 かつては書画骨董が収納されていたといわれる蔵と仏間を通り抜けた奥には客間棟が用意されている。リゾート地の開放的な旅館の佇まいである。ここは援助していた画家たちの宿泊や制作の場として利用されたそうだ。立派な水屋が用意されていたのが印象的であった。

 三溪が絵画をはじめとする美術品に深い造詣を持ち、芸術家の育成に当たったことはよく知られていますが、彼と親交のある多くに美術家、文学者、学者らがこの鶴翔閣を訪れています。特に岡倉天心の要請により支援した日本美術院の画家たち横山大観、下村観山、前田青邨ら「三溪園グループ」の存在は有名です。これら三溪に庇護を受けた芸術家たちは、三溪園をしばしば訪れ、時には鶴翔閣に泊まり込んで創作を行いました。鶴翔閣はいわば近代日本文化の創出に大きな役割を果たした場所でもあります。

(パンフレットより引用)

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内 苑

御 門

 原 三渓のプライベートゾーン(内苑)に入る薬医門である。【横浜市指定有形文化財】

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正面に見える建物が臨春閣 2009.8.13 インクペン・透明水彩

 京都東山の西方寺にあった薬医門で、宝栄5年(1708)頃に建築されたものを大正初期に移築したものである。
正面に見える建物が臨春閣で唐破風の入り口が建物の華やかさを予感させる。なるほど移築当時の名称が「桃山御殿門」とか「桃山御門」と呼ばれていたわけだ。 じつは三渓は秀吉好みだったようで、正面の臨春閣を秀吉築造の桃山建築・聚楽第の遺構と思っていたようである。その建物も紀州徳川家の別荘と判明してからはただの「御門」と呼ばれている。
なお、途中の右手に連なる塀の一部に白雲邸の入り口がある。

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白雲邸

 三溪が隠居場所として建てた数寄屋風建築。【横浜市指定有形文化財】

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腕木門脇の武者窓が門を通る人に目を光らせているようだ 2009.8.13 インクペン・透明水彩

 居間は籐筵を敷き詰め、食卓・椅子の生活ながら書斎は座式で、庭と縁台を見渡す造付の文机が印象的である。裏には蔵も用意されていて、鶴翔閣に収納されていた美術品は隠居後、こちらの蔵に移され管理されたようだ。
塀の内側では書斎正面にある臨春閣とつながっていたようで隠居部屋というよりも、庭園全体に目を光らす管理棟という印象もある。(現在は臨春閣とは切り離されている)

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臨春閣(りんしゅんかく)

 紀州徳川家初代・頼宣の別荘建築。【国指定重要文化財】

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 2009.8.13 インクペン・透明水彩

(説明板から引用・CG処理)

 紀州徳川家初代・頼宣が和歌山・紀ノ川沿いに建てた数寄屋風書院造りの別荘建築で慶安2年(1649)の建築、大正6年(1917)に移築されている。
 三つの棟が雁行して連なる室内は、狩野派の襖絵や楽器をあしらった欄間など美術的見所満載である。 原家では「桃山御殿」と呼んでいた思い入れがよくわかる。
 第二屋は藩主の謁見等にも使われたであろう公式の場所で、池に面して大変見晴らしが良い。本来は紀ノ川に面していたものであるから、同じように廊下の真下まで川辺が寄せていたのであろう。
 第三屋は楼閣建築となっているが望楼の機能を持たせたものでいわゆる現在の二階建の建物とは意味が違う。その階段は下の間にじかに雛壇のように表れていて、火頭窓で飾られた仏間への入り口のように囲われているのが新鮮だった。
 この雁行する外観はどうしても同時期に京都桂川沿いに建てられた桂離宮と比較してしまうが、片や宮家の別荘に対し武家の別荘として、東西別荘の双璧であると言われているそうである。

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月華殿(げっかでん)と 金毛窟(きんもうくつ)

 控え所(月華殿)【国指定重要文化財】 と 三溪作の一畳台目茶室(金毛窟)

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左:金毛窟  右:月華殿正面階段 2009.8.13 インクペン・透明水彩

 まず右の写真を見ていただきたい。園内各所に昔の写真と記事が掲載されているものである。

園内の紹介板より撮影&CG処理

 この写真は大正10年頃の内苑造成中の一コマだが、なんと臨春閣から月華殿まで伸びた瓦屋根が確認できる。これは石段上に設けられた回廊の姿である。すなわち原家のプライベート・エリア内では、隠居所の白雲邸から臨春閣とこの回廊を経由して月華殿まで繋がっていたことになる。
なお、回廊の先は月華殿だけでなく源頼朝像(現在は東京国立博物館所蔵・重要文化財)を安置した源公堂があったそうだが、戦時中に回廊とも取り払われたと記してあった。

左:金毛窟 右:月華殿 (説明板より撮影&合成)

 月華殿は徳川家康時代に京都伏見城内に建てられた諸大名伺候の際の控所だそうで、渡り廊下で続く茶室(金毛窟)への控室として利用されている。 金毛窟は原三渓が建てたもので、なんと小さな一畳台目の茶室である。千利休が修造した京都大徳寺三門(金毛閣)の高欄手摺をこの茶室の床柱に使ったことが名称の由来。大正7年(1918)に月華殿を移設するのと同時期に付属建物として新築されている。躙口(にじりぐち)がなんとも小さい。招かれた客人が身を屈めて入る姿を想像するとほほえましくもなる。

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天授院(てんじゅいん)

 もと鎌倉心平寺(建長寺塔頭)の地蔵堂【国指定重要文化財】

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 2009.8.13 インクペン・透明水彩

 月華殿のすぐ奥にこの建物が配置されている。その背は山が迫っていて行き止まり。 風通しも日差しも乏しい場所で、さらには脇の沢筋では湧き水が流れ、園中央の大池に注ぐ源流だ。こんな場所では月華殿の付属茶室(春草廬)を配置するには狭すぎるのがよくわかる。

 もと鎌倉心平寺(建長寺塔頭)の地蔵堂といわれています。大正5年(1916)に三渓園に移築され、原家ではこれを持仏堂として使っていました。
昭和39年に解体修理を行い、その際慶安4年(1651)の墨書きが発見され、建立の年が明らかとなりました。

(説明板より引用)

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聴秋閣(ちょうしゅうかく)

 二層楼閣の建物【国指定重要文化財】

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 2009.8.13 インクペン・透明水彩

 大変優美な建物である。日本建築ではめずらしい二層の建物なのだが、我々が現在目にする木造2階建とはたいへん趣が違う・・・というか、構造がまるで違うのだ。日本の伝統建築は城郭建築を除くと平屋を基準としていて、二階は屋根裏か、お神楽(太神楽造り)だった。すなわちお飾りにちょこんと載せただけの、はなはだ構造的には疑問だらけのものなのだ。そんな不安を感じさせる建物ではあるが、なんとしても屋根の柿葺きの優美な曲線にごまかされてしまう。修学院離宮にも同じような楼閣建物があったがやっぱり骨組みが気になる建物だ。春日局が使用したと聞いて、この屋根の美しさを改めて見直した。

 この建物は、もと三笠閣と呼ばれ、元和9年(1623)3代将軍徳川家光が上洛に際し、佐久間将監(さくましょうげん)に命じて京都二条城内につくらせたものといわれています。その後これを春日局に賜り、江戸稲葉侯邸内に移され、三溪園には大正11年(1922)に移築されました。

(説明板より引用)

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春草廬(しゅんそうろ)

 織田有楽斎が建てたと伝えられる茶室【国指定重要文化財】

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左:全景  右:三畳台目の茶室内部と待合 2009.8.13 インクペン・透明水彩・色鉛筆

 説明板によると、月華殿に付属して建てられたとある。しかし現在の月華殿のまわりは天授院のわきから流れる小川もあり、狭いところである。そんなところから月華殿の付属茶室は三渓が腕をふるった一畳台目という最小の茶室にして、この春草盧は広々としたところに置いたのだろう。そのため本格的な茶会を演出するためか、傍らには待合が造られていた。

 この建物は、もと京都黄檗宗の三室戸寺金蔵院にあった月華殿に付属して建てられていた茶室です。三溪園には大正7年(1918)月華殿と共に移築されました。窓が九つあるため九窓亭と呼ばれていました。
信長の弟・織田有楽斎(1547-1621)が建てたものと伝えられ、三畳台目の茶室です。

(説明板より引用)

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旧天瑞寺(てんずいじ)寿搭覆堂(じゅとうおおいどう)

 墓石を護るだけの建物だが、なんと立派なことか。【国指定重要文化財】

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 2009.8.13 インクペン・色鉛筆

(説明板より)

 遠巻きで見る限りはなんの変哲もない建物と云うのが最初の印象だったが、近づいてみてまずは屋根の唐破風に、そして扉の彫り物の美事さに、さらに内部に入ると柱や梁の美事に残された色彩に見入ってしまった。改めて内部を見渡すと、ガランとして何もない建物だが、下記説明を読んでこの建物がなんなのかをようやく理解できた。墓石を保護するだけに、これだけの建物を用意するとは何たること。 秀吉という人物の好みがよくわかる建物だ。

 寿塔とは長寿を祝って生存中に建てる墓のことです。豊臣秀吉は、その母大政所が大病にかかったとき、その平癒祈願のため京都大徳寺内に天瑞寺を建てました。功験あって平癒したのを喜び、母の長寿を祝って天正20年(1592)石造の寿塔を建てました。
この建物はその寿塔の覆堂で、明治35年(1902)三溪園に移築されたものです。なお寿塔は現在大徳寺内、竜翔寺にあります。

(説明板より引用)

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蓮華院(れんげいん)

 三溪作の田舎屋風茶室

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左上:小間の茶室 左下:広間の茶室  2009.8.13 インクペン・透明水彩

(説明板から引用・CG処理)

 三溪自らが設計したお気に入りの茶室と聞く。大正6年(1917)に建てられたものだが、以前は現在の春草廬の場所に置かれたという記述が残されているので、春草盧を移築(1918)した翌年には現在の場所に移されたと推定される。 かつての場所では銀杏の落葉の時期に大きな茶会が開催されたそうである。(竣工披露茶会か?) それと比べて現在の場所は竹藪を裏にして薄暗い場所である。そのため三溪の親友であった松永耳庵(安左ヱ門・あの電力王)もここへの設置には異論が有ったようだ。しかし原三渓としては春草盧の設計者織田有楽斎に敬意を示して、一等地を譲ったということだろう。
なお入口から入ると、中央には宇治平等院の古材が丸柱として使用されている。

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外 苑

 

旧燈明寺三重塔

 庭園全体を見渡せる山頂に建つ塔。【国指定重要文化財】

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左:全景  右:三手先組物、二軒繁垂木の様子 2009.8.13 インクペン・透明水彩

 一般的に塔の内部は非公開で、見る機会は限られている。それは塔自体が仏であるとしているからで、中心に一本の太い心柱が地面から最頂部の九輪・水煙まで貫かれ、その芯礎の中には仏舎利(仏の骨や代替の宝石)が埋葬されている。その心柱に衣を着せるように何重もの屋根がついているというのが三重塔・五重塔の姿なのである。当然階段はない。
 そんなことを思いながら、今回の内部公開を楽しみにして来たのだが、なんとこの塔は想像していたものとは大違いであった。 内部の心柱は見当たらず、中央には四天柱と来迎壁、そして黒漆仕上の須弥壇の上部は天蓋のような折上げ格天井となっていた。これでは三重の屋根の付いた舎利殿である。
 案内資料によると、聖武天皇の勅願によって天平7年(735)に建てられた京都燈明寺(現在は廃寺)のもので、室町期に復興・建築されたものと云う。 その三重塔を大正3年(1914)に移築したもので、関東地方では最古の塔だとのこと。 塔としての構造をしていないことから(勝手な推測ではあるが)解体保存されていた廃棄寸前の建物をこの地に部材を搬入・選別して再構築したというのが本当のところだろう。それにしても荒れた天候の時には海風をまともに受ける山頂のこと、同じ山頂に建てられていた「松風閣」は関東大震災で倒壊しているが、この塔は強風・地震に耐え抜き、先の大戦でも焼失することがなかった。大工棟梁の技量は勿論のことだが、この強運も讃えるべきだろう。

・・・・・

 後日、移築当時の京都から本牧までの運搬の苦労話をあるHPで目にした。それによると現在の御殿場線経由の貨車輸送で行ったが、カーブを曲がり切れず、仕方なく心柱を切断し、運搬後三渓園で繋ぎ直したそうである。 しかし現在の心柱はどうなっているのか・・・格天井の裏はどうなっているのか・・・定かでない。
また、燈明寺の歴史を調べてみたら、この塔は丘の上の御霊神社の傍らに建てられていた。建立当初と同じように、ここ三溪園にたどりつても山頂から世間を温かく見守るように運命づけられているのだろう。

 重文の本堂と塔が縁もゆかりもない関東に移築されたことは不幸なことだ。しかし明治の蛮行・廃仏毀釈で廃棄処分にあい、売却されることで辛うじて朽ち果てることから逃れることができたのは幸いだった。明治期の「維新・改革」という大義に翻弄されたこれらの建物を目の前にして、現在もいわれている「維新・改革」という言葉にも十分注意して見守っていかなければならないと思う。

塔とは、寺院の中での信仰の対象として重要な意味を持つ建物なので、境内の中央に建てられるのが本来の配置である。その後に寺の象徴的なものとなり、中心から外して配置したり、薬師寺のように左右対称に二塔も建てたものも出現してくる。
ここでは庭園全体の彩りを添えるために建てられたもので、万博会場とかディズニーランドの施設内に建てられたランドマークと同じ意味合いのものだと云ったら言い過ぎだろうか。

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松風閣

 松風閣とは、岬の突端にあり、東京湾の絶景を望むを見渡せる苑内最初の建物だった。

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 2009.8.13 インクペン・透明水彩

 「松風閣」とは、三溪の養祖父・原善三郎が現庭園一帯の土地を購入し、明治20年(1887)に最初に建てた記念碑的な山荘である。三渓の代になってからはゲストハウスに利用され、内外の著名人に利用されたそうである。しかしその後の関東大震災で倒壊し、残念ながら現在では建物はなく、海を見渡す展望台となっていて当時の面影はない。眼下に海岸が広がっていたであろう風景も、工場越しに見える東京湾で偲ぶことになる。

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林洞庵(りんどうあん)

 旧燈明寺の三重塔が建っている丘の麓にこの茶室がひっそりと佇んでいる。

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 2009.8.13 インクペン・透明水彩

 昭和45年宗徧流林洞会から寄贈された茶室で、八畳の広間と四畳の小間からなっている。 宗徧流流祖・山田宗徧筆「林洞」二字の板額を室内に掲げてあるのでこの名の由来とのこと。
広間の床柱は手斧(チョウナ)削りの大胆な仕上のものが凛とした室内を和らげている。また小間の洞庫も茶の日常性を感じさせ、この宗徧流という流派の親しみやすさを感じさせる。
 遙か昔のことなので今は時効・・と云うことで白状するが、この家元は鎌倉にあり、散歩していて目にとまったお屋敷であった。(いわゆる家宅侵入) お庭には庭師の方が仕事中で、話しかけていくうちにその宗徧流家元のお宅と知った。茶の流派は裏と表しか知らない私にとって、それ以来気に止めている茶道で公家さんの系統を次ぐ茶と理解していたが、それがこんなに気さくな茶室を造っているとは・・・ちょっと身近に感じた。

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初音茶屋

 明治39年(1906)の開園当時、無料の湯茶サービスがあった。その一つがこの初音茶屋である。中央の炉に煤竹の自在鉤でつるされた真っ黒な鉄瓶には絶えず湯がたぎり、香煎を入れた白湯や温かい麦茶が振る舞われたという。

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 2009.8.13 インクペン・透明水彩

 大正4年(1915)三溪園を訪れた芥川竜之介は、友人であった三渓の長男・善一郎への手紙にこの湯茶接待の印象を書いている。

「・・・序ながら僕は君の所へ去年の夏、矢代と二人でちょっとお庭を見にゆきました。さうして四阿のやうな所で、田舎の女のやうな人の沸かしてくれるお湯をのみました。が、どこをどうしてあすこまで辿りついたか、まるで覚えていません。
 ひとはかり浮く香煎や白湯の秋
即興のつもりで書きましたが、月並みなので弱りました。」

この湯茶接待は、その後戦争などでいつからか途絶えてしまったが、昭和57年(1982)に行方不明であった茶釜が発見されたのを機に、観梅会の期間中のみ、昔通りの古釜で沸かした麦茶が振る舞われているそうだ。

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旧東慶寺仏殿

 鎌倉の駆込み寺・東慶寺の仏殿である。【国指定重要文化財】

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 2009.8.13 インクペン・透明水彩

 東慶寺は、弘安8年(1285)に北条貞時が母の覚山尼(かくさんに)を開山として創建した寺院で、縁切寺として有名だが、現在でも立派に鎌倉にある。その仏殿がどうしてここにあるのか?・・・・・というのが最初の疑問だった。
 東慶寺HPの歴史年表によると明治4年(1871)に「明治政府、寺領を没収し[社寺領上地令]また縁切寺法を禁ずる」とある。すなわち廃寺だからの一文字が先頭に付いている訳で、その後明治38年(1905)に建長・円覚寺両派管長釈宗演老師が東慶寺に遷住し、駆込寺は禅の道場に変わっている。釈宗演は東慶寺中興の祖とうたわれた人物だが、ちょうどこの頃にこの仏殿が廃棄処分されている。
 明治の「維新・改革」は廃仏毀釈だけでなく寺の(縁切り寺としての)治外法権も許さなかったのだ。

 この仏殿は寛永11年(1634)に建立されたもので、三溪園には明治40年(1907)に移築されている。 そして現在の東慶寺本堂は昭和10年(1935)に建立され、尼寺とは全く関係のないものであった。 昔、学生時代に一度伺ったことがあるが、「さすが尼寺・・・全体のモジュールが違う!」とえらく感激した記憶がある。 しかし・・・あれは何だったんだ!!

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旧矢箆原家(やのはらけ)住宅

 世界遺産で有名な白川郷の合掌造り民家。【国指定重要文化財】

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 2009.8.13 インクペン・透明水彩

 この建物は岐阜県大野郡荘川村岩瀬にあったもので、御母衣ダムの湖底に沈む運命のものを所有者矢箆原家から三溪園に寄贈され、昭和35年(1960)に移築されたものである。説明板によると江戸時代宝暦年間(1751-1764)飛騨三長者の一人と云われた岩瀬の(矢箆原)佐助の家として飛騨高山の大工によって建てられたと伝えられている。
 外観でまず気づくのは白川郷の合掌造りでお馴染みの屋根は切り妻屋根であるが、この建物は入母屋となっている。さらには破風には火頭窓がつけられていてこの家の格式が只ならぬことを示している。なるほど玄関は式台付きで武家やせいぜい名主に許されたものである。
 内部は見事に二分され、左半分は玄関寄付きから全て天井張り・畳敷きの接客空間で、家長が使用した部分でもあろう。 その他の部分は大家族制で維持された合掌造りであるから、独立が叶わない身内一族やその他の使用人を含めた多数の者が使用したのであろう。その日常空間は、厩・土間を介して全て天井は張られてない板張りの質実剛健なものである。
 この建物の内部は園内で唯一常時公開されていて、囲炉裏の薪も毎日くべられているという。二階へ十分に囲炉裏の煙がまわる配慮を見ると養蚕もしていたのだろう。その二階は当時の民具を紹介する展示場となっていた。

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横笛庵

横笛庵は田舎屋風の草庵で、もと内部に横笛の像を安置していたのでこの名がある。

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 2009.8.13 インクペン・透明水彩

 横笛とは今から800年程前、平清盛の娘・建礼門院徳子(高倉天皇の中宮)に使えた女官の名前で、平家物語には平重盛の家臣・斉藤時頼(滝口入道)との悲恋が語られているという。その横笛が滝口入道から送られた恋文で尼姿の己像を造り安置した草庵である。何とも女の執念を感じて恐ろしくもなる話であるが、その像は先の大戦で消失してしまった。

 この庵の屋根頂部は説明書きによると「芝棟」だそうだが現在は何も生えてはいない。屋根棟に宿根草や矮小な樹木を植え付け、植物の根を張らせることで傷みやすい棟を保護する役目を担ったものだが、あやめ科のイチハツでも植え付けられていたら、まわりとお似合いだろうに・・・。
それにしてもこの建物はどんな目的があるのだろうか。 広い土間の部屋は、待合・寄付にしては大きすぎるから、にわか雨の避難処で湯茶の接待でもあったのだろうか。

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待春軒(たいしゅんけん)

 形は変わっても昔ながらの湯茶サービスに努めています。

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左:かつての待春軒 右:現在の待春軒  2009.8.13 インクペン・透明水彩

 かつての茶屋は江戸の豪商・河村伝左衛門が所有していたものを明治35年(1902)に移築したものだが、現在は消失している。当時の写真を基にしたスケッチである。曲り屋と覚しき民家の馬屋に相当する部分は壁は取り払われ湯茶サービスの場所となり、それに続いて縁台がもうけられている。 初音茶屋と同じような湯茶の接待の場所ではあるが、句会・歌会・茶会などの席としても提供していたそうだ。当時の建物には「御やすみ、お茶御随意 待春軒」という案内書きが付けられていたというからその精神は変わってないとも云えるか。
 なお背後に見える大屋根は隣接する旧燈明寺本堂で、以前の建物の後ろには移設前なので見られない。

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旧燈明寺本堂

 山の上の三重塔と同じ寺にあった本堂。【国指定重要文化財】

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 2009.8.13 インクペン・透明水彩

 天平7年(735)の開創とされる古刹・旧燈明寺にあったものの移築で、この本堂も室町時代初期(1330-1392)のものと推定されている。
この建物内部は二重の構造になっていて、鳥籠のように格子戸で囲われた内部に、屋根も含めて総漆塗りの三間構成・仏堂形式の厨子(宮殿)が安置されていた。しかし本尊だけで脇持は見当たらなかった。

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 三重塔もそうだったが、軒丸瓦には「東明寺」と刻印されており「燈明寺」ではなかった。康正3年(1457)に天台宗の寺として修復され、一時寺名が改められた名残である。
廃寺後、昭和22年の(1947)の台風被害に遭い解体保存されていたものを昭和62年(1987)にこの地に移築されたものである。これも同寺の三重塔が移築保存されていた縁ということだろうか。

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