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青梅丘陵の絶景ポイント(矢倉台)から青梅市街・新町・狭山丘陵・東京都心を望む(写真をCG処理)

青梅・新町村


「青梅宿」と「箱根ヶ崎宿」の間に、「新町村」(現・青梅市新町)という集落がある。
この村は江戸の初期、第二代将軍秀忠の頃、慶長16年(1611) に開発が始められた。

 同じ頃、慶長14年(1609)に岸村の「村野三右衛門」は砂川新田の開発を願い出ているが、実際の開発は承応3年(1654)の「玉川上水」完成以後のことであり、本格的な開発は8代将軍吉宗の「享保の改革(1722)」によって盛んに行われるようになった。
 武蔵野の原野に新田開発の先駆けとなったのが「新町村」で、その先導役を果たした人物が「吉野織部之助」である。その「吉野家屋敷」が現在も残されていると知り青梅街道を歩いてみた。(081022)
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多摩川・霞川・筥の池に挟まれた地域は、水の乏しい地域である。

 現在はその痕跡を辿るのも難しい、南北に延びる中世からの道(秩父道)と、東西に延びる近世に発達した江戸への道(原江戸道)という古道を復元して俯瞰すると「新町」の位置する意味が理解できる。この交差点から足を延ばして「笹仁田峠」を越えると、江戸城築城に必要としていた石灰を産出する「成木村」なのである。(参照:屋敷割図に併記)

  <案内リスト>


 この「新町」が交通の要衝となったのは江戸の時代からだが、それ以前からこの交差点の往来はあったようだ。それはこの場所に貴重な井戸があったからである。まさに広漠とした原野の中の オアシス だったのだ。

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新町村屋敷割図(推定・明治初年) (ポイントにマウスを乗せてみてください)
(着色部が当初の開発地と思われる。古道とも(やま)の勝手な推定)

 上の屋敷割図は青梅市教育委員会「旧吉野家住宅」パンフレットを参考に製作したものだが、その中から少し内容を抜粋してみる。

村の中央に幅4間(7.2M)の江戸街道(現・青梅街道)が東西に通り、屋敷割は1戸分間口9間(16.2m)として、南北に各々33軒分を設定しております。日本66州にちなんで区画したものです。新田村落としては狭いこの間口は、農村としてばかりでなく、青梅宿に対抗して、ここに市場を開く計画があったからであります。さらに東西南北に走る7つの道も整備しています。そして新しい町を開く意味で「新町村」と名付けたのであります。

 なんと!この新田は宿場としての町づくりを考慮したものであった。

 2代将軍徳川秀忠が狭山地方に鷹狩りで慶長15年(1610)に来た折りに、武蔵野の原野を見て新田開発の必要を痛感したという。将軍の「新田を奨励すべし」という一言を、下師岡村(現・青梅市師岡町)の名主・吉野織部之助が聞き及び、すかさず願い出て許可されたものである。
吉野織部之助が選んだ地が、水(大井戸)があり、なおかつ成木村からの石灰が通過する場所であったのは必然なことかも知れない。そして宿場や市の立つ町にすることを標榜していたり、日本全国に擬えた屋敷割をするなどは、さしずめ名プロデューサーといえないだろうか。
東西端には寺を配したが、中央南の突出部には代官屋敷も計画していたらしい。まさに当時の名都市計画家である。

新町の大井戸

 この井戸は現在のものとは大違いで、羽村にも見られるような「まいまいず井戸」である。

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大井戸公園のまいまいず井戸  2008.10.22 鉛筆・透明水彩

 先ず規模の大きさに驚かされる。平成の時代に発掘調査そして復元された擁壁の玉石積は真新しく、雑草は生えず、視界を遮るものがないのでさらに広く感じさせる。

大井戸断面

大井戸復元断面図 (青梅市教育委員会パンフレットより複写&調整)

 青梅市教育委員会の発行パンフレットによると、中心部の筒井戸は地表下7mの踊り場から深さ15.2mあり、立川礫層、青梅礫層を掘り抜き、上総層群に達しているとのこと。すなわちこの地域の水位は地下23mというわけだ。この規模と深さは羽村の「まいまいず井戸」を遥かに超えた物で深さに関しては約2倍ほどになるのではなかろうか。

 更なる詳細は下記の現地説明板内容を見ていただきたい。

青梅新町の大井戸

所在地 青梅市新町2丁目27番地

 大井戸は、人が水口付近まで近づくための擂り鉢形の施設と水をくみ上げる筒井戸からなる漏斗状の形をしています。このような形の井戸は、羽村市のまいまいず井戸(都指定史跡)など、水の得にくい武蔵野台地等で構築されていますが、東西約22メートル、南北約33メートル、深さ7メートルの擂り鉢部と周囲の盛土からなる大井戸は、中でも最大の規模を持つものです。
 この井戸が掘られた時期については、定かではありませんが、地表から筒型井戸を構築する技術が一般化する以前の様式であると考えられます。また、武蔵野の原野を走る「古青梅街道」と「今寺道(秩父道)」の二本の古道が交差する位置にあることから、おそらく江戸時代の開発以前から道行く人馬の飲み水を供給する場所となっていたものと思われます。
 新町村の開発は、慶長16年(1611)に下師岡村の土豪的農民吉野織部之助らによって始まりますが、この際、大井戸に大規模な改修が加えられ、塩野家井戸として使用されたことが、開村の様子を記した「仁君開村記」や発掘調査の結果から想定されます。さらに、筒井戸の底付近から出土した、明和7年(1771)の年号と「永代不絶泉」の墨書をもつ願文石から、その後も使用されていたことが明らかになりました。
 このように大井戸は、中世後期から近世初期の武蔵野台地の開発に関する貴重な歴史的遺構で学術的な価値も高い史跡です。
 指定面積は2,121平方メートルです。

平成10年3月30日 東京都教育委員会
青梅市教育委員会
(大井戸公園表示板より)

 荒涼とした武蔵野台地の真っ只中を道行く人馬の飲み水供給の場所として、江戸時代以前から貴重な場所となっていたのだろう。

【参 考】

羽村のまいまいず井戸

 元文6年(1741)に、当時の五ノ神村の村中の協力で井戸普請が行われた記録があり、その後も数回修復されてきたが、昭和35年町営水道開設に伴い使用を停止した。
 地表面での直径約16m、底面の直径約5m、深さ約4.3m、すり鉢状の窪地の中央に直径約1.2m、深さ5.9mの掘井戸がある。地表面からは周壁を約2周して井戸に達するようになっている。

東京都教育委員会(現地掲示板から抜粋)

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吉野家民家

 吉野家は下師岡(現・市内師岡町)の名主であったが、下師岡の吉野家は息子に譲り、新町村の吉野家は孫娘に婿を取って興している。屋敷は敷地割りの北側ほぼ中央部の2軒分を占める敷地である。
現在の屋敷は、昭和50年(1975)に青梅市へ寄贈され、都指定有形文化財となり一般公開されている。

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 2008.10.22 鉛筆・透明水彩

 開墾早々は井戸の掘削が重要な仕事であるが、水位の低い(地下23mほど)地域であり、難工事だったと想像される。この村に5本の井戸が掘られたがその1本が当屋敷内に残されている。

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主屋 平・断面図 

 江戸初期の開拓者「吉野織部之助」が当初に建てた住まいは規模も小さく至って粗末なものであったと考えられるが、その後の建物も江戸末期には焼失したと伝えられている。 現存するこの家は江戸末期の焼失後に、第9代「文右衛門」の妻「かく」の実家が三ヶ島村(現・埼玉県所沢市)の名主「守屋氏」であったことから、その住宅を譲り受けて移築したものである。
 この建物は、嘉永4年(1851)に棟上げ、安政2年(1855)に完成したとあるので、現在までに150〜160年経過したことになる。 屋根は茅葺入母屋造、間取りは右土間形式、六つ間型、オクにはトコ・違い棚・付書院が完備され、玄関には式台がつけられている。 民家ではいたって格式の高い名主の建物となっている。 なお土間以外は天井貼りだが、その裏は養蚕用のスペースとなっていて、カッテの屋根裏は3重にもなっている。

東京都指定有形文化財(建造物)

旧吉野家住宅

所在地 青梅市新町三八三
指 定 昭和51年6月4日

 吉野家の始祖は織部之助といい、忍(おし)城主成田氏に仕える武士であった。彼は天正18年(1590)7月、主家の滅亡によって隣村の下師岡村に来住し、慶長16年(1611)からこの新町村の開発に着手している。以来、子孫は新町村に居住して代々名主職を世襲し、村内で高い地位を保ってきた。
 この建物は、幕末の安政2年(1855)3月、下長淵村(現青梅市長渕)の棟梁新兵衛らによって建てられたものである。
 桁行19.09メートル、梁間8.18メートル、入母屋造り、茅葺き、建築面積248.4平方メートル。
 建物は整形六ツ間型、正面に向って右側はダイドコロで前面に大戸を備え、隣接するカッテは板の間でイロリが切られている。左手奥の部屋(オク)は床(とこ)・違い棚・付書院が完備し、玄関は式台付である。天井裏にあたる小屋組みの内部には養蚕用のタナ・オオダナが設けられている。
 江戸時代末の名主階級の民家として、完成された多室間取りの姿をよく伝え、多摩地方を代表する貴重な建造物である。

平成2年3月31日建設
東京都教育委員会
(現地説明板より)

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鈴法寺跡

 かつて上総の一月寺と並び普化宗の両本山として栄えた虚無僧寺である。

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歴代住持の石塔

 慶応4年(1868)の神仏分離令と廃仏毀釈運動で、明治4年(1871)には廃宗廃寺となり、残された伽藍も明治28年(1895)の火災で焼失してしまった。現在は鈴法寺公園となり、傍らに歴代住持(住職)の石塔が質素な上屋の下に10基ほど並べられ、往時を偲べる唯一のものとなっている。
 慶長18年(1613)の建設には新町新田の開拓者「吉野織部之助」の庇護を受けて建てられた寺であるが、調べていく内にその経緯が面白い。

【建てられるまでの経緯】
 吉野織部之助は後北条氏の家臣で行田市の忍城主に仕えた武士であったが、落城後、村の土豪として身を立て、名主となった人物である。新田開拓にあたり、井戸を掘る技術者を探すために地方行脚の旅に出たところ、かつて忍城での戦死した同士(秋山惣右衛門)の子(惣太郎)に出会う。身寄りのない惣太郎は「月山養風」と号して、葦草村(いぐさむら=川越市)の「鈴法寺」の住職となっていた。織部之助の新田計画に惣太郎の助力もあり新町村に寺が移設されることになった。そして織部之助は開拓地の66区画の屋敷割りの中から三区画を寄進し、鈴法寺が建てられたという。

 その後の寺は、徳川幕府が普化宗を庇護したこともあり、千葉県の一月寺と並んで関東普化宗の総本寺格の扱いを受けるようになった。そして諸国から訪れる人も多くなり、市も立ち、宿も栄えることとなった。しかし盛者必衰、この繁栄も長くは続かなかった。
「新町村」の宿としては「青梅宿」から一里ほどという近さから、天保3年(1832)に青梅側から新町村の市が訴えられ敗訴、その権利を失うと、宿としても衰退していくことになった。(参考:青梅市史)

都旧跡 鈴法寺跡

所在 青梅市新町三六四番地の二
指定 昭和四十五年八月三日

 鈴法寺は普化宗本寺の一つとして武藏幸手の藤袴村に創設され、天文元年(1532)川越付近の葦草村に移った。
 慶長十八年(1613)、住持月山養風は、新町村を開拓した吉野織部之助と同じ忍藩士であった関係から、寺を新町村に再度移転した。
 徳川幕府は普化宗を庇護し、全国120余個所の普化宗寺院は鈴法寺を本寺としたため、明治四年十月の普化宗廃止まで栄えたが、明治二十八年に焼失、その東北隅に歴代住持の墓10基が残るに過ぎない。

昭和四十六年三月二十五日 建設
東京都教育委員会
(現地説明板より)

 

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東禅寺

 吉野織部之助が寺地を寄進したことからだろうか、「開基は、吉野織部之助正清」とある。(東禅寺HPより)

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東禅寺山門 右側のお堂がかつての鈴法寺伽藍の一部を移設した「観音堂」 2008.10.22 鉛筆・透明水彩

 幕府の宗門改に対応するために、新町村でも寺が必要となり、羽村の「一峰院」から秋岩和尚を請じて、屋敷割の中から北側東端の五区画を寺地として寄進して臨済宗建長寺派の寺院「東禅寺」が建てられた。「新田の東にある禅寺」というのが名前の由来だという。
明治4年(1871)に普化宗の「鈴法寺」が廃宗廃寺に遭った際、「鈴法寺薬師」と人々に尊ばれた観音堂と「鈴法寺」の扁額が、この寺に移設されて保存されている。観音堂は「新町薬師如来」として親しまれ、毎年の「新町薬師まつり」には薬師如来法要が執り行われている。

 


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