
![]() 遠景の雑木林は開拓当時の主要道路である並木道。その両側に里芋畑がどこまでも広がっていた。 三富(さんとめ)新田 武蔵野台地はローム層(火山噴出物の風化物)が厚く堆積した台地であるから痩せた土地で、水位も深い。かつてはどこまでも広がる茅野で、開拓されるまでは周辺村々の入会地(いりあいち)として秣場(まぐさば)に利用される程度であった。 江戸時代になると農作物増産を目論み、この台地にもようやく人の手が入るようになる。川越藩主・柳沢吉保が元禄7年(1694)に開拓に取り掛かったのが、川越南5〜6キロに位置するこの三富新田(さんとめしんでん)である。 ![]() かつての三富新田(着色部)を現在の街区の様子と合成してみる <案内リスト> 註 【町文】:三芳町指定有形文化財 考察_木ノ宮地区について ![]() 開発時の上富村 開拓地は主軸に4〜6間幅の道路を開き、この道路両側に間口40間(約72m)、奥行375間(約675m)の短冊形に区画、一戸当たり約5町歩(15,000坪)に配分している。 一区画の内訳は道路側に家を建て、その外側を畑とし、さらにその奥を秣場・山林(ヤマと呼ばれた雑木林)としている。 痩せた土地には堆肥が必要で、そのための落葉の供給と、薪の原木としてコナラ・クヌギさらには建築用材としてのアカマツ等と生活に密着した二次林が形成されることになる。現代人が思い描く武蔵野の景観は「雑木林」だが、この頃の新田開拓に伴った農用林や屋敷を囲む林が育って、造られたものなのだ。
ケヤキ並木と六間道三富開拓地の中でも上富地区の中央を南北に走る、通称「六間道」は「上富のケヤキ並木」と呼ばれている。 ![]() 2009.8.28 鉛筆・透明水彩 この並木は初めから並木として植栽されたものではなく、農家の屋敷を取り巻くように植え付けられたもので、屋敷が道沿いに建てられたので結果的に並木道のような景観となったものである。 大石燈籠![]()
六間道と交差する地点にこの燈籠が建てられているが、現在は足場で覆われていて見ることができない。 足場の高さから想像するだけだが、高さは優に3mはあろうかと思われる燈籠である。(再度訪問したい。) ![]() 箱根ヶ崎宿の常夜灯 それまでの代役に、慶応元年(1865)に建てられた箱根ヶ崎宿の常夜灯を左に挙げておくことにする。日光脇往還道と残堀川が交わる地点に据えられたもので、その石橋のたもとを照らす5mもの高さの巨大なものである。常夜灯なので燈籠とは形が違うが、この方が似合うかということで掲載しておく。 後日訪問する機会があったのでこの常夜灯を探した。 かつてあった工事中の場所は取り払われていて、離れた場所に移されていた。 それが右上のものである。(2013.3.20訪問)
共同井戸この一帯は水の乏しい地域である。玉川上水から引き込まれた野火止用水には遠く、一番近い柳瀬川でも南方4キロはある。そして井戸を掘れば70尺(21m)〜90尺(27m)という深い水位なので大変水に恵まれないところなのである。 ![]() 六間道に面した共同井戸 背後の茅葺屋根は旧島田家住宅 2009.8.28 鉛筆・透明水彩 川越藩は開拓農民に資金を与えて掘らせたが思ったようには水は出ず、水の湧く井戸は上富村に4ヵ所、中富村に4ヵ所、下富村に3ヵ所、合計11ヵ所の井戸しかなかったそうである。それも日照りが続くと井戸も枯れ、遠くまで水を汲みに行かなければならなかった。 旧島田家住宅三富地区に残された最古の民家で、開拓の成功を今に伝えてくれる。【三芳町指定有形文化財】 ![]() 2009.8.28 インクペン・透明水彩 この民家は寺子屋としても使用された建物の移築である。表道(六間道)を南に1km程下った下組に、島田伴完(ばんかん・伴左衛門)が寺子屋を天保元年(1830)に開設している。明治期の近代小学校が始まるまで、近郷40ヶ村から延べ300人ほどの師弟を集め、多くの門人を世に送り出した人物である。この寺子屋は「読み・書き」だけでなく「質素倹約」を初めとした教訓や村の共同生活の絆という重要な役割を果たしたことを後世に伝えるため、建物が保存されたものである。 庭先にサツマイモの「苗床」が再現されていたので農産物に少し触れてみる。 三富の開発当初から乾燥した痩せ地は簡単に変えようがなく、永らくアワ・ヒエ程度の雑穀しか収穫できなかったが、寛延4年(1751)に千葉・市原から救荒作物としてサツマイモがもたらされると盛んに作られるようになった。 そして文化年間(1804-1817)には「川越いも」、その中でも「富のいも」として江戸でも評判を呼ぶようになる。そのブランド精神は「富の川越いも」として現在に受け継がれている。 この寺子屋を記憶に留めておくためだろうか、傍のバス停留所名は「学校」となっていた。
開拓名主島田家長屋門この長屋門は木ノ宮地区近くにあり、上記寺子屋の元々あった場所とはかなり離れているので同じ「島田家」ではないようだ。 ![]() 2009.8.28 インクペン・透明水彩 開拓名主とは開拓に当たった川越近郊からの農民の中から名主役を命じられた名主をいう。 当然重職を担った家なのでその象徴である門構えは堂々としたものである。 長屋門(長屋の中間部を門としたもの)とは表門の一形式で、本来は武士階級や極限られた階層の家でしか許されなかったものである。(下級武士では勿論不可能だが・・・)
多福寺三富新田の開拓農家の菩提寺として柳沢吉保が元禄9年(1696)に建立。境内には埼玉県指定有形文化財の銅鐘など、多数の文化財がある。 <総門(冠木門)>![]() 金色に輝く花菱紋が取り付けられた総門の扉 2009.8.28 鉛筆・透明水彩 この臨済宗(禅宗)三富山多福寺の総門は開拓当初からのものらしい。大振りの柱・梁から見事に張り出した屋根、袖壁の漆喰と緑青色の格子、そして扉につけられた金張りの花菱紋、どれも建立当時の仕事を大事に護ってきたものと思われる。本来はこの門を通ると正面に参道が続き三門・本堂へと続くのだが、残念ながらこの総門は閉鎖されていた。(正月には開門されるようだ) <三門(楼門)と元禄の井戸>![]() 左:三門正面図 右:開拓当時の井戸と三門(後ろの建物) 2009.8.28 インクペン・透明水彩 開拓地での一番重要なものは飲料水である。そのための井戸を上富地区だけでも当初数ヶ所掘ったが、ことごとく失敗だったそうである。この井戸はその頃に掘られ、今日までも残されているのはここだけで、その他の井戸はほとんどが崩れたり埋めたりして現在は残っていない。(寺子屋前にあった共同井戸は復元ということか・・・?) 木ノ宮地蔵多福寺に隣接した、子授け・子育ての地蔵堂 ![]() 2009.8.28 鉛筆・透明水彩 となりの多福寺と比べてここの境内はなんと荒れ果てた?というか地面丸出しのガランとした場所であることか。そしてあちこちに目に付くのが「管理者、多福寺」の文字だ。かわいそうに幕末・明治期に分離させられ、管理者不在の荒れ社ということだろうか。 多聞院・毘沙門堂二種類の狛犬を備えた寺(神社?)。 ![]() 左:毘沙門堂の前の狛犬は虎。 右:境内入口の狛犬は獅子 2009.8.28 鉛筆・透明水彩 元禄9年(1696)に川越藩主・柳沢吉保が三富開拓農民の祈願所とするため、毘沙門社として建立したものである。境内入口にたてられた木柱には「武田信玄公守本尊毘沙門天」と書きつけられている。そして鳥居もないのに狛犬が鎮座している。神社なのか寺なのか実に不思議なものである。 毘沙門天とは、多聞天と同じことで仏教・仏像では武神・軍神である。建立当時は神仏合体が普通のことだろうが、このちぐはぐさは現代の感覚でもやっぱり違和感を感じる。 ![]()
川越藩主・柳沢吉保が武田信玄の守り本尊だった高さ一寸四分(約四センチ)の純金製毘沙門天を入手し、この毘沙門堂の本尊としたのだが、お堂の前に虎の形をした狛犬を左右に配しているのが不思議である。そして正面幕には四つ割菱(武田菱)がはっきり認められる。多福寺も多門院も菱紋を表に掲げている。これは何を意味するのだろう。 柳沢家は甲斐源氏武田氏の一門で、武田氏武川衆に属した家柄である。家紋も武田家の裏紋「花菱紋」を定紋にしている。その紋を多福寺に使用し、多門院には今は亡き主君武田家の定紋「割菱紋」を使用しているのだ。 江戸幕府は豊臣秀吉とは対照的に信玄人気には寛容で、この多門院での「信玄の神格化」は「家康の神格化」に繋がるとして容認していたようである。 木ノ宮地区について(たわごと) 木ノ宮地区は上富村の中心であるばかりでなく三富開拓地全体の中央部でもあり、寺や神社が集まっていて住民の精神的拠り所となっている。そして「武蔵野の雑木林」を形成している自然の環境を維持するために県自然環境保全地域に指定されている。 その後、この運河?の近くに長屋門を残しているお宅があるらしいことをネット上で知った。 【後日談】 F家長屋門
![]() 2010.3.22 鉛筆・透明水彩 武蔵野山塊からの扇状地真っ只中で、伏流水は地中深く流れている。そのため昔から水に乏しい地域だが、その事を思わせる川歩きだった。V字型断面の砂川堀は少ない川の流れだが、ひとたび雨が降れば広い耕作地の排水で一杯になるのだろう。それを思わせる調整池も見られた。しかし一面の畑には所々に小さな祠があるだけで、昔のことを示すものは一切なかった。木ノ宮地区に入っても雑木林を避けるようにして通り過ぎていく。そしてしばらく行くと噂にあった長屋門を見つけた。想像していたより川から離れていて、仮説も崩れてしまった。 旧池上家住宅三富地区からちょっと離れたところに、もう一つ民家が移築復元されている。【三芳町指定有形文化財】 ![]() 2009.8.28 鉛筆・透明水彩 現在ある場所は町立歴史民俗資料館の傍らだが、近くにあった民家を移築復元して保存・公開されている。このあたりは柳瀬川に面した崖線に近く、湧き水にも恵まれ、鎌倉街道も通る地域である。柳瀬川は狭山丘陵の湧き水を源流にして志木で新河岸川に注ぐまでの短い川だが、水の乏しい武蔵野台地では貴重な水源であったに違いない。 この民家は純農家としては大きな建物の構えだが、藍玉を生産して財をなした家のようである。建築年代も江戸末期から明治初年とのことで、その頃になると幕府による農村支配が緩んできただけでなく、実りある畑への努力が実り、豊かな畑作地帯に変わったことのあらわれであろう。 Mozilla, Chrome, Opera & I.E. に対応(20150123) |
|問合せ |
copyright©2004-2016 Capro All Rights Reserved
このサイトの掲載記事、図、音源などの無断転載を禁じます。著作権は《きまぐれスケッチ》《Capro》ま
たはその情報提供者に帰属します。