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夢の島はゴミの島だった 北側から望む

夢の島 (14号埋立地)


 東京湾は埋立地で囲まれている。そのなかで「夢の島」という、極楽浄土か?と誤解しそうな名称の埋立地はご存じだろうか。下図の字の字の形をした黄色で示した島である。

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東京湾の埋立地
参考:東京湾環境情報センター(http://www.tbeic.go.jp/)

「夢の島」とは何とも夢のある島の名前だが、戦後の埋立を知る世代は「ゴミの島」と呼んでいた。しかし、東京湾の埋立は江戸時代から江戸市中のごみ捨て場としての歴史がある。その埋立地の変遷と夢の島の始まりはこちらからどうぞ。

 現在の「夢に島」は東京湾岸のほぼ中央の位置にあるが、かつての「ゴミの島」・・・「ごみ」・・・というイメージからだろうか、居住者はゼロである。もちろん小生も隈無く歩くのは初めてである。そして分かったことは、ほとんどが公園で「海に浮かぶ緑の島」という状態だということ。そしてスポーツ施設や公共施設がゆったりと配置されている。 島の中央を南北に分けるように首都高速湾岸線、JR京葉線、りんかい線と走っていて、東京・千葉の目の前というアクセスのよい場所なのだ。
ここにマウスを乗せると夢の島を中心としたインフラが表示されます。

 本来の夢の島は左図黄色部分(14号埋立地1957年〜1967年埋立)だが、その後もゴミ埋立地「夢の島」は続けられている。

【その後の夢の島】
 新夢の島(15号埋立地1965〜1974埋立、14号の南に連なる現・若洲)
 三代目夢の島(中央防波堤内側埋立地1973〜1987)
 四代目夢の島(中央防波堤外側埋立地1977〜  )
 五代目夢の島(新海面処分場 1999〜  )・・・と夢の島は続いている。

夢の島 (14号埋立地)

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左:夢の島植物園 右:東京スポーツ文化館 右奥の煙突は江東清掃工場 2011.5.27 鉛筆・透明水彩

 平和で穏やか、閑散とした公園である。住人はいないから施設関係者とそこへ訪れる人たちだけ。
緑の多い公園だが、特に目につくのが「ユーカリ」という大きな樹木。成長の早い樹木として有名だが、ゴミの島を早く緑化するために植樹したと記憶していた。しかし改めて調べてみたらオーストラリアからコアラを誘致する際にユーカリを生産する条件が付けられ、植えられたものだと「wikipedia」で知る。

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夢の島マリーナ、江東清掃工場、植物園、そして第五福竜丸展示館 2011.5.27 鉛筆・透明水彩

 ヨットの停泊しているマリーナはどれも大きなヨット・クルーザー。このハイソサエティーの雰囲気からは昔のゴミのイメージは湧いてこない。その向こうにはハイテクを駆使した現代のゴミ施設・焼却場の煙突が見える。昭和46年に当時の美濃部知事による宣言で始まった「ゴミ戦争」はいまや知る人も少ない「夢」の島だ。 江東清掃工場の廃熱は 隣接する植物園の温室やスポーツ施設の温水プールに利用されている。

 

第五福竜丸展示館

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左:かつて廃船となって破棄されていた海 右:引き上げて保存している展示館 2011.5.27 鉛筆・透明水彩

 このゴミの島である「夢の島」に放置・破棄されていた廃船がここに展示されている。昭和29年(1954)3月1日に太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁でアメリカが行った水爆実験で被曝した第五福竜丸だった。

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破棄されていた第五福竜丸(展示資料より撮影CG処理)

 この船は数奇な運命を経ている。昭和22年(1947)和歌山で神奈川三崎港のカツオ漁船(第七事代丸)として建造されたものだが、昭和28年(1953)静岡焼津港の遠洋マグロはえ縄漁船に改造され、同年6月から第一次航海として南太平洋に向かっている。
 そして第五次航海(1954/1/22-1954/3/11)で3月1日にビキニ環礁の水爆実験に遭遇・被曝してしまった。その位置(北緯11°50'、東経166°58')爆心から90マイル(160km)だったが、帰港後は二度とマグロ漁船として出港することはなかった。
 その後改造されて東京水産大学の練習船として使われたが、昭和42年(1967)には廃船となってしまった。そして放棄された練習船は奇跡的にこのゴミの島で発見され、その位置が画面左手の海辺だった。

 被害は福竜丸だけではなかった。12月までに日本の船舶856隻が被害を受け(政府発表分)、水揚げされたマグロは「原爆マグロ」といわれ、457tonが捨てられている。 5月になると雨や落下塵の中から、次いで水道水や野菜からも放射能が測定される。(京都の5/16の雨で8万カウントの放射能(註)が測定されている。)

 神奈川県三崎港や静岡県焼津港などの町から「水爆実験反対」の声が上がり、町の主婦を中心に「核実験反対・原水爆禁止」の署名が全国に広がっていった。当時の人口8,000万人に対して翌1955年夏までには3,200万人という署名が集められ、核兵器廃絶運動の大きなきっかけをつくりだしたといえる。

 アメリカは1953年のアイゼンハワー平和利用宣言から翌年にはビキニ環礁で計6回(キャッスル作戦)を5ヶ月間という短期間に核実験を行い、その後の9年間は本国ネバダ州に実験場を移して269回(1955-1963)、それ以降は地下核実験にしてはいるが723回(1964-1992)という回数で相変わらず核兵器としての核開発を継続している。
そしてこの核開発は半世紀以上過ぎた現在のオバマ政権下でも、核兵器縮小をうたいながらも臨界内実験というシミュレーションの手法で核開発を行っていて今日の話題となっている。
 アメリカだけでなく、ソ連は715回(1949-1990)、イギリス、フランス、中国、インド、パキスタン、北朝鮮、南ア、イスラエル・・・と核実験を続ける国を見ると地球に未来はないのでは!と絶望的になる。

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展示館内部 2011.5.27 鉛筆・透明水彩

 ビキニ環礁の水爆実験で被爆した漁船は140tonという小さな木造船だが、GHQの新造船への規制(鋼船不可・100ton未満)を掻い潜って建造されたものだった。(大きさを示すトン数には総噸数・純噸数・排水噸数・・といろいろあるので掻い潜ったという表現は不適切かも知れない) その被曝した小型船の実物は、今私たちに無言で歴史を伝えている。

 第五福竜丸参考・咸臨丸
噸数140.86 ton(総噸)620 ton(排水噸)
全長28.56 m48.8 m
全幅5.9 m8.74 m
速力5 not6 not

(日本で最初に太平洋横断した咸臨丸との比較)

 参考のために江戸幕府最初の鋼製軍艦「咸臨丸」と比較した表を示しておく。


註:ガイガーカウンター計測での数値1分間あたりの崩壊数と思われるので、現在使われている単位に換算すると、1,333Bq/kg と考えられる。しかし放射線の種類が不明なので何シーベルト(Sv)に相当するかは換算不可能である。
ちなみに国の基準では8,000Bq/kg が汚泥処理の目安、10万Bq/kg はコンクリートなどで遮蔽して保管する目安のようである。


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参考文献:
 図表で見る東京臨海部 : 東京都港湾局(l987)
 東京港史 第1巻、通史 : 東京都港湾局(1994)
 新版 東京港地盤図 : 東京都港湾局(2001)
 高知県太平洋核実験被災支援センター :「ビキニ事件」最新資料


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