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境川河口  2011/3/27

青べかの漁村・浦安
(東日本大震災の隠れた被災地)


 3月11日の大震災は全容がわかってくると塞ぎ込む毎日となってしまったが、そんなことではいけない!と、外に出てみることにした。この大地震が東京湾にも影響を与え、浦安が水浸しになったとのニュースを耳にしたからである。(3/27)
 かつては漁村で、子供の頃に和船で沖に出て潮干狩をした記憶もある。しかし当時の砂浜は埋めたてられ、ディズニーランドと並んで異国のようなニュータウンとなっていた。その町のメイン道路は見事に沈下して、上下水道は完全に機能不全に陥り、悲惨な風景が続く。
 しかしその風景の裏に隠れている昔の漁村はどうしているか、と歩いてみた。

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浦 安 地 図
ここにマウスを乗せると埋立前の浦安が出現(推定)
(番号マークはスケッチにリンクしています)


(江戸時代の浦安)

 江戸時代の浦安あたりは現在の行徳、市川、船橋に渡る広大な地域を行徳領として幕府直轄地だった。この地域は江戸川(旧太日川)の土砂が堆積して遠浅の地形を造りだし、北条時代から塩田が作られていた。それを保護することと、湿地の軍事訓練を兼ねた鷹狩り場を確保するためであった。(現在は宮内庁が管理している新浜鴨場は鷹狩りの面影を残すものだろう。)貴重な塩は最短距離で江戸に運ぶために徳川家専用の運河(行徳川)まで造っている。(現在の小名木川と中川でここにマウスを乗せて確認してください)


境川 (さかいがわ)

 境川は、千葉県浦安市を流れ東京湾に注ぐ利根川水系旧江戸川の分流である。
左岸の猫実(ねこざね)村と右岸の堀江村の境界だったのでその名がある。この地域の井戸水には塩分が含まれるが、江戸川の真水が流れることからこの地域唯一の飲料水として両岸に集落が出来、漁港として立地する重要なものだった。そして海への玄関口として昔は舟がぎっしり係留され、浦安を象徴する場所だった。特にその舟は「べか舟」と呼ばれる1人乗りの海苔採取用の小型舟で、山本周五郎の「青べか物語」に登場するものである。

おっぱらみ

この不思議な名前は、境川の中でも川幅が最も狭くなるこのあたりを指す呼び名である。

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境川に架かる境橋 最も川幅が狭い「おっぱらみ」といわれたところ 2011.3.27 鉛筆・透明水彩

 この地名が生まれたのは江戸時代のことで、当時の塩の生産と関係がある。河口の塩生産者にとっては梅雨時に大量に流れてくる江戸川の真水で海水の塩分が薄くなり生産効率が落ちてしまう。そのため毎年梅雨の時期になると川幅の狭いこのあたりを堰き止めた。それに怒った両岸の漁師たちは撤去するといういざこざが絶えなかった。そして漁師たちが団結しておっぱらうことでそれ以来塞がれることがなくなったという。江戸時代の史料には当時の事件としてそのことが記述されていない、として現代人(教育委員会)はその理由からだとは断定しかねている。幕府に保護されている製塩業者と漁師とではどう見ても製塩業に不利な史料は揉み消されるのは明らかであろう。後世に伝えられる歴史とはそういうものではないだろうか。

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水門のある辺り
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水門のある辺りがかつての河口なのだろう。いわば海への玄関口 鉛筆・透明水彩

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かつての青べか(空想) 鉛筆・透明水彩

 境川には東西二つの水門がある。「西水門」は旧江戸川に面して設置されていて、いわば「境川」のスタート地点。そしてかつての境川河口にあたる場所のものがこの「東水門」で、両水門で護られている間が本来の境川ということになる。

境川東水門:形式 ローラーゲート
純径間×扉高 10.00m×5.50 1門
竣工 昭和42年3月
躯体施工 株式会社 間組
門扉鉄構施工 石川島造船化工株式会社

東水門のプレートより


 この両水門は常時閉鎖されているようで、地元の舟だけが通過、停泊することが可能なようだ。すなわち旧漁村だけが高潮から護られるということになる。そしてかつての「おっぱらみ」騒動も今はなく、自由自在に水を治めているのが今の姿だ。
ここに停泊している舟はその地元の舟だろうが、かつての「青べか」とはもちろん違う。

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境川電力ケーブル専用橋
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 2011.3.27 鉛筆・透明水彩

川端の掲示板より

境川電力ケーブル専用橋
東京電力株式会社
橋長 63.160m
形式 ワーレントラス橋
竣工 昭和62年7月
施工****

電力ケーブルのプレートより


 水門の外に出ると川幅ははるかに広く、護岸も立派なものとなる。この電力ケーブル専用橋の下では現代の漁船がたくさん係留されていた。
それにしてもこのケーブル橋の底がきれいにカバーされているのは高波対策だろうか。海岸線に沿った都市にとっての貴重なインフラだろうから。

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境川水管橋
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 2010.4.25 鉛筆・透明水彩

境川水管橋
管種管径 鋼管 φ700×6
支間間 51.0m
事業者名 千葉県水道局
竣工年月 昭和50年12月
製作者 川崎製鉄株式会社

水管橋のプレートより

 首都高速湾岸線を越えると、この水管橋が架け渡されている。この辺りまで来ると道路面から擁壁頂部まではかなり高くなり、当然ちょっとよじ登って川を覗くこととなる。それだけ地盤が水面と近いことを示していて、擁壁の外も一側が一段高くなっている。
川にはやはり小舟がたくさん係留されている。それにしても水管橋の高いこと、頼もしいかぎりである。

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境川中央歩道橋
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 2010.4.25 鉛筆・透明水彩

 JR京葉線を越すと、大型の建物が建ち並ぶ住宅街になる。生活に密着した歩行者専用の橋が対岸にと架け渡されているのだが、その橋詰は擁壁まで階段で上ってようやく渡ることとなる。
この辺りから道路の様子がおかしい。やたらに埃っぽいのだ。流動化現象で地下の砂が吹き出した後なのだろう。

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境川わかしお歩道橋
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 2010.4.25 鉛筆・透明水彩

 さらに川端の護岸に沿って歩いてきたら流動化現象がハッキリ見られた。護岸縁は通常から道路面より高くなってはいるのだが、それが更にガクンと1mちかく落ち込んで、護岸縁の舗装が波打ってしまっている。しかし自動車道路はなんの変化もない。すなわち町全体が均等に地盤沈下してしまったのだ。このスケッチ位置の左手にはタウンハウスが連なっていて、表向きはなんの変化もない。しかし団地内の通路は砂山だらけで、トラックが沢山出入りして取り除いている最中だった。

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この先行き止まり、明海橋
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 2011.3.27 鉛筆・透明水彩

 ここまで来ると海が見えてきた。そして更に橋が架かっているが工事中のようで、護岸に沿った道はここまでとなる。

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境川河口
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 2011.3.27 鉛筆・透明水彩

 浦安市の最南端は「総合公園」で、東京湾の真ん中に立っている錯覚を覚える程に千葉・木更津・川崎・東京がパノラマ状に眺められる。子供の頃の思い出、小舟で繰り出した潮干狩はこの辺りだったのだろうか?
その海沿いから境川河口に廻ってみた。振り返ると今まで下ってきた境川だ。西方面はディズニーランドのはずだが、あまりにも広い埋立地なのでその気配が感じられない。

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シンボルロード
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 2011.3.27 鉛筆・透明水彩

 永代橋方面から葛西橋通りが浦安駅前を通り旧浦安の主要道路「やなぎ通り」となり、首都高速湾岸線を越えると、新しい浦安の主要道路「シンボルロード」と名前が変わり海岸沿いの総合公園につながる。電線・電柱は埋設し、両側は街路樹一杯の散策路・歩道・自転車道という広い道路である。

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郵便局前のポスト 2011.3.27 鉛筆・透明水彩

 大型店舗の建ち並ぶこの道路を中心として、3月11日の東日本大震災で大々的に液状化現象が起こり、地面から吹き出した砂の山があちこちに見られる。しかし一見しただけではシンボルロードの広さに目を奪われ、その道路全体が地盤沈下しているのだから被害はその程度かと思ってしまう。しばらく観察しながら歩いていくと、地盤は地割れ、陥没、道路は波打ち、マンホールは地面から飛び出し、住宅や電柱は大きく傾くという悲惨な状況に気が付く。左図の交差点に建っていたコンビニエンスストアは約3/100の傾き、店舗の道路面側30cmほども下がる傾きようだ。ほとんどの建物の外周は地盤が下がることにより接続されていた上下水道管が切断され、給水は復旧されても排水できない状態がしばらく続くようだ。
3月21日時点で水道断水約4,000戸、下水道使用制限約11,900世帯、都市ガス供給停止約5,800件、市は被害額734億円と推計しているそうだ。

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