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玉川上水 羽村堰全景

玉川上水(拝島〜砂川〜玉川上水)

多摩川上流マップ

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 これまで上流から下ってきて拝島駅一歩手前で中断してしまった。そこには玉川上水とJR線とを一跨ぎしてしまう程の大きな陸橋(武蔵野橋)の架け替え工事中で、その道路が国道16号線になる。
今回はそこからの再出発である。

どんぐり橋と日光橋(熊川水衛所跡辺り)

 国道16号線高架橋は、昭和40年(1956)に鉄道と上水を一跨ぎにする新道として設けられた橋であるが、その基となった橋がそのすぐ下流に残っている。この道は埼玉・群馬方面と八王子とを結ぶ主要な日光脇往還(脇街道・脇道)であり、玉川上水を渡るのが日光橋である。しかし車社会となった今日、日光橋を迂回する武蔵野橋が設けられて旧街道は拝島駅が割り込む形で行き止まり、この橋の役目も終わった。

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左:どんぐり橋と武蔵野橋(国道16号線)  右:日光橋 2008.07.19 鉛筆・透明水彩

 高架橋下は、かつて(昭和38年まで)熊川水衛所があった場所である。水衛所の役目は監視・水路補修・分水の開閉・芥揚げなどの上水管理である。終日管理であるから家族同居の住居があり、多くが世襲制だとのこと。玉川上水では羽村取水口から四谷大木戸の終点までに8ヶ所の水衛所が設けられていて、この熊川水衛所は上流から最初の地点であった。現在では、この先の砂川水衛所と小川水衛所とともに統合されて、小平監視所となってその役を引き継いでいる。

 現在のこの辺りは当時の気配を感じさせるものは全くなく、巨大な陸橋とその下に玉川上水緑地として整備されてはいるが、児童遊具が設置されているのが侘しい。高架橋脇のどんぐり橋親柱に付いている明かりが、辛うじて往時の水衛所屋敷を偲ばせるものだろうか。
 日光橋は主要な橋であったので傷みも激しく、明治24年(1891)にはレンガ積のアーチ橋の架構が採用された。そして昭和25年(1950)に現在の鉄筋コンクリートに架け替えられているが、当時のアーチを偲ばせる架構である。

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平和橋・拝島分水口

 拝島駅北口に出るとその先に福生市・立川市・昭島市・武蔵村山市・羽村市・瑞穂町の5市1町に跨っている米軍横田基地がある。本州最大の米軍基地であり、極東地域全体の輸送中継兵站基地である。そして現在(2008)日本国内では唯一、軍需物資の輸送が鉄道貨物により定期的に行われている施設でもある。その基地への引込み線が拝島駅を経由して平和橋脇を通過していく。

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基地への引込み線(左端)と並んで架かる平和橋  橋の下流右岸には拝島分水口が見える
 2008.07.21 鉛筆・透明水彩

 基地への引込み線脇にある橋がこの平和橋で、玉川上水の流れもこの辺りから真東方向に進路を変えて進む。ちょうどその位置に当たると思われる場所(右岸)に取水口がある。元文5年(1740)に開削された拝島分水口だ。この用水路は日光脇往還で賑わう拝島宿に引き込まれ、生活・農業用水として利用されたものだが、現在は暗渠になっているようで往時の水路の姿はない。少し下った左岸にも殿ヶ谷分水口があると後で知ったが、この日は気づかずに通り過ごしてしまった。殿ヶ谷分水は享保5年(1720)に開削され、現在の立川市西砂地区の生活・農業用水に利用されていたものだ。現在は宅地化が進み、用水路は埋め戻されたが、取水口だけは残っているようだ。

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こはけ橋・拝島源水給水口

 さらに下っていくと上水を覆う木々は鬱蒼としてくるので、見過ごし易いものがある。右岸に場違いな巨大な排水溝か?と思う構築物である。これが玉川上水に補助給水する給水口なのだ。

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上水に現れた排水溝? 上に架かる橋は「つつじ橋」 2008.07.21 鉛筆・透明水彩

 この給水口の正式名は「都水道局拝島源水給水口」で、多摩川に秋川が合流した地点にある昭和用水堰から取水し、ここまでポンプアップして給水している。このときは水は流れていなかったので排水溝と見間違うが、上水は飲用水だから決して排水が入り込む筈はないのだ。
 昭和16年(1941)に東京市民の人口増加に対応して造られたものだが、そこには戦争の影がある。羽村堰は上空から見れば一目瞭然、空襲にあえば東京の飲料水に支障を来す。その対策ということも暗に意図していたようだ。
 奥に見えるのがちょっと下った所にある「こはけ橋」である。

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二見橋・拝島上水橋

こはけ橋と鉄橋(西武拝島線)を過ぎると小さな橋(二見橋)に出会う。

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 2008.07.21 鉛筆・透明水彩

 二見橋を渡って左岸を歩くと人家も少なく古木が生い茂り、大変気持ちの良い道が続く。そして拝島上水橋も近くなると、小ぎれいな和風建物が現れる。なんとお風呂場(共同浴場)で、この環境をそっくり利用した市民の福祉施設。

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不思議な暗渠

 さらに進むと右岸はゴルフ場となり、上水境界まで敷地利用されている。おかげで右岸の歩道はなく、ゴルフ場のエゴが垣間見られる所だ。そして突然樹木の続く緑地帯が断ち切られる。上水の上はコンクリートの地面で覆われているのだ!

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左上:暗渠から出てきた上水、この段差はなに?
左下:藪の中から再び現れる出口を覆うフェンス

右:上水が暗渠に呑み込まれていく
2008.07.21 鉛筆・透明水彩

 上水の右岸はゴルフ場のグリーンから練習場に変わって、ボールが飛び込まないように暗渠にしてしまったのか?・・・と、果てない営利追求を恨んでみた。しかし、後日調べてみたらこれにも戦争の影があった。
 この右岸には先の大戦中、戦闘機の滑走路があった。その滑走路を延長する計画で、上水を横切る事になり蓋をされた。しかしその後終戦となり蓋をされたまま放置されたものだという。
 今まで歩いてきた心地よい環境が都心の熱帯砂漠に舞い戻りかと瞬時に感じると、水と緑がいかに環境作りに重要な要素かがよく実感できる。
 現在は数百メートル続く細長い緑地公園として整備されてはいるが、所詮は人工地盤に設けられた人工の花壇・・・幾ら手入れをしても無駄なことは止めにして、蓋を剥ぎ取るくらいのことをしないと環境回復にはならないのではなかろうか。これだけは歴史的価値を決して見いだせない!

暗渠出口の水の落差は何なのか?・・・とその疑問がこの日を境にして頭の中から離れなかった。 そして現在での結論は玉川上水の勾配に対して構築物が水平に出来ている・・・そのギャップをこの出口で調整しているのだ!・・・ということだ。
(玉川上水の羽村・新宿間の平均水勾配は1/500程度で、500mの長さで1mの段差だ)
もちろん独断的推論だが、滑走路なら水平にしたいし、大戦中の突貫工事なら水勾配を設ける手間も惜しんだことだろう。・・・とすると、この蓋の下は巨大プールなのだぁ〜。

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松中橋と砂川・柴崎分水口

 右岸のゴルフ場を過ぎた辺りに架かるのが松中橋である。

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 2008.07.21 鉛筆・透明水彩

 橋の手前右岸に取水口が2つあるのが確認できる。川上にあるのが柴崎分水口で元文2年(1737)の開通。現・国立市にも近い当時の柴崎村方面までを開発するのに貢献した用水である。
橋詰めにあるのは砂川分水口である。この砂川用水は上水開削と同時期に完成していた古いものだが、当時は下流に架かる天王橋脇にあった。それが明治3年(1870)の付替え事業で、ここに移設されたものである。
橋の下手には堰板を調整するための渡しが見える。

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玉川上水と砂川用水

 砂川用水は玉川上水開削(1653)まもなく開設されている。(明暦3年(1657))
しかし当初の取水口はこの先(下流)天王橋下手に設けられていたが、明治3年(1870)に分水口の付け替えや統合があり現在の松中橋詰めに移され、玉川上水と並行して天王橋まで用水路を設けることにより元来の砂川分水に接続された。
なお、当時の用水は飲み水を主とした生活用水で、灌漑には決して用いられることはなく、それ程までも貴重なものであった。

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 2008.07.21 鉛筆・透明水彩

 まことに気持ちの良い場所である。右岸に用水路を控え、歩道がどこまでも続いていく。武蔵野の雑木林はこんな風景だったのか、と感じさせる風景である。

砂川用水の由来

 砂川用水は、明暦三年(1657)幕府財政再建の一環として武蔵野新田開発のため玉川上水から分水され、松中橋から上水と平行に東上し、天王橋から五日市街道に沿って開通された。
 残堀川の旧水路が五日市街道と交差する付近(三、四番)の小集落に過ぎなかった砂川新田(村)は、砂川用水の開通により現在のように五日市街道に沿って計画的に耕地が開発出来るようになった。

「砂川の歴史による」立川市 (説明板による)

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天王橋(一の橋)・新天王橋

 五日市街道と交差するのがこの橋である。そればかりでなく都道59号線(八王子武蔵村山線)とも交わる交通の要所とあって車の多い交差点である。そのため橋が不思議なかたちをしているが、図にすればいたって正直な姿である。当然、新天王橋は新しく造られたもので、それに伴い本来あった砂川分水口を上流の松中橋の方に移されたのだと理解できた。

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左:上流から水路沿いに歩いてくると天王橋へ 右:五日市街道の新天王橋 2008.07.21 鉛筆・透明水彩

 ここから五日市街道沿いに用水路が開削されて現在のように一番から二番・三番・・・・・と計画的に耕地が開発できるようになった、玉川上水の代表的用水路である。その出発点を表しているのか別名を「一の橋」ともいう。以後、下流に向かって橋の名前も番号付の別名がある。
天王橋の橋名は、南側に松・杉の茂森があり、天王社を奉っていた事に由来するとのこと。

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残堀川交差点

 川の名前も、交差点ということもまことにユニークな場所である。

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左上:平面図と断面図(想像断面です)
左下:上流からは柵を過ぎると潜り込んで・・・

右:通過した上水は何もなかったように・・・
2008.07.21 鉛筆・透明水彩

 この場所手前の渡しと芥取りの柵で遮られ、行先は見あたらない。玉川上水は消えてしまうの?
ここは残堀川と直交する場所で、なんと玉川上水はその川底を潜り込んだ立体交差なのだ。飲用水である上水だから汚れた水から守らなければならない。それはわかるが、いつからかというと・・・なんとつい最近(?)の昭和38年(1963)からのことだった。

残堀川は狭山丘陵からの湧き水が瑞穂町箱根ヶ崎にある狭山ヶ池をつくり、南東に流れ出して立川段丘を越えて、立川の柴崎や隣町の国立の青柳あたりで多摩川に至っていたらしい。(付け替えで様変わりしている)  そこに玉川上水が横断することになり、清流であった残堀川は玉川上水の補給水として注がれ利用された。(そのためそれまでの川下は水を断たれることになり、その手当が砂川用水であり柴崎用水だと推察する。)
しかし明治になって残堀川の水が汚れてきたため、玉川上水の底を潜って南下させる新しい堀の工事をした。明治41年(1908)のことである。
それから昭和の時代になると生活用水の増加から度々の氾濫で玉川上水に浸水することがあり潜る川は逆転して、現在の形になったそうだ。(残堀川の川底をこれ以上低くすることは出来なかったのだろう)

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新家橋(しんやばし)(三の橋)

 この橋辺りから右岸はひらけて、上水と比べて南側はかなり低い地域となっている。江戸時代初期から開拓が始まった、かつての砂川新田の風景が続いていく。

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橋は極めて立派だが、周りはいたって和かな田園風景。新田の原風景ではなかろうか
2008.07.21 鉛筆・透明水彩

 橋を渡った先は五日市街道で、大欅が街道沿いに建ち並ぶ砂川新田の民家のある場所を示している。
開墾当初は一面の荒地で、この地方特有の北風・赤ッ風を防ぐ防風林が必要不可欠であった。そこで選ばれたのが武蔵野を代表するケヤキで、かつては落葉は堆肥に、大きくなれば建材にと利用されたものだが、宅地化が進んだ現在でも街道筋に一本立ちの巨木が屋敷の象徴として大事に守られている。
ちなみに赤ッ風とは、辺り一面の赤土畑に冬の空っ風が吹くと赤土が空一面を覆い、現在の中国で問題になっているような黄沙状態になることをいう。(筆者も昭和30年代の練馬郊外でも経験した)
「新家橋」のいわれは、屋号「しんや」という農家の裏に架けられている橋からきている。

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見影橋(四の橋)・源五右衛門分水口

残堀川交差点から600m程下ったあたりにこの橋がある。しかし玉川上水が出来るまではこのあたりを残堀川は南東方向に流れていた、と聞くとその裏には秘密がありそうだ。

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見影橋手前の右岸に水栓が立っている 2008.07.21 鉛筆・透明水彩

 トップの地図で見比べてみれば、旧・残堀川はこの橋と現在の砂川三番辺りを経由して流れていたのがよく分かる。玉川上水の開削以前の砂川新田はこの川を挟んだ極限られた地域だけが当初の開墾地だったのだ。(川と新田に関してはリンク予定・工事中)
このあたりを取り仕切っていた名主の屋敷がこの橋の南を下り、五日市街道沿いに今も残っている。 そのためこの橋を「旦那橋」とも呼ばれていたが、大正時代は「御影橋」(きっと御影石造りの立派な橋と想像する)と呼ばれ、現在では「見影橋」の字を当てている。
この名主は相当な有力者で、福生の田村氏(田村酒造当主)と並んで、屋敷専用の分水口を持つことを許されている。その分水口が旦那の名前の付いた「源五右衛門(げんごえもん)分水口」で、旧残堀川の跡地を利用した水路が屋敷の裏を流れて、水車まで廻していたという。又水田のないこの地で、この旦那は貴重な水を利用して実験的に水田耕作も始めてみたそうである。
果ては福生の田村氏、羽村の島田氏らと共に明治3年には新政府に玉川上水に通船を願い出て、2年間だけではあったが実現させた。その時の河岸が見影橋下流右岸に「巴河岸跡」として語られている。

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名主の屋敷門

 日を改めて五日市街道を歩いた。砂川三番あたりを中心にして、見事な欅の巨木が立ち並んでいる。この屋敷は見影橋(旦那橋)を渡って南に300mほど下った場所にある。旦那の屋敷と思われる。

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 2008.08.10 鉛筆・透明水彩

 二番から三番あたりには、この屋敷を中心にして街道の北側には砂川分水が残されている。現在は水は流れてはいないので街道の側溝として排水溝の状態ではあるが、各屋敷の入口には渡しが架けられ、つい最近までこのような生活があったのかと思わせる地域である。その中でひときわ格式を表しているのがこの屋敷で、分水は街道と少し距離(10m程)を取り、かつての街道と屋敷・用水路との間隔はこの様だったのか!と思わせる。生活に密着した貴重な分水は緑に囲まれ大事にされて、隣の屋敷へと順送りされていたものなのだ。

 その屋敷を訪れたが、奥は深く、人の気配も感じられず、やむなく門の前で諦めたが・・・・なんと!その門の立派なこと。表札なんてものもない。そうだろう、知らしめる必要もない家だから。
両袖に潜り戸のある腕木門で、単純な形式ではあるが豪壮なものである。まさに苗字帯刀を許された村役人のものだ。脇にちょっと残っている赤い屋根の塀が水路沿いに巡らしてあった名残だろうか。
右図は正面から右側の水路を見たものである。この屋敷は周りに比べて高いところに位置していて、水路はこの先を転げるように流れていくのがわかる。水のない今の状態では底がよく見えて、刳れているあたりは水車のあった跡だろうか?右岸には街道側から利用できる洗い場も用意されているのがわかる。

 この名主は、いつからかは定かではないが、代々玉川上水の見回りを申しつけられていた。そして源五右衛門の時代になると狭山ヶ池から玉川上水への助水堀(整備された残堀川)の見回り役も兼務という地域の有力者である。

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金比羅橋(五の橋)

見影橋を過ぎていくと玉川上水は右に迂回して、この右岸あたりが明治の一時期に通船されたときの河岸である・・・と想像する。この迂回を後日調べてみたら、金比羅橋を過ぎるとこの元の水路方向へ軌道修正が成されている。 その原因は立川断層に突き当たったための迂回処置であった!

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 2008.07.21 鉛筆・透明水彩

 金比羅橋に近くなってくるとなぜか今までお目にかかったことのない竹林が現れてくる。しかも左岸だけである。そして対岸への渡しが垣間見られる。しかし分水口は見あたらなかったので、対岸にある金比羅山への儀礼的なものなのだろうか?(未だ疑問は解けない)
村山街道と交差するのが金比羅橋で、もちろん金比羅さんの脇にある橋だからだろう。
この金比羅山は元々あった山ではなく、玉川上水の開削時の残土処分で築かれた山だという。立川断層の際を通す難工事が想像される。また想像ついでに言えば、この左岸だけの竹林は水路護岸のためではないのか・・・というのは考えすぎだろうか?

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清願院橋(八の橋)

 さらに歩を進めていく。宮野橋や千手・千手小橋あたりは又鬱蒼とした緑地となる。こなら・えごのき・いぬしで・えのき・うるし・・・・武蔵野の雑木林が延々と続く。野萱草の花が下草から鮮やかな色を放っている。
そして突然目の前が開け来た。清願院橋に到着である。

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 2008.07.21 鉛筆・透明水彩

 この橋は西武拝島線の玉川上水駅前広場になっているが、狭山丘陵の南麓である芋窪から南下する街道(芋窪街道)と交差する場所にある。現在の芋窪街道は上水を潜って交差し、上空では「多摩都市モノレール」が玉川上水駅を越えて走っている。まさに未来都市の様相である。現在の橋巾はモノレール開設事業に伴って平成11年(1999)に拡げられたものだが、旧橋(昭和46年架設)の橋巾4mと比べ、駅前広場となった状態は、まさに上流にあった滑走路の暗渠と同じ過ちを犯していて、都心のターミナル駅と同じ町となってしまった。土地の歴史をよく読み込んで未来に連なった計画をしてもらいたいものだ。広場の真ん中に大きな孔でも開けて玉川上水とその植生を活かした計画ぐらいは誰でも思いつくことだが、そんな提案はなかったのだろうか?
当初から架けられていた古い橋だろうが、橋の由来は不明。ただ、「八の橋」ではあっても様変わりでは「一番の橋」と言える。

 なお、芋窪とは「井の窪」と呼ばれていたのが「芋窪」と変わったものらしい。狭山丘陵の湧き水が窪地にたまって、水の少ない武蔵野にとって憧れの場所であったと想像させる。

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小平監視所

 清願院橋から300mほど下ると水面が穏やかになる。羽村にあった水門を思わせる構築物が「小平監視所」だ。

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たどり着いた上水の芥揚げ場には整理整頓された落葉や小枝の山、その先は砂を除く沈殿槽への水門
2008.07.05 鉛筆・透明水彩

 かつてはここには川越方面に流れる「野火止用水」の分岐点があり、明治になると小川・新堀方面への「小平分水口」が設けられたところでもある。
しかし現在の玉川上水はここまでで、この水の行先は地中の導管を通して東村山浄水場に送られている。なんと・・・ここからは一滴たりとも下流には流されていないのだ!

この施設は昭和40年(1965)から、当初は「小平水衛所」(番人が上水を護っている感じが良い)として現在と同じ機能を果たしているが、その歴史を振り返ると東京の人口増加に伴う施設の変遷をみせてくれる。

  • 幕末から明治初期にかけてコレラが発生。(飲料水の汚濁が原因と見られる)

  • 東京府は新宿淀橋に濾過施設を備えた淀橋浄水場を完成(明治32年(1899))

  • 戦後の高度成長期を迎え、東京都の巨大化と給水人口の急増・新宿西口の再開発で、淀橋浄水場の閉鎖と東村山市美住町に「東村山浄水場」を新設・機能移転した(昭和38年(1963))

その後昭和40年(1965)には淀橋浄水場は閉鎖されたが、しばらくは玉川上水もチョロチョロと少量の水は流れていたと記憶する。しかし深刻な水不足に伴い完全にストップしてしまった。もちろん野火止用水方面も同じことである。
その後の環境を見直す風潮からか、現在では限定的ではあるが少量の水が流れている。しかしこの水は羽村からの水ではなく、生活排水を処理した水ではあるが、以降の地域の環境を保護する一助に、多少なりともなっているようだ。

・・・・・さてこれからどちらに進もうか?

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