南千住駅からのかつての風景(想像) 左から「東京スタジアム」・「天王社」・「お化け煙突」・「千住大橋」
隅田川 ─ 千住
「千住」という名前から思い浮かぶのは、隅田川両岸の常磐線「南千住」「北千住」という駅名で、鉄道の通過駅として認識するぐらいのもので、ちょっと昔を振り返ってみると「東京スタジアム」とか「お化け煙突」などというものも思い浮かべる。 しかし最近の北千住駅は5路線にもなるというJRや私鉄が3層(4層か?)に入り乱れて相互乗り入れした一大ターミナル駅であり、駅前商店街は人の流れが絶えることなく賑わいのある街となっている。そしてこの商店街はかつての日光街道で、その時代の道幅(4間)そのままだというのだから驚かされる。以下この「街道」の秘密を探るべく散策してみた。
 赤印はリンクしてます。 緑印は説明が現れます。
江戸初期にまで時代を遡って千住をイメージしてみると、当時のこの辺りは現在の荒川(荒川放水路)は無く、隅田川(当時はこちらを荒川、それ以前は入間川と呼んでいた)と綾瀬川・利根川が合流するところで、いたるところが湿地帯だったようである。 上図の説明で昔の地形と比べてみてください
(ここにマウスを乗せると昔の湿地が現れます)
当時のこの辺りの街道は砂州を飛び石伝いに行くようなもので、千住宿は北や東方面に行く街道の分岐点として孤立した島状態のところに位置していたことが分かった。すなわち現在の北千住(千住1丁目〜5丁目)が宿場町で、その後に重要度が増してから南に延長され、さらには川を越えて南側にも街が形成されたのである。その当時の南側は浅草から見ると遥かに遠い寂しいところで小塚原と呼ばれ、処刑場のある場所だったのだ。
下図は「千住宿」の全容だが、川側に向かっていくつもの堤があることがわかる。水害から町を守った証しだが、現在のその姿は廻りと同じ高さとなって主要道路として現在に伝えている。
 荒川堤断面図
荒川堤は「日光道中千住宿村指出明細帳」によると高さ一丈二尺、馬踏四間、敷十六間と記されているからかなりのものだ。江戸の泰平時には桜並木が熊谷にも続く素晴らしい名所となっていたそうだが、その名残が浅草を中心とした川縁の桜並木ということになる。
 宿場町が千住宿の中心地からちょっとずつ南に延長されている(緑印は説明有り)
掃部(かもん)とはちょっと読めない文字だが、慶長(1596-1615)の始めに新田の開発を行い掃部堤を構築した石出掃部介吉胤(いしでかもんのすけよしたね)の名にちなんで掃部宿と呼ばれている。
では南側から北上して千住宿を歩いてみよう。
回向院 と 首切り地蔵
南千住駅のすぐ傍に大きな葵の御紋を外壁に付けた建物がある。このJR常磐線に接するように建っている建物が千住の原風景を想い描かせる回向院で、鉄道を潜って寺の前を通る道が日光街道(奥州街道)である。
回向院(えこういん)
左:常磐線に接するように建つ回向院 右:吉田松陰の墓もある、政治犯を主とした墓所 2010.3.3 鉛筆・透明水彩
この寺は本所回向院の別院だが、本所では埋葬しきれなくなり町から離れた、当時は浅草の外れ・隅田川の河原とも思われるこの場所に建てられた。じつはここは刑場のあるところで、その傍であることから処刑者の回向を兼ねていた。
この小塚原を有名にした一つは、明和8年(1771)に行われた刑死体の腑分けだろう。杉田玄白を初めとした当時の蘭学者が内容を完全には理解できないオランダ語の医学書から、掲載されている解剖図を確かめるためにこの刑死体を利用して確認したのだ。そしてその正確さに驚き急きょ和訳し刊行したのが「解体新書」である。そのためこの寺には観藏記念碑が日本医師学会、医学会、医師会の名前で掲げられている。
首切り地蔵
昔と変わらぬ地蔵さん 2010.4.3 鉛筆・透明水彩
この辺りを小塚原というが、江戸っ子はコツカッパラと呼んでいたことからこの辺の日光街道を「骨街道」とか「骨通り」といっていた。近くにあったといわれる火葬場のイメージがそう呼ばせた理由かも知れない。いかに町から外れた、うら寂しい所だったかと思わすに十分な話である。回向院の南側には常磐線と地上に出た営団地下鉄丸ノ内線が走り、この二つの路線に挟まれた(墓地となっている)せまい場所に今回探していた首切り地蔵をようやく見つけた。
江戸時代のこのあたりは浅草御仕置場とも呼ばれた処刑場で、処刑者を利用して刀剣の切れ味を試す、試し切りをしたところでもある。それら刑死者の菩提のために石の地蔵が立てられ、それが今に残る首切り地蔵である。 そして文明開化と共に忌まわしい場所を一切消去するかのように、鉄道で寺の境内をバラバラにしてしまったのが現在の姿だった。その結果か?首切り地蔵は今では決して表からは直に見えないが、往時のままの露座の姿でおわしていた。その姿は花崗岩の寄せ石造りで、高さ1丈2尺(3.6m)にもなるという立派なお姿である。
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天王社
牛頭(ごず)天王社・天王社・素盞雄(すさのお)神社と色々呼ばれているこの天王社とは何なのか? 以下 『ウィキペディア(Wikipedia)』から引用して、言葉の理解をしておく。
牛頭天王(ごずてんのう)とは、日本の神仏習合における神である。京都祇園や播磨国広峰山に鎮座する神であり、蘇民将来説話の武塔天神と同一視された。インドの釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神ともされ、祇園神とも呼ばれた。陰陽道では天道神と同一視された。神仏習合では薬師如来の垂迹であるとともに、スサノオの本地とされた。感神院祇園社から勧請されて全国の祇園社、天王社で祀られた。 (出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
日本の神は仏・菩薩が衆生救済のために姿を変えて迹(あと)を垂(たれ)たものだとする神仏同体であった。そして明治に入ってからの神仏分離令により、全国の牛頭天王を祭神としていた神社に対しては、全てその祭神をスサノオ尊に変えるか祭神のなかから牛頭天王を除外することが求められたのである。また天王が天皇に通ずるとして攻撃の対象でもあった。
素盞雄(スサノオ)神社
日光(奥州)街道は、日本橋から上野・寛永寺経由と浅草・浅草寺経由の2ルートがあり、この天王社前で合流して千住大橋を渡る。この社にはイチョウの大木が立ち並んでいたというからまさに格好のランドマークが「天王社 素盞雄神社」なのだろう。
東側の脇向拝正面。この日はひな祭りで何となく華やいでいる。 2010.3.3 鉛筆・透明水彩
拝殿は権現造り(向拝は流れ造り)千鳥破風つきで両脇向拝は唐破風造りである。当然伝統的な木造建築と思っていたら鉄筋コンクリート造のものであった。昭和20年の大空襲で壊滅的な被害にあったのだから、その轍を踏むことなくRC造を選んだのだろう。しかしよく古建築を研究して造られている。本殿は奇跡的に被災しなかったとのことで脇から見るとガラス張りの鞘堂の中に収まっている?ようである。 訪れた日はひな祭りの日と云うこともあり脇向拝の階段に沢山のひな人形が並んで迎えてくれていた。その傍にある大木は戦災にも耐え、焼け残ったものだろうか、沢山の絵馬で見事に飾られていた。
南千住の熊野神社
この神社は天王社とは直接の関係はないが、素盞雄神社が兼務管理に当たっているので並べておく。
本山は修験聖護院末竜王山大蔵坊新宮寺だが、源義家が奥州の阿部氏討伐の折、この川の洪水に出会い紀州熊野権現の神幣を取りだし祈願、恙無く軍兵を渡すことが出来たことによるという。そのため大橋との関わりは深く、最初の架橋時にはこの神社で祈願し、その残材で社殿を修理した。以後架け換え毎に祈願し、残材で社殿修理をすることが伝えられてきた。しかし現在の大橋は鉄橋で、先行きが心配である。
左:熊野神社 右:大橋の南詰は材木問屋が建ちならんでいた景色を偲ばせる建材店が建ち並ぶ
路地の奥が熊野神社 2010.4.3 インクペン・透明水彩
この神社に興味を覚えたのは大橋の守護神ということだけでなく、このあたりに材木問屋がたくさん建ち並んでいたということを知ったからだ。その問屋としての歴史は、木場(きば)で知られる深川の問屋より古いといわれている。江戸時代の隅田川右岸には、大橋を挟んで33軒もあったそうだが、荒川を利用して運ばれてきた「名栗の飯能筋」「高麗川筋」「秩父筋」を各々扱うたった3軒の問屋が全てを取り仕切っていたという。江戸の町から見たら西から川で運ばれてくる材木ということで、これらの材木を「西川材」と呼んで江戸の町に大量に出まわったのだ。 また穀物なども一緒に運ばれてきたので多くの倉庫も建ち並んでいたそうである。
なお当時は大橋を境にして上流側を荒川、下流側を隅田川といっていた。
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山王社 日枝神社
江戸時代には「山王社」として 明治になってから「日枝神社」と呼ばれている。
山王社は天台宗だったので廃仏毀釈により姿を変えたのだろう。
南千住の日枝神社
左図は神社の側面 背景の建物裏は川からの浸水を守る高い擁壁である 2010.2.21 鉛筆・透明水彩
この川縁に建つ神社は小塚原に続く中村町の鎮守である。この道が日光街道か?と最初に歩いた道だが、大違いで、左に折れていくとかつての材木商がずらりと並んでいた辺りらしい。風雨に晒された白木の小さな祠で目立つものもなく通り過ぎてしまうところだが、よく見てみると御神輿のように基礎を高くして祭りあげられてある。水浸し対策だろうか。
歯神様清兵衛堂
左の道正面が山王社となるので参道を守るお堂か? 2010.2.21 鉛筆・透明水彩
このお堂の前から山王社への参道が始まるようだが、現状はひどいもので回りはコンビニの駐車場になっていて、辛うじてこの一角だけが取り残されている。何か怨念を恐れているかのように・・・
江戸時代のこの一帯は「浅茅ヶ原」といって、御狩り場があったところ。将軍の鷹狩りに従ってきた清兵衛が、激しい歯痛におそわれ、これ以上お供が叶わぬと責任を感じてこの場所で切腹し果てたという。いまわの際に「歯痛に悩む諸人を救済せん」と祈念したことから、歯痛の神様として参詣するものが絶えなかったというお堂である。
右奥に延びる道は、かつての砂尾堤の名残で、震災後に造られた道である。「汐入土手」とも云われていたようだからこの辺一帯が逆流する海水から田畑を守る堤であったのだろう。
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隅田川・千住大橋
江戸時代は防衛上の理由から現在のような数々の橋はなく、隅田川を渡るには日光街道の「千住大橋」(1594年架橋)が唯一のものであった。その後に架けられたのは明暦の大火(1657)で江戸から避難路確保の必要に迫られ、架けられたのが「両国橋」(1659年架橋)であった。なんと65年間も隅田川唯一の橋であったのだ。
千住大はし
左は 橋の親柱詳細 遠く親柱が見える | 三本もの橋が架かっている大橋 (左から水道橋・大橋・自動車専用架橋) 2010.2.21 鉛筆・透明水彩 |
大橋は関東大震災にも焼け落ちることはなかったが、震災復興計画に基づいて現在の橋が昭和2年(1927)に鉄橋として架けられた。そして昭和48年(1973)には自動車専用道路が下流側に接して架けられ、上流側には工業用水道橋が架けられていて、とても川面を見渡すことは叶わない橋となってしまった。空を見上げてアーチ型の鉄橋を目でなぞって、かつての太鼓橋に思いをはせるしかないが、川の中には未だに当時の橋の木杭が眠っているそうだ。
船着き場(橋詰テラス)
水道橋の左岸下を覗くと・・・水上バス発着場だろうか 右手には橋の親柱が水面から建っている 2010.2.21 鉛筆・透明水彩
橋の北側は千住の木戸口・橋戸町で、橋戸河岸として食料・肥料・材木・石材・・・と多岐にわたる産物が荷揚げされたところだ。このあたりは潮が逆流し、そのことを利用すると簡単に海のものが入って来るので、昔から江戸に入った播州の赤穂塩や阿州の斉田塩など中国・四国地方のものから、薩摩の黒砂糖というような遠くのものも陸揚げされたそうだ。 松尾芭蕉も奥州へ旅立つときには浅草から舟で北上し、この岸に上陸して「奥の細道」が始まっている。汐入を利用すればそのほうが都合がよかったのだ。
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東京芸大千住キャンパス前通り
左側の通りは右が宿場町、左が河原とした境界になる通りで、この先は荒川上流の熊谷に、後ろは下流・向島に通ずるという長い堤があった跡である。荒川堤・熊谷堤と呼ばれ、西新井大師にも至ることからか大師道とも呼ばれていた。足立区役所を初めとした官庁施設の建ち並んでいた通りでもあったが、官庁街の再編成(再開発)で高層の建築物が建ち並ぶ通りとなっている。
左奥の高層建物は「東京芸術センター」、手前の「芸大キャンパス」と共に千住の新景観だ 2010.3.13 鉛筆・透明水彩
新しい千住のシンボルらしい「東京芸大千住キャンパス」がまわりの様子から突出して建っている。 この前の通りはかつては(当時は荒川といっていた)隅田川からの水害から守る荒川堤で、徳川吉宗が桜を植えて桜並木にしたという隅田川堤でもある。当時の飛鳥山と並び桜の名所だったところだが、千住宿に入る境界になり、堤の内側には低地であるが故の排水路(悪水堀)が流れていて、小橋を渡り宿場町に入ることとなる。その堤に一里塚があり、高さ二間にもなるという巨大な高札場もあった場所だ。
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東京芸術センター
広場の一角はかつての問屋場(といやば)と貫目改所(かんめあらためしょ)があったところで、昭和60年(1985)の発掘調査によって柱の位置が明らかになった。その場所を広場に書き込んで記憶に留めている。
問屋場とは江戸時代、宿場町全体の事務や旅人の世話をしたところで、貫目改所では荷物の重さ(貫目)を計り、人馬の荷物運搬が定量になるように定めた場所である。そして道の反対側(東側)には馬継場(伝馬継立)が設けられて、千住宿の入り口に取り締まり施設が全て配置されていたことになる。
さて、この芸術センターとはどういう施設なのか、広場があまりにも宿場町としての重要拠点なので、調べ損なってしまったが、足立区役所の跡地を再開発したことまでは確かなことである。
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勝専寺
土地の人は「赤門寺」と呼んでいるが、街道からも路地正面にこの赤い門が見える。赤塗りを許されたのは将軍の本陣に当てられたりして徳川幕府との関係が深かったためと云われている。
この門は震災・戦災を免れ江戸時代を今に伝える薬医門である。しかしその他の建物・塀は全てコンクリート造りの赤煉瓦張りという、ちぐはぐな外観は如何したことなのだろう。
「勝専寺史」によれば、勝専寺の創建年代は文応元年(1260)8月15日にも遡るそうだが現在の本堂はコンクリートを主体に、明治39年(1906)に建立された。改築の時、葵の御紋章の屋根瓦(一片が現存している)木造の本堂を取り壊すことについては、反対もあったようであるが、住職了眼師は天災地変の憂いのないようインドにある寺院を模して親しい建築家に造らせたといわれている。
赤煉瓦は赤門を意識して使用されたものと理解しよう。
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横山家住宅
千住宿もかなり北の方まで来ると商店街も疎らとなり、かつての面影を留める建物がところどころに見うけられる。その中で貴重な家構えの一つがこの紙問屋を営んでいた横山家の住宅で、現在の当主は七代目である。
左:「絵馬屋」 右:「横山家」 2010.3.3 鉛筆・透明水彩
船竭「りの屋根や細格子の窓の様子は江戸時代を忍ばせてくれる。庇の低さが気に掛かるが土間も道路より低いぐらいなので、度々の水害で道路の方だけに土盛りされた結果だろう。 七代当主と運良くお会いすることが出来、いろいろなことを伺えたが、現在も住まわれているお宅なので詳細は割愛、概略を記すこととする。
安政の江戸大地震(1855)で崩壊し、万延元年(1860)に建てられたもので、おもて店に母屋、内蔵とつながっている。その他3棟の蔵(東西二列に各2棟、計4棟)あって、荷物の運搬にトロッコを利用していたそうである。母屋に続く内蔵は天保元年(1830)のもので、一番新しい蔵でも明治3年(1870)とのこと。 なお現在は北側2棟の蔵はなく、一棟は関東大震災で崩壊、もう一つは屋敷見直しで処分された。その処分蔵が現在の「千住宿歴史プチテラス」で、河原町の街道に面して移設、区民の文化施設として利用されている。 当家は400坪という敷地だが、江戸時代の税制は屋敷の間口に比例して課税されるので、裏通りにまで達する細長い短冊形の敷地であったと思われる。 道の反対側に建つ家は、これは珍しい!「絵馬屋」である。
 昭和初期までの横山家風景(右は地蔵堂と長円寺参道)インクペン・透明水彩
天保の時代から業を続けて絵馬一途だそうで、日本でも絵馬専門では唯一の店ではないだろうか。店前のタタキが三角形になっているのは短冊形敷地が街道に斜めに接しているためだろう。
その絵馬屋の前から東に延びる道は長円寺への参道である。昭和初期までその入口には地蔵堂が建てられていて、井戸もあった。
しかし、かつての参道(2間巾)は広げられ、商店街として賑わっている旧街道に進入してくる自動車の迂回路となってしまった。
その後の地蔵堂は長円寺の境内堂として山門左側塀際に移され残されている。両袖には千住絵馬を奉納する棚が用意され、お百度参りの数取りに回す輪廻車も残っていた。その地蔵堂を参考にしたのが上図である。
水戸街道標石
この街道を歩いて、ところどころに標石が立っているのに気が付く。ヤッチャバでは「旧日光道中・是より西へ大師道」、街道の先では「北西へ旧日光道中・北へ旧下妻道」、どれも1mほどの高さの石柱に刻んだものだ。
 2010.3.13 鉛筆・透明水彩
そして横山家から北へ一丁(100m)行った辺りにも「北へ旧日光道中・東へ旧水戸佐倉道」と記した標石が立っている。しかしこの標石に替えられる以前のものを足立区立郷土博物館で偶然見つけた。左図の道標がそれである。いくつかに割れたのだろうか繕いの跡はあるが、刻まれた文字ははっきりしている。 水戸海道 とあるのが驚き!だった。東海道と同じように「海道」の文字を使っているのだ。これは海に沿って延びる道を意味しているのではないだろうか。
昔の霞ヶ浦(香澄流海)や北浦(鹿島流海)、印旛沼(印旛浦)、手賀沼(手上海)はつながり、大きな内海(香取海)だったようである。水戸へ行くにはその内海を右手にして進むはずだから湿地での困難やその身支度をする宿場町の道標としての「海道」だったのだろう。 千住宿も含め、いかに関東平野は低地だったかを気付かせてくれる道標であった。
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名倉医院
江戸時代より「骨接ぎの名倉」として、骨折、打撲、捻挫など外傷学を専門に治療している診療所
名倉医院は明和7年(1770)この地に創業した骨接ぎ医院で、現在は神田駿河台の方に整形クリニックもなさったいる本家である。この長屋門は江戸時代から保存されているのかは不明だが、その雰囲気は十分につたえてくれる木造建築である。
この先は荒川放水路の擁壁で行き止まり、宿場町はおしまいとなるが、街道は西に回ってさらに北上していく。
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荒川・千住新橋
荒川右岸の堤から見渡すと現代の日光街道は新たに開削された荒川の「千住新橋」を車の列が途切れることなく流れていく。そこには人影はなく、かつてあった宿場町を微塵も感じることなく・・・・・。
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Mozilla, Chrome, Opera & I.E. に対応(20150123)
参考文献:
「隅田川とその両岸 補遺」(上・中・下巻) 豊島寛彰 著
「足立風土記稿」地区編1・千住 足立区教育委員会文化課 編
「千 住」 足立区立郷土博物館千住宿町並調査団 編
「隅田川流域の古代・中世世界」 足立区立郷土博物館/すみだ郷土文化資料館/(財)宮本記念財団 編
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