羽村の民家・旧下田家

平面図
羽村の代表的民家が羽村市郷土博物館裏に残されてあった。
旧下田家は、弘化4年(1847)に建築された入母屋造・茅葺民家で、この地方の一般民家の姿を留めている・・と説明書きに記してある。
いろりには今でも火をたいて人が住んでいる状態に保っていて、訪問時にも薪が焼べてあった。入母屋の造りなので真冬はかなり厳しいことだろうから昼夜火は途切れることはなかったことだろう。床の間裏のニッチ状の場所が薪置場と分かって住人の几帳面さが感じられた。
入り口(大戸)脇の小部屋は行水をするところとのことで床は竹のスノコでできている。さらにその下(床下)には桶が土間に埋め込まれていて柄杓で汲み出せるようになっている。農作業から帰ったあとの身体流しに貴重な水を大事に使ったことが想像される。当初は便所かと思ったが、厠は戸外に別建物であったのだろう。
さて、ここから羽村の堰に入る
玉川上水は羽村の堰から江戸四谷大木戸まで水平距離約43km、高低差約92mという、平均にして勾配1/500という緩やかな勾配を淀みなく流れる。そしてこの流れが多摩川と荒川に挟まれた武蔵野台地のほぼ分水界(尾根)を流れる経路を取ることで、台地の表面排水を上水に注ぐことなく江戸に導かれていることを知ると、当時の測量を初めとした様々な土木技術には驚かされるものである。
この工事を7ヶ月(1年半という説もある)という超短期間で成し遂げてしまったという当時の技術とはどんなものだったのだろうか?羽村市郷土博物館である程度はわかったもののほとんどは記録がないとのことで、想像するしかないのだ。
現在は堰下公園にこの難工事を成し遂げた英雄として「玉川兄弟(庄右衛門・清右衛門)の像」が建てられている。
しかしこの伝説の英雄も意外にも隠された歴史があることを知った。
玉川水神社と陣屋跡
玉川水神社は東京水道の守護神で、玉川上水が承応三年に完成した際、水神宮としてこの地に建立されたものである。今は前面の道路を挟んで羽村堰を見守っている。
そしてこの上水の管理をしていたのが陣屋と称する役所で、現在は「東京都水道局羽村取水所」と名称を替えてその役を担っている。そのかつての門(陣屋門)が水神社脇に残されている。
この管理役職は、江戸から明治に変わるときに引き継ぎがスムーズに行くよう引き継がれ、その後は世襲制で行われているとのことを以前どこかの資料で読んだ記憶があるが今もそうだろうか。
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羽村取水堰・第一水門・第二水門
第一水門は多摩川からの取入れ口、第二水門は取り入れた水を下流に流す水門である。その中間には増水時に水門に流れ込んだ余分な水や土砂を多摩川本流に排出する小吐水門(小吐口・こはきぐち)がある。ここで第二水門の水量の多いことにはびっくりで、これが全部玉川上水となるのであろうか?
取水堰とは川を堰き止めて水を引き込むものだが、ダムのように完全に堰き止めるのでなく丸太・板などによってかなりの水量を漏らしながら取り込むようになっている。江戸当初からの方法が今でも活かされている。更にはこの場所は上流の材木を下流に流す要所でもあり、そのための場所も確保された。当時の位置と技術は基本的には変わらず受け継がれている。
第一水門は二種類の構造形式で構成されていて、手前の水門はこの中では新しい(昭和のもの?)と推察されるRC造のものと、多分一番古い(明治のもの?)と思われるレンガによる組積造で櫛形アーチで掛け渡されたものが並んでいる。吐出門も古い取入れ門と同時期のものだろうか、同じアーチ形式の石造である。
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牛浜橋
この橋はかつての五日市街道に架かる橋として、当初から重要なものであった。そのため明治期になると石造のめがね橋の姿で架けられた程だという。現在の高欄は灯台のような形をしているが、擬宝珠高欄のなごりか?いや、当時もそうだったのだろうか?
この先(右手)の奥多摩街道を越えると多摩川に出て、大正期まであったという「牛浜の渡し」を経て、五日市に至るというのが当時の街道であった。(現在は熊野橋下の「多摩橋」で渡ることになる)
五日市街道はJR武蔵五日市駅前から杉並区高円寺南(梅里)で青梅街道に合流するまでの約42qの街道をいうが、現在では米軍横田基地で分断されていて、この辺りはそのルートを辿ってもよく判らなくなってしまっている。
牛浜橋
現在の牛浜橋は、昭和52年3月に架け替えられたものであります。
牛浜橋は、東京と甲州を結ぶ五日市街道に架ける橋として、馬車や牛車の往来により在来の木橋では破損が多く、管理費の負担は大変でした。
明治初期に新政府が東京市の近代化を図るために熊本より石工を招き、二重橋をはじめ木橋を洋風の眼鏡橋に架け替えたことを見聞きした住民が、牛浜橋に取り入れ、明治10年12月に、めがねばしと愛称された牛浜橋は建設されました。
平成4年度に行った玉川上水橋梁群整備では、石と鋳物を用いて歴史的風景を取り入れ、親柱や高欄、歩道舗装の改善などを行いました。
橋 長 12.5m
幅 員 11.3m
構造形成 PCプレテンション床版桁橋
架設年次 昭和52年3月
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石川酒造
文久3年(1863)に始まるというこの造酒屋。しかし当初は多摩川対岸の小川村で始まり、福生村の田村酒造とは店内関係であったという。明治14年(1881)になって現在地の熊川に酒蔵を建ててから場所を移し、現在まで120年余りの歴史を持つ。
創業当初の商標名は「八重桜」であったが、これは小川村の森田酒造の「八重菊」と姉妹関係を示す名前とのこと。大正8年(1919)に「八重梅」に改名、昭和8年(1933)から現在の「多満自慢」を使用している。(資料館資料による)
正面大屋根の建物がこの地での操業当初からの「本蔵」で、右手の蔵は明治30年(1897)から熟成に使われている「新蔵」。左奥は「文庫蔵」(これらの建物は全て国登録有形文化財)
石川家は、明治19年(1886)から明治23年(1890)にかけて熊川村民と共に巾1m、長さ2kmの分水堀(熊川分水)を引き込んだ。その遺構は敷地内に形を留めていて、かつては水車も設けられ、精米や発電に利用されていたという。
夫婦欅は樹齢400年になる大木である。根元の祠に、お米の神様(大黒様)と水の神様(弁天様)が祀ってある。ここ熊川では、二人の神様を夫婦としてあがめる信仰があるという。
更に奥に行くと、酒造に欠かせない水を汲む井戸が御神木と称する大木の脇に保存されていた。昔からの言い伝えで「大木の下には良い水が湧く」と言うそうだが、樹齢700年を超えたというこの御神木の下にも美味しい水が湧き、井戸を満たしていたのだろうか?
石川酒造はなんと明治21年(1888)から「日本麦酒」(英文ラベルはJAPAN BEER)の商標で、ビールの醸造を始めている。
当時、麦芽モルトを煮込んだものだろうか・・・使われていた大釜が残されていた。それを格納している建物が「麦酒釜の館」で、傍らに大釜の由来が記してあった。
告
明治二十年(1887)石川酒造ではいち早くビールの醸造を開始「日本麦酒」の商標で発売した
出荷先は地元、横浜、川越、深川浅草、赤坂田町、馬喰町、牛込と広範なるも舶来文化なるものがあまりにも時期尚早であった所以をもちやむなくわずか三年で醸造は中止された
この「麦酒釜の館」はそんな歴史の証として奇しくも百年目に当たる一九八七年、塩野谷博山先生に設計を依頼し建立したものである
当主 石川弥八郎
【注 釈】 日本の麦酒の歴史は明治になってからで、
明治18年(1885) キリンビール(JAPAN BREWERY)の「麒麟」
明治20年(1887) 日本麦酒の「エビスビール」
明治21年(1889) サッポロビールの「レッドスター」
明治22年(1889) 大阪麦酒の「旭」
・・・と この時代に現在に繋がる醸造所が現れている。
(もう少し詳しい情報はこちらから)
最近の地ビール人気からだろうか、石川酒造も東京地ビール「多摩の恵」として平成10年に復活生産している。
この造酒屋は田村酒造と違ってなかなか商売熱心で、敷地内にパブやレストランを用意し、その場で楽しませてくれる。さっそく地ビールからは上面発酵の「ペールエール」を、地酒では純米酒の「熊川一番地」を注文、本日はこれにてスケッチは終了。
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