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佃島


 友人の通っている絵画教室の方々と佃島スケッチを楽しんできた。
本能寺の変の頃、徳川家康が大阪・田蓑島の住人に恩義を受けた。それに報いるために田蓑(佃)の住人を漁業特権を与え住吉神社と共に隅田川河口の島(石川島)に続く干潟を干拓すべく招き入れた。入植当時はほんの一角(資料によると百間四方と云うから現在の佃一丁目に相当?)が佃島として埋め立た地区である。今の「月島」「勝どき」「豊海」「晴海」と南に東に次々と土地を拡げて結果的には隅田川を延伸させる埋め立ての歴史の始まりだ。(地図で見たら2.5kmほどにもなる)

住吉神社
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住吉神社裏の船泊 2016.10.30 鉛筆・水彩

 周りのほとんどは高層建築で屏風のように連なり、この一角だけが大阪からの分霊社「住吉神社」を守護神にした船泊。この地域が漁村の中心だと推察する。
赤い欄干は佃小橋。

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佃小橋から住吉神社を見る 2016.10.30 鉛筆・水彩

 反対側から見ると石川島の高層群が立ち並ぶ現代と江戸時代からの佃島との対比はなんともアンバランス!

佃小橋の守護神?
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佃小橋の守護神? 2016.10.30 鉛筆・水彩

 この鳥の定位置なのか?地域を見渡す姿には威厳さえ感じる。
この告知板には以下のことが記されていた。

此の場所には、江道時代後期寛政拾年(1798年)徳川幕府より建立を許された大幟の柱・抱が、埋設されておりますので立ち入ったり掘り起こしたりしないでください。

佃住吉講

 この文中「抱」の文字が気になりネットで調べてみたら意外なことが判明した。
三年に一度の大祭時に掲げる大幟の竿や支柱が、腐食しない様に埋められていてその掘り起こし、組み立ての様子はYouTubeでも紹介されていた。

そんな場所を見守るアオサギでした。参考[http://www.tsukuda.chuo.tokyo.jp/]

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佃島の守護神? 2016.10.30 鉛筆・水彩

 この神社が大阪の佃島(田蓑島)の漁民を招き入れる時に田蓑神社から分社した神社だ。では何故「住吉神社」を名乗っているのか? 本家本元の大阪・西淀川・佃の田蓑神社を調べてみたら、この神社は「田蓑嶋神社」「住吉神社」「田蓑神社」と名前が変遷している。 きっと「住吉神社」時代の分社と推察する。
 ここで一つの疑問が・・・?
住吉神社と云えば神社形式の代表的一つ(住吉造り)である。「田蓑神社」は当然その形態をしていたが、この神社はその様式をとっていない!一見、伊勢神宮を代表とする神明造りなのだ。しかしこれは建設当時を見ることも出来ず・・・明治以降の改築時に当時の風潮で神社本来の様式(大社系)は無視され、神明造りに似せたものに造り替えられたと推察する。さらにこの神社の参道は西を向いている事は大阪に向いているとは考えられず、この神社のしたたかな姿を思った。(徳川家に背を向けるわけにも行かないでしょう・・・)

神明造り(伊勢神宮を代表とする神明系)
切妻造平入り/直線型/白木仕様(塗装なし)
穀物庫、いわゆる高床式倉庫から発展したものと考えられる。
屋根には千木と堅魚木を用い、堀立柱を基礎とする。建物は、奥行きよりも横幅が広いものが多く、直線的な造りとなる。

住吉造り(出雲大社を代表とする大社系)
切妻造妻入り/丹(朱色)塗り
古代の宮殿を模したものと考えられ、屋根に千木と堅魚木を持つ。
特に、社殿の内部が二室に分かれるのが特徴。

佃島の北隣にもう一つの島がある。住吉神社脇の堀割が別の島を示すものだが、現在は裏では地続きだ・・・

石川島

 石川島の歴史を調べてみたら、なんとも豊富な歴史がゾロゾロ出てきた!

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隅田川河口に位置する石川島と南に連なる佃島
資料提供/深川江戸資料館

 佃島が干拓される前には隅田川河口に「鎧島」という小さな島があったらしい・・・・

その小さな島を石川八左衛門(石川五右衛門ではありませんぞ)なるものが拝領し、石川島となった。その当時の南側(現佃島一丁目)はまだ干潟の状態。その後の佃島干拓・月島・・・へと続く入植第一号。
 江戸も後期になって黒船来航、水戸藩がここに造船所を作り(1853・嘉永6)、明治以降の重厚長大産業の代表として近代日本を牽引してきた石川島播磨重工(現・IHI)の始まりである。

 現代の軽薄短小時代には追いつけず、1979年(昭和54)には佃工場は閉鎖、現在の地名は佃二丁目となっていた!(佃一丁目より5〜6倍ほどの面積がありながら・・・) その石川島も現在では「大川端リバーシティ21」として高層マンションが林立する地域となっていて、「石川島」の名称は企業名だと思っているのだろうか?一掃されている。大川とは隅田川のことで、辛うじて隅田川端にあることを地名に残しているのが悲しい。

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隅田川河口のレプリカとしての石川島燈台 2016.10.30 鉛筆・水彩

 石川島にはまだ付け加えることがある。この島(石川島)と佃島の間を埋め立てて「石川島人足寄場(にんそくよせば)」としている。人足寄場とは軽罪人・虞犯者の自立支援施設(職業訓練所)で、天明の大飢饉(1787)後に寛政2年(1790)に実現している。世界の歴史から見ても特筆に値する事だろう。さ迷える庶民の希望を具現化したものが慶応2年(1866)に造られたこの灯台だと理解する。人足寄場の南端に位置して、隅田川河口や品川沖を航行する船舶用の灯台として・・・否、佃島を初めとする漁師たちの自慢・希望の常夜灯だったに違いない。
 当時の構造は「六角二層の堂々たる灯台であった」と灯台足許の説明板にはあったが、現在の構築物は公衆便所として使われていて、近くにはとても寄りつきたいシンボルとはなっていない。




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