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少林山達磨寺から碓氷川を越えた山並み 16.Aug.2005

高 崎 ・ 井上房一郎の描いた町


 高崎は中山道と三国街道の分岐点に当たる交通の要である。 慶長2年(1597年)家康の命によりその要地監視の為、箕輪(註1)城主井伊直政は和田城地(註2)に近代城郭を築き、翌年入城、箕輪より町家や社寺を移して現在の城下町とした。

 その城跡の現在の姿はかすかに櫓・石垣で偲ばれ、群馬音楽センター・市役所・広い公園として高崎市のシンボルゾーンとなっている。

註1:箕輪城は榛名山麓の台地上にこんもりと突き出た丘(群馬郡箕郷町西明屋)にあり群馬県を代表する中世の城である。 ローカルのためか、当時の遺構がまだ破壊されずに、かなりの部分がそのまま残っている。

註2:平安時代末期、この地には豪族和田義信が築城した和田城と呼ばれる城があった。

この町を知るときに忘れてはならない人物がいる。昭和初期から戦後にかけて高崎市のまちづくりに関わった「井上房一郎」である。
以下この井上と彼を巡る二人の建築家「ブルーノ・タウト」と「アントニン・レーモンド」の関わった建物を中心に町を歩いてみる。

少林山達磨寺 洗心亭


 郷土の建築家「久米権九郎」の計らいでナチス政権から逃れるために来日(1933年)した「ブルーノ・タウト」を、その久米から託された井上は、高崎市西の郊外にある禅寺、少林山達磨寺に住まわせ、生活の世話をすることとなった。(1934/8〜1936/10)

【タウトの日記から─1】 井上房一郎について

タウトの周りにはいつも警察の目が光っていたというから、当時の三国同盟前夜の状況が想像される。 当然反ナチの烙印を押されているタウトには建築家としての仕事が依頼されるべくもなく、ひっそりと息を潜めて暮らしていたと云うことだろう。

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少林山達磨寺参道と鐘楼門 2005.8.20 鉛筆・透明水彩

 高崎市内を流れる烏川と合流する碓氷川を市内から数キロ上ると一面の河原。 そこから一気に駆け上ると達磨寺。 その参道は監視する者にとっては来訪者も一目瞭然と云う環境であるが、そんななかでもタウトの指導を受けるために沢山の若者が訪れたという。

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少林山達磨寺洗心亭 2005.8.16 鉛筆・透明水彩

 その参道の更なる奥の離れに洗心亭はある。 こんな山の北斜面に建つ一軒家が、タウト夫妻の住まいなのである。

【タウトの日記から─2】 洗心亭について

下図は外から覗き見して描いた「間取り」だが、夏はともかく空っ風の群馬の冬は厳しい生活だったろうと容易に想像できることだ。 タウト自身この暮らしに不満だというような資料は見つからないが、ハレの装置である床の間の裏が雪隠になっていることに愚痴とも、はたまた日本文化の不思議とも云える一言をどこかで読んだ記憶がある。

【タウトの日記から─3】 床の間とその裏側

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タウト筆の石碑と洗心亭プラン 2005.8.16 鉛筆・透明水彩

洗心亭わきに据えられた石碑(750W,900H,100D)には、高崎に着いた当時の氏の筆になる書が刻まれている。

ICH LIEBE DIE JAPANISCHE KULTUR
24.8.34 Bruno Taut

(我、日本文化を愛す 1934.8.24. ブルーノ・タウト)


ここでの2年間に及ぶ生活の後トルコ政府から招聘され、井上には再来日を約束して日本を離れるが、1938年にはトルコボスボラス海峡を臨む自宅にて帰らぬ人となった。

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少林山達磨寺より碓氷川と山々を望む 2005.8.16 鉛筆・透明水彩

洗心亭や参道から北を望むこんな風景を毎日眺めていたのではなかろうか。

【タウトの日記から─4】 少林山を去る

離日の時は秋、正面に見えるはずの榛名山・赤城山は紅葉に彩られていたのだろうか・・

ブルーノ・タウト
 (Bruno Julius Florian Taut、 1880年5月4日- 1938年12月24日)

ドイツの東プロイセン・ケーニヒスベルク生まれの建築家、都市計画家。
ジャポニズム、アールヌーボーを通して日本に関心をもつ。
ベルリンで建築設計事務所開業、ライプチヒ国際建築博覧会での「鉄の記念塔」、ドイツ工作連盟ケルン展での「ガラスの家」、ジードルンク(住宅団地)で国際的な評価を受ける。
タウトは1932年,1933年にソ連で活動し、そのためナチスの台頭と共に親ソ連派とされてスイスに移動、その後日本インターナショナル建築会からの招待を機に1933年5月に日本に亡命した。
日本では、高崎の群馬県工業試験場高崎分場に着任し、家具、竹、和紙、漆器など日本の素材を生かし、モダンな作品を発表。
建築の機会は多くなかったが、桂離宮を評価した著書を著したり、熱海の日向別邸でインテリアデザインを行った。
1936年にトルコのイスタンブール芸術アカデミーからの招請により、イスタンブールに移住。国会議事堂の設計などで活躍したが、1938年にイスタンブールで死去した。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

高崎哲学堂 (旧井上邸)


第2次大戦中、レーモンドはアメリカに帰っていたが、戦後の1948年に再来日した。 戦前から懇意にしてもらっていた井上はまもなく再会、東京麻布の笄(こうがい)町に事務所・自邸を新築(1951)したレーモンド邸を訪れている。 彼はここをとても気にいって、その翌年、高崎の自宅を火災で失った機会に同氏の同意を得て高崎の地に建てたのがこの建物である。 同じプランを東西反転して和室を組み込んだものではあるが十分オリジナルの雰囲気を伝える貴重な建物である。

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旧井上邸 2005.8.20 鉛筆・透明水彩

 南面に連続する深い軒と、井上房一郎の作庭によるうっそうとした樹林が一つとなって、素晴らしい佇まいとなっている。 中央のガラス屋根のテラスは居間・寝室そして庭に囲まれた家の中心で、寝室の押上げ屋根と共に光や風が自由に舞い、レーモンドの作風を伝える貴重な建物として秀逸の空間だ。

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旧井上邸寝室 2005.8.20 鉛筆・透明水彩

 丸太の柱の外側に外壁を設けたいわゆる「芯外し」の手法で、建具を自由に動く形とし、斜めに棟木に向かう丸太の登り梁も、丸太の2ツ割の鋏状方杖で柱と一体化させ、天井を張らない構造体現しの意匠となっており、戦後のレーモンドスタイルの住宅の特徴を表わしている。
天井最上部にある空調ダクトは東西に建物全体を貫通して、設備に対して何のてらいもない。

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レーモンドデザインの椅子 2005.8.20 鉛筆・透明水彩

現場監理はノエミ・レーモンド夫人がおこなったと聞くが、ライトスタンドと共にこの椅子も夫人の手になるデザインだろうか。

井上の標榜する「美術・音楽・哲学」の最後の哲学の場を創ることをレーモンドと構想途中で亡くなってしまったが、その後の市民運動で井上邸の保存運動が起こり「財団法人高崎哲学堂」として2002年に発足、氏の夢であった「市民の寺子屋」として開放、活用されている。

なお、音楽堂構想は「群馬音楽センター」(設計:レーモンド)として、 美術館構想は「群馬県立近代美術館」として設計に若き磯崎新を起用し実現している。

群馬音楽センター


 井上は大戦後の荒廃した町に人々を励ますには音楽が必要と考え、「群馬交響楽団」を設立して自身も理事長となる。 市民の文化のためには市民の負担でするという考え方を基に市民からの寄付を募り、設計をアントニン・レーモンドに委託、1961年(S36)に完成した。

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群馬音楽センター 16.Aug.2005 鉛筆・透明水彩

 日本中には本格的な音楽ホールのない時代に、折版構造による打放しコンクリートと全面硝子張りのロビー構成で近代建築の明快なデザインをもつ音楽ホールの完成は当時の話題を賑わせた。 今でも日本はもとより世界の名建築の一つとして市民の自慢となっている。 竣工後40年以上経ていても古さを感じさせないデザインというだけでなく、現在でも十分に活躍しているこの建物は井上をはじめとした市民の愛情に支えられた建築の理想を感じる。

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群馬音楽センター・ホワイエ 16.Aug.2005 鉛筆・透明水彩

じつは訪ねた日の夕べには「群響サマーコンサート」があることを知り、帰京するのは深夜と覚悟で聴くことにした。
ホール・ホワイエ共に外壁の特徴である折版構造をそのまま現したインテリアは、音響効果を意識したデザインかとも思われるが、圧巻なのは2階ホワイエの全面硝子張り開口が公園に向かって大きく広がっていることである。 屋内に緑の木々と空が飛び込んできて、そこは空中の公園状態になるのだ。
なお2階ホワイエの壁画はレーモンド直筆のフレスコ画である。

 1階ロビーには「アントニン・レーモンド・ギャラリー」が設けてある。 音楽センターの設計過程の模型が展示されていて、当初の音楽専用ホールから、大衆の芸能も受け入れられるように変容していく様子がうかがえて面白い。また哲学堂の構想模型も展示されていて計画が充分な時間を掛けて構想が練られていることも市民に支持されている所以だろう。 そしてこの常設ギャラリー・・・・これほまでに、この町に愛されている建築家は幸せ者である。

アントニン・レーモンド
 (Antonin Raymond, 1888年5月10日 - 1976年10月25日)

 チェコ出身の建築家。プラハ工科大学で学んだ。
アメリカに渡り、ライトの事務所に入所。 帝国ホテル建設の助手として来日。その後日本に留まり、モダニズム建築の作品を多く残す。
日本人建築家に大きな影響を与えた。

1922年独立し、レーモンド事務所を開設する。ライトの影響が余りに強烈であったため、そこから抜け出すのに苦労したという。
聖路加国際病院などの設計をフォイエルシュタイン(Bed?ich Feuerstein オーギュスト・ペレの弟子)と共同で行ったほか、ル・ランシーの教会堂(ペレの代表作)をコピーした東京女子大学礼拝堂を建設した。
ペレを介してライトの影響から逃れ、モダニズム建築の最先端の作品を生み出すようになった。
前川國男、吉村順三などの建築家がレーモンド事務所で学んだ。
戦争が激化し、1937年一時アメリカに帰る。
アメリカ軍少将カーチス・ルメイは焼夷弾の効果を検証する実験のため、砂漠に東京下町の木造家屋の続く街並みを再現したが、この際、日本家屋のデータを提供したのはレーモンドであった。
帰米前に受けた外国人排斥と日本の軍国主義化に対する鬱憤のためであったという説もある。この実験は東京大空襲で生かされた。
(戦後、この点を一部の日本人建築家らから批判を受けた)
第2次世界大戦後、再度来日。モダニズムの理念に基づく秀作を多く残している。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


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