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左側の荒川から岩淵水門を通過して、隅田川が始まる。右手は隅田川に合流する新河岸川 2009/11/28

隅田川 ─ 蔵前・両国


 「蔵前」とは東京都台東区の隅田川西岸の地区で、厩橋(うまやばし)から蔵前橋の少し下流までを指す。
 江戸時代に隅田川河畔を埋め立て、幕府の米蔵(浅草御蔵)が造られた。(1620年) その蔵の前と言うのが「蔵前」という地名 の由来で、当時の絵図によると陸揚げされる八本の堀が船着き場に造られているのが見られる。 対岸の「御竹蔵」は幕府専用の広大な資材置き場で、広い入り堀で隅田川に繋がり、周囲を堀で廻らした場所となっている。竹蔵というほどだから竹材置き場だと推定するが、それにしても広大な面積を占めている。
 その当時は江戸の防衛上から現在のような数々の橋はなく、日光街道の「千住大橋」(1594年架橋)が唯一のもので、その後に架けられたのは明暦の大火(1657)で避難路確保の必要に迫られ架けられた「両国橋」(1659年架橋)であった。なお橋名は武蔵の国と下総の国を結ぶことからに由る。

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 「御竹蔵」は維新後、陸軍倉庫そして陸軍被服廠(ひふくしょう=軍服や軍靴を製造する工場)となったが明治24年には隅田川上流(岩淵水門)の赤羽台に倉庫群が移転している。その跡地が現在の横網町公園である。

蔵前橋 関東大震災の記憶 旧安田庭園 両国国技館 江戸東京博物館 回向院 両国橋

 <案内リスト>

  1. 蔵前橋
  2. 関東大震災の記憶
     東京都慰霊堂
     復興記念館・幽冥鐘
  3. 旧安田庭園
  4. 両国国技館
  5. 江戸東京博物館
  6. 回向院
  7. 両国橋

1万分1地形図(明治42年・陸地測量部)


 明治時代の地図を見ると「御竹蔵」がそっくり利用されているのが良くわかる。 南側は総武線の始発駅「両国」とその引き込み線が描かれていて、「秋葉原」と並んで割り堀を利用した物流運搬基地だったことが読み取れる。しかしその後、総武線と中央線が繋がることにより秋葉原が物流ターミナルとなりその陰に隠れてしまった。しかし千葉以東へ向かう多くの列車が始発駅としていたため、長らくターミナル駅として活況を呈していた。(1972年以降は東京駅始発となる)
 北側を占めているのが陸軍・被服廠の建物群である。共にこの引込堀が利用されたことを示していて、江戸時代の切り絵図からは大きく堀が延長されている事からも、この堀の重要性が良くわかる。ちなみに当時の被服廠は東京・大阪・広島の3ヵ所に配置されたが、被爆地広島には奇跡的に建物が現存している。詳しくはこちらからどうぞ。

蔵前橋

 「蔵前橋通り」(都道315号御徒町小岩線)が渡ることにちなんだ橋。 右岸の墨田区「蔵前」と左岸「横網」をつなぐ橋である。

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川下から見た「蔵前橋」(←右岸・左岸→)    2008.3.19 鉛筆・透明水彩

 蔵前橋というと橋の右岸にあった蔵前国技館(正字体:藏前國技館)を思い浮かべるが、それは昭和59年(1984)までのこと。現在の国技館は左岸の両国に移っている事は周知のことだろう。そのため国技館附近の墨田区横網(よこあみ)を横綱(よこづな)と長い間読み間違えていた。
 右岸の墨田区蔵前は江戸初期からあった「浅草御米蔵」(幕府の米蔵)があった所で、幕府の直轄地(天領)からの年貢米を収蔵することにちなんだ地名である。

 この橋の歴史を調べてみたら、意外にも関東大震災の復興計画で架橋され、それまでは「富士見の渡し」として渡船場があったところだった。
 たまたま橋の補修中だったので、この黄色に塗装された色は下地の色?位にしか思っていなかったら、なんと米蔵の「稲の籾殻」をイメージして選ばれた色とのこと。川を行き来する船のための「安全色」が本当のことではなかろうか。高欄には「力士」や「姉さん」のレリーフがはめ込まれているが、竣工当時の写真にはなかったので戦後の「蔵前国技館」完成と併せて取り付けられたものだろうか。
 さて、橋を渡ると横網町で、関東大震災や東京大空襲を今に伝える「横網町公園」がある。

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関東大震災の記憶・(横網町公園)

 大正12年(1923)9月1日午前11時58分に発生した関東大震災では、死者・行方不明者 : 142,800名 負傷者 : 103,733名、住家被害 : 全壊128,266戸、半壊126,233戸、焼失447,128戸という壮絶な被害をもたらしている。
 この地はかつての陸軍被服支廠が赤羽台に移り、そのあとを公園にと工事が始まったばかりであった。下町では貴重な広い公園地だったことにより数万人の人々が避難することとなった。しかし直後に起こる周りの火災で、その数4万人といわれている方々が亡くなられた。当時の写真を見ると遺体があちこちに山のように積まれて悲惨なことを物語っている。(写真集の
リンクを貼っておきます) そのほとんどは火災旋風が発生することにより、高温のガスや炎を吸い込み窒息死したものと見られている。
ちなみに阪神・淡路大震災では、死者:6,434名 行方不明者:3名 負傷者:43,792名、住家被害 : 全壊104,906戸、半壊144,274戸、焼失6,148戸
(データはフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による)

 そしてこの悪夢は昭和20年の東京大空襲で繰り返されることになる。B29による絨毯爆撃により焦土と化した人口密集地下町のこの避難地域はまた多くの死者を出すことととなった。3月10日の大空襲1日だけでも死者・行方不明者が10万人を超えるという。

東京都慰霊堂(震災記念堂)
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左:慰霊堂正面  右:裏に付属する納骨堂 2008.3.19 鉛筆・透明水彩

 この建物は関東大震災で特に被害の多かったこの地に「かかる惨禍がなきよう祈念する」として浄財を募って建立された「震災記念堂」(当時の名称)で、その後東京市に一切を寄付されたものである。
事業主体:東京震災記念事業協会 設計:
伊東忠太 完成:昭和5年(1930)
 その後の第二次世界大戦でも昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲を頂点として多数の犠牲者を出してしまった。その多数の身元不明の犠牲者は公園内に仮埋葬されたがその後逐次改葬、火葬され「震災記念堂」に併せて納められた。戦後「東京都慰霊堂」と名称が改められ、毎年3月10日に追悼行事が行われている。(1951年から)

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復興記念館・幽冥鐘(ゆうめいしょう)
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左:震災復興記念館  右:幽冥鐘 2008.3.19 鉛筆・透明水彩

 復興記念館は震災記念堂(現慰霊堂)の付属施設として建てられたもので、内部では震災被害の資料と共に戦災関係・宮城沖地震の資料も陳列されているとのこと。(未確認)
屋外では「震災記念屋外ギャラリー」として当時の猛火、熱風を思い出させてくれるような焼き爛れた鉄の被災品が展示されていた。
 幽冥鐘は中華民国仏教団の寄贈によるもので、震災記念堂の計画が確定されたことによりこの地に安置されることとなった。そのためこの鐘楼の鐘は見慣れた形ではなく、裾広がりの西欧式の形をしている。しかしカネツキは日本式だから上手く叩けるのだろうか?
 記念館も鐘楼もどちらも設計は伊東忠太のようで、記念館入り口上部柱頭には不思議な動物が、鐘楼屋根の棟飾りに龍のような動物が・・・と、この設計者のオバケ好みが発揮されている。

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旧安田庭園

震災・戦災の聖地のすぐ傍にこの公園がある。

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左は潮入を調整する水門。 右奥の建物は両国公会堂 2009.12.7 鉛筆・透明水彩

 江戸時代からあった庭園で、徳川綱吉の生母桂昌院の弟に当たる人物【本庄宗資(ほんじょうむねすけ)】(常陸国笠間藩初代藩主)の下屋敷に大名庭園として造られたものである。安政年間には隅田川の水を引入れて、潮入回遊庭園として整備された。明治22年(1889)には安田財閥の所有となり、大正11年(1922)には東京市に寄贈された。翌年の大震災ではかなりの被害があったと思われるが東京市により復元され、昭和2年(1927)には市民の庭園として開園されている。
 潮の干満にあわせて水位が変わるわけだが、現在では引込堀は埋め立てられ、水門は開かずのものとなっている。洪水時のことを思ったら今では恐ろしくて川と繋げられるものではない。しかし敷地内の地下貯水槽と池とをパイプで水のやり取りをして干満の再現を行っているそうである。残念ながら短時間の滞在では確認できなかった。
このような潮入庭園はその他に浜離宮恩賜庭園、旧芝離宮恩賜庭園、清澄庭園があるが、浜離宮以外は全て水門は閉鎖されてしまった。
 奥に見えるドーム屋根の建物は両国公会堂で、安田財閥・安田善次郎の寄付により建設され、大正15年(1926)に完成している。震災復興のシンボルに見えたことであろう。この建物は庭園と一緒にして保存するという条件が東京市に付けられて寄贈されたようである。竣工当時の名称は「本所公会堂」であったがその後「両国公会堂」、そして今回の訪問ではなぜか「墨田公会堂」というプレートが道路側に付けられていて廃墟状態で放置されていた。裏の事情はわからないが、条件付き寄贈の東京市(現東京都)から墨田区へ移管されたことにより、条件を無視して再開発・・・というような悪夢を見てしまうのだが・・・
何とももったいないことで当時の貴重な文化的遺産を一刻も早く改修・再利用されることを期待したい。

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両国国技館

 現在、「両国」と言ったら「国技館」と返ってくるのではないだろうか。それほどすぐに相撲が連想されるお馴染みの地名である。

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 2009.12.7 鉛筆・透明水彩

 それまでの蔵前に代わって、収容人数11,098人という昭和60年(1985)の1月場所から使われた両国国技館である。建設場所は旧両国貨物駅跡地で、その名の通り両国駅の隣となる。
実は「両国国技館」は2代目となる。その初代は明治42年(1909)に竣工した建物で、両国駅南の京葉道路に面した「回向院」境内にあった。詳しくは「回向院」参照。

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江戸東京博物館

両国国技館の隣に建つ巨大な建物である。街角からは見上げるほどの大きさで何度か通っても全体はつかめず、スケッチポイントは両国駅プラットホームからとなってしまった。

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左:両国国技館 と 右:江戸東京博物館 2009.12.7 鉛筆・透明水彩

 遠目にも近くに寄ってもユニークな建物である。この建物は失われていく江戸、東京の歴史と文化に関わる資料を収集、保存、展示することを目的とした博物館である。当初はこの形がどうしてもなじめなかったが内部に入ってみてちょっと理解した気分になった。傘の形をした上部の中は原寸大(実物)の建物が展示された無柱空間だったのだ。展示にもなかなか趣向を凝らしてあって、まず最初に実物大の日本橋を渡って江戸空間に入り込むようになっている。
この建物の設計者は上野池之端に建っていた旧法華クラブの設計者・菊竹清訓で、この巨大構造物もさりありなんとするものであった。

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回向院(えこういん)

江戸城をはじめ、市中の大部分を二日間にわたって焼いたといわれる明暦の大火(1657)で焼死者108,000体を葬るために建立された寺だが、天明元年(1781)以降、境内で勧進相撲が行われたことから、今日の大相撲の起源となっている。

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左:かつて境内にあった初代両国国技館(想像図) と 現在の回向院山門  2009.12.7 鉛筆・透明水彩

 寺の出自からわかるように、あらゆる無縁仏を宗派にこだわることなく埋葬し、さらには動物全ての供養もするという寺である。寺の正称はなるほどと思わせる「諸宗山無縁寺回向院」
 大相撲と関係が深いことから明治42年(1909)には同じ境内に初代両国国技館が建設された。この建物は当時としては巨大なドーム天井を持つ建物で、その形から大鉄傘(だいてっさん)の愛称で知られるものだった。しかし大正6年(1917)の出火・火災、大正12年(1923)の関東大震災、昭和20年(1945)の東京大空襲、と焼失と再建を繰り返してきた。さらに戦後は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)により接収され、接収解除(1952)の時には蔵前国技館の工事が始まっており、国技館としては不運な歴史を背負ってきた。そして最後は「日大講堂」となり、昭和57年(1982)の解体で不運な建物の歴史を閉じている。
設計は辰野金吾と教え子・葛西萬司

 

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参考文献:
 「江戸切絵図 今昔散歩」 佐々悦久・野村秀夫・菊池明 著
 「家康はなぜ江戸を選んだか」 岡野友彦 著
 「年表・隅田川」 真泉充隆 著

 

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