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玉川上水 羽村堰全景

玉川上水(小作〜羽村〜福生〜拝島)

多摩川上流マップ

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 玉川上水は江戸東京の代表的上水の一つである。その取水堰を訪ねてみたら、羽村辺りの地形と歴史を図らずも知ることとなった。

 多摩川は奥多摩湖・小河内ダムからを云うが、青梅までの山間部を東に、さらに南東に回り込み、羽村あたりで多摩丘陵と武蔵野台地の間を通り、現在では珍しいほど自然を残した姿で東京湾に注がれる川である。その羽村市辺りは長い間に隆起と浸食で川は対岸の草花丘陵を浸食移動し、河岸段丘を形成している。(二万年ほど前には現在の青梅線・羽村駅辺りは多摩川の流れている川の中であったとのこと:郷土資料館調べ)
取水堰に行く前にその辺りの周辺をみてみることにする。

阿蘇神社

 この神社の創建は大変古く、推古天皇九年(601)と伝える。その後、平将門の勧請(933)から始まり幾多の造営が繰り返され、小田原の北条氏は二十貫文の神領を、徳川家康は二丁四方の馬場を寄進、神馬を放牧、家光は十三石の朱印領を寄進・・・と神社説明碑にあった。

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左手は多摩川、奥に見えるのが小作取水堰 2008.06.28 鉛筆・透明水彩<

 河岸段丘のまさに川縁にあるのがこの神社で参道は川を左にして延々と続いている。
江戸時代の度重なる寄進は玉川上水堰の上流に当たるこの地を聖域にする思惑と考えられる。この広々とした川縁に神馬が放牧され、人の近づけない聖域にしたのだろう。
水彩用の水を川から汲んでから立て看板に気付き、思わず足が竦んでしまった。

このあたりマムシが出ます。注意!

後になって考えたら、これは現代の聖域にするための手段だったのか・・・・・?

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五ノ神社・まいまいず井戸

 この五ノ神社は熊野五社大権現を祀ったもので、現青梅線の「羽村駅」すぐ近くにある。阿蘇神社と同じく推古天皇九年(601)の創建と伝えられる。傍らにすり鉢状の穴があるがこれが「まいまいず井戸」と呼ばれる井戸である。

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左手奥が五ノ神社 2008.06.28 鉛筆・透明水彩

 「まいまいず」とはカタツムリのことで、井戸に向かって降りる通路の形から名付けられている。五ノ神社は熊野神社とも呼ばれていたのでこの井戸を「熊野井戸」とも呼ばれる。
 河岸段丘で形成されているこの辺りは水位もかなり低くなり、砂礫層を深く掘る技術を持たない時代の素晴らしい土木工作物である。記録に依れば鎌倉時代には既にあったようだが、神社と共に集落が形成され、その頃には立派な水場として存在していたのではないだろうか。そしてだんだんと深く掘っていったと云うことだろうか。

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羽村の民家・旧下田家

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2008.06.28 鉛筆・透明水彩

平面図

 羽村の代表的民家が羽村市郷土博物館裏に残されてあった。
旧下田家は、弘化4年(1847)に建築された入母屋造・茅葺民家で、この地方の一般民家の姿を留めている・・と説明書きに記してある。
いろりには今でも火をたいて人が住んでいる状態に保っていて、訪問時にも薪が焼べてあった。入母屋の造りなので真冬はかなり厳しいことだろうから昼夜火は途切れることはなかったことだろう。床の間裏のニッチ状の場所が薪置場と分かって住人の几帳面さが感じられた。
 入り口(大戸)脇の小部屋は行水をするところとのことで床は竹のスノコでできている。さらにその下(床下)には桶が土間に埋め込まれていて柄杓で汲み出せるようになっている。農作業から帰ったあとの身体流しに貴重な水を大事に使ったことが想像される。当初は便所かと思ったが、厠は戸外に別建物であったのだろう。


さて、ここから羽村の堰に入る

 玉川上水は羽村の堰から江戸四谷大木戸まで水平距離約43km、高低差約92mという、平均にして勾配1/500という緩やかな勾配を淀みなく流れる。そしてこの流れが多摩川と荒川に挟まれた武蔵野台地のほぼ分水界(尾根)を流れる経路を取ることで、台地の表面排水を上水に注ぐことなく江戸に導かれていることを知ると、当時の測量を初めとした様々な土木技術には驚かされるものである。
 この工事を7ヶ月(1年半という説もある)という超短期間で成し遂げてしまったという当時の技術とはどんなものだったのだろうか?羽村市郷土博物館である程度はわかったもののほとんどは記録がないとのことで、想像するしかないのだ。

 現在は堰下公園にこの難工事を成し遂げた英雄として「玉川兄弟(庄右衛門・清右衛門)の像」が建てられている。
しかしこの伝説の英雄も意外にも
隠された歴史があることを知った。

玉川水神社と陣屋跡

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水神宮とかつての陣屋門 2008.06.28 鉛筆・透明水彩

 玉川水神社は東京水道の守護神で、玉川上水が承応三年に完成した際、水神宮としてこの地に建立されたものである。今は前面の道路を挟んで羽村堰を見守っている。
そしてこの上水の管理をしていたのが陣屋と称する役所で、現在は「東京都水道局羽村取水所」と名称を替えてその役を担っている。そのかつての門(陣屋門)が水神社脇に残されている。
この管理役職は、江戸から明治に変わるときに引き継ぎがスムーズに行くよう引き継がれ、その後は世襲制で行われているとのことを以前どこかの資料で読んだ記憶があるが今もそうだろうか。

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羽村取水堰・第一水門・第二水門

 第一水門は多摩川からの取入れ口、第二水門は取り入れた水を下流に流す水門である。その中間には増水時に水門に流れ込んだ余分な水や土砂を多摩川本流に排出する小吐水門(小吐口・こはきぐち)がある。ここで第二水門の水量の多いことにはびっくりで、これが全部玉川上水となるのであろうか?

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右手が多摩川本流に張り出した羽村取水堰
中央一列に並ぶのが取入れ口である第一水門(二種類ある)と吐水門
正面奥が第二水門 2008.06.14 鉛筆・透明水彩

 取水堰とは川を堰き止めて水を引き込むものだが、ダムのように完全に堰き止めるのでなく丸太・板などによってかなりの水量を漏らしながら取り込むようになっている。江戸当初からの方法が今でも活かされている。更にはこの場所は上流の材木を下流に流す要所でもあり、そのための場所も確保された。当時の位置と技術は基本的には変わらず受け継がれている。
第一水門は二種類の構造形式で構成されていて、手前の水門はこの中では新しい(昭和のもの?)と推察されるRC造のものと、多分一番古い(明治のもの?)と思われるレンガによる組積造で櫛形アーチで掛け渡されたものが並んでいる。吐出門も古い取入れ門と同時期のものだろうか、同じアーチ形式の石造である。

左図は吐出門

第一水門は新・旧の取入れ門が並ぶ

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第三水門

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左から流れてきて正面が第三水門。右端は揚水ポンプ所への水門。 2008.06.14 鉛筆・透明水彩

 とうとうと流れる第二水門からしばらく行くと、この第三水門にであう。
ここに来てこの水全部が玉川上水として流れるのではないことが分かった。一番大きな水門が第三水門で、村山・山口貯水池に送られ、巡りめぐって都民の水となる。右端の水門の先は羽村揚水ポンプ所で、ここから小作浄水場に逆送され、羽村市民の用水となる。
その間のほんの小さな水門が玉川上水の出発点で、あの第二水門の大量な水に納得した。

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堂橋

 羽村揚水ポンプ所のほど近くに、堂橋が架けられている。

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第三水門から流れてきた上水 2008.06.14 鉛筆・透明水彩

 あの小さな水門を通過した上水は一変に表情を変える。法面をモルタルで保護された玉石積の擁壁で構築された川幅の広いこと・・・。
左手の急斜面と右手の低い土手堤は、新宿大木戸までの長い旅を前にして、少しでも水位を保っておこうと云う工夫の結果だ。
この堤には桜が植えられていて、春にはさぞかしきれいな並木道となろうと想像する。

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宮本橋

 堂橋から30分ほど下るとこの宮本橋に至る。今までこんもりとした林の中を流れていた上水だが目の前が一変してひらける。

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左の道路は奥多摩街道 2008.06.14 鉛筆・透明水彩

 羽村あたりでは一段上の段丘を走っていた奥多摩街道が、ここで合流する。玉川上水のフェンス際を大型トラックが頻繁に走り、この橋を境に上水は福生市内を流れていく。
玉川上水といえば地面からかなり深い所を流れるものと思っていたが、まだ多摩川縁を流れているので地面ギリギリの水位である。これから武蔵野扇状地を下っていくことになる。
右手を見ると黒塀の家並み・・・酒蔵のようだ!

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田村用水

 宮本橋から100mほど下ったところに取水口があった。このお屋敷の佇まいに見えるのが造酒屋「田村酒造」裏口である。渡しは堰板で水位を調節するためのもので、その右手に水門調整弁が見える。江戸時代は一升枡程の給水口を数センチほど開いて取入れ、その調整は水守により厳しく管理されていた。現在でも都水道局により守られていて、田村家は一切触れることは出来ないとのこと。

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田村用水の取水口 2008.07.19 鉛筆・透明水彩

 玉川上水は当初から江戸の飲料水として引き入れる目的があるため原則的に周りに分けられることはなかった。しかし地元有力者の願望を無視できなくなり、やがて少しずつ分けられていった。
ここ田村家でも寛政2年(1790)、幕府より取水権を得て敷地内に取り入れ、精米用の水車や洗米を初めとした用水として利用され、その後は地域の灌漑用水・生活用水として利用されてきた。

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田村酒造

 文政5年(1822)、田村家九代目勘次郎の手により造り酒屋という家業を興し、蔵元としての歩みを始めた。(パンフレットによる)

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田村酒造の酒蔵 2008.06.14 鉛筆・透明水彩

 黒塀と白漆喰の壁の酒蔵が連なり見事な敷地内であるが、特にこの赤レンガの煙突が見事で目に付いた。右手に見える大ケヤキ傍に秩父奥多摩伏流水が湧きだす井戸があり、この水は酒造りに最適と云う中硬水で、「嘉(よき)泉」として讃え、酒銘を『嘉泉』としている。

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熊野橋

この橋を境にして、玉川上水は奥多摩街道と左右入れ替わり、河岸段丘の中を流れていく。

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多摩橋通りと交差する熊野橋 2008.07.19 鉛筆・透明水彩

 奥多摩街道を渡る歩道橋から眺めると、崖線に沿って流れているのがよくわかる。右手は多摩川対岸(あきる野市)へ渡る多摩橋で、この交差点あたりは熊野神社があった高台で、そのことが橋の名前の由来とのこと。

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熊野橋下の民家

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左奥は多摩橋通りを潜る架橋 2008.07.19 鉛筆・透明水彩

 崖下に降りて昔ながらの町を発見した。多摩橋から熊野橋に登っていく多摩橋通りが塞いでしまった通りがあり、昔の生活を感じさせる民家が残っていた。何を生業にされているのかは不明だが、整然とした板垣と防風林、そして立派な倉・・・本来の街道はこの崖下にあったのでは、と想像させる。

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牛浜橋

この橋はかつての五日市街道に架かる橋として、当初から重要なものであった。そのため明治期になると石造のめがね橋の姿で架けられた程だという。現在の高欄は灯台のような形をしているが、擬宝珠高欄のなごりか?いや、当時もそうだったのだろうか?

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牛浜橋 2008.07.19 鉛筆・透明水彩

この先(右手)の奥多摩街道を越えると多摩川に出て、大正期まであったという「牛浜の渡し」を経て、五日市に至るというのが当時の街道であった。(現在は熊野橋下の「多摩橋」で渡ることになる)
五日市街道はJR武蔵五日市駅前から杉並区高円寺南(梅里)で青梅街道に合流するまでの約42qの街道をいうが、現在では米軍横田基地で分断されていて、この辺りはそのルートを辿ってもよく判らなくなってしまっている。

牛浜橋

現在の牛浜橋は、昭和52年3月に架け替えられたものであります。
牛浜橋は、東京と甲州を結ぶ五日市街道に架ける橋として、馬車や牛車の往来により在来の木橋では破損が多く、管理費の負担は大変でした。
明治初期に新政府が東京市の近代化を図るために熊本より石工を招き、二重橋をはじめ木橋を洋風の眼鏡橋に架け替えたことを見聞きした住民が、牛浜橋に取り入れ、明治10年12月に、めがねばしと愛称された牛浜橋は建設されました。
平成4年度に行った玉川上水橋梁群整備では、石と鋳物を用いて歴史的風景を取り入れ、親柱や高欄、歩道舗装の改善などを行いました。

橋  長 12.5m
幅  員 11.3m
構造形成 PCプレテンション床版桁橋
架設年次 昭和52年3月

(橋たもとの説明板より)

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水喰土(みずくらいど)

 珍しい名前である。「水喰土」と書いて「みずくらいど」と読む。拝島駅近くのこのあたり(現・水喰土公園)は河岸段丘(立川段丘)の端にあたり、現在はJR青梅線と八高線で挟まれたあたりを云う。
 かつては玉川兄弟による上水の取水に、国立あたりで失敗、次に福生市熊川から引いたが、この地で水が地中に吸い込まれてしまったという言い伝えがある。それから「みずくらいど」「みずくらんど」と呼ばれたという。

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左手奥が玉川上水、その間は盛土による土手が築かれて、新旧の堀が平行に走っている。
2008.07.19 鉛筆・透明水彩

 羽村堰から南東に流れてきた玉川上水はこのあたり(立川段丘崖線)から東の方に向きを変えることになる。この開削工事跡は崖線に沿った工事が水の吸い込み層に当たって失敗したため、堀を新たに北に移した名残である。そのため新しく掘られた玉川上水の右岸には人工的な土手が拝島駅近くまで築かれていて、漏水の対策を図ったものと思われる。

 さて・・・拝島駅も間近の熊川まで来てしまったから、ちょっと寄り道してみよう。

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石川酒造

 文久3年(1863)に始まるというこの造酒屋。しかし当初は多摩川対岸の小川村で始まり、福生村の田村酒造とは店内関係であったという。明治14年(1881)になって現在地の熊川に酒蔵を建ててから場所を移し、現在まで120年余りの歴史を持つ。
創業当初の商標名は「八重桜」であったが、これは小川村の森田酒造の「八重菊」と姉妹関係を示す名前とのこと。大正8年(1919)に「八重梅」に改名、昭和8年(1933)から現在の「多満自慢」を使用している。(資料館資料による)

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本蔵と夫婦欅。その間を熊川分水が流れている。 2008.07.19 鉛筆・透明水彩

 正面大屋根の建物がこの地での操業当初からの「本蔵」で、右手の蔵は明治30年(1897)から熟成に使われている「新蔵」。左奥は「文庫蔵」(これらの建物は全て国登録有形文化財)
石川家は、明治19年(1886)から明治23年(1890)にかけて熊川村民と共に巾1m、長さ2kmの分水堀(熊川分水)を引き込んだ。その遺構は敷地内に形を留めていて、かつては水車も設けられ、精米や発電に利用されていたという。

 夫婦欅は樹齢400年になる大木である。根元の祠に、お米の神様(大黒様)と水の神様(弁天様)が祀ってある。ここ熊川では、二人の神様を夫婦としてあがめる信仰があるという。

 更に奥に行くと、酒造に欠かせない水を汲む井戸が御神木と称する大木の脇に保存されていた。昔からの言い伝えで「大木の下には良い水が湧く」と言うそうだが、樹齢700年を超えたというこの御神木の下にも美味しい水が湧き、井戸を満たしていたのだろうか?

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欅の御神木(福生市指定天然記念物)と井戸 そして「麦酒釜の館」 2008.07.19 鉛筆・透明水彩

石川酒造はなんと明治21年(1888)から「日本麦酒」(英文ラベルはJAPAN BEER)の商標で、ビールの醸造を始めている。
当時、麦芽モルトを煮込んだものだろうか・・・使われていた大釜が残されていた。それを格納している建物が「麦酒釜の館」で、傍らに大釜の由来が記してあった。

 明治二十年(1887)石川酒造ではいち早くビールの醸造を開始「日本麦酒」の商標で発売した
 出荷先は地元、横浜、川越、深川浅草、赤坂田町、馬喰町、牛込と広範なるも舶来文化なるものがあまりにも時期尚早であった所以をもちやむなくわずか三年で醸造は中止された
 この「麦酒釜の館」はそんな歴史の証として奇しくも百年目に当たる一九八七年、塩野谷博山先生に設計を依頼し建立したものである

当主 石川弥八郎

【注 釈】 日本の麦酒の歴史は明治になってからで、
 明治18年(1885) キリンビール(JAPAN BREWERY)の「麒麟」
 明治20年(1887) 日本麦酒の「エビスビール」
 明治21年(1889) サッポロビールの「レッドスター」
 明治22年(1889) 大阪麦酒の「旭」
・・・と この時代に現在に繋がる醸造所が現れている。
  (もう少し詳しい情報は
こちらから

 最近の地ビール人気からだろうか、石川酒造も東京地ビール「多摩の恵」として平成10年に復活生産している。
この造酒屋は田村酒造と違ってなかなか商売熱心で、敷地内にパブやレストランを用意し、その場で楽しませてくれる。さっそく地ビールからは上面発酵の「ペールエール」を、地酒では純米酒の「熊川一番地」を注文、本日はこれにてスケッチは終了。


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