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雑司ヶ谷の鬼子母神はこの武芳稲荷の社地に建てられ、村の総鎮守となった。天正6年(1578)のことだ。

雑司ヶ谷


 東京・豊島区雑司ヶ谷地域は近世の雰囲気を辛うじて残している東京の数少ない街の一つである。昔ながらの路地裏風景が微かに残されている雑司ヶ谷だが、かつては江戸市民の信仰の場(鬼子母神)だけでなく、幕府の鷹場でもあった。それが皮肉にも明暦三年(1657)の大火を契機に郊外に寺社・武家屋敷が移転し、18世紀以降には現在の豊島区地域の村落は江戸の場末町として発展していった。その最初に成立した町が「雑司ヶ谷鬼子母神門前」で、延享3年(1746)には「雑司が谷町」が成立している。 幸いにも江戸時代の古地図資料が豊島区中央図書館に残されていた。その資料を基に現在の街と当時の村とを比較してみると面白いほど曲がりくねった町並みが理解できる。

 その古地図に興味のある方はこちらからどうぞ。 そして文化元年(1804)-明治11年(1878)にわたって完成させた江戸御府内および近郊の名所案内記「江戸名所図会」の中から「雑司が谷」はこちたからどうぞ。

【時代変化を下の地図で比較】(赤文字をタッチして下記の地図を入替比較してご覧下さい。)

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【雑司が谷地区を中心とした地図】
マークにマウスをしばらく置くと説明有り

明和9年(1772)の古地図を基にした当時の雑司ヶ谷村。

明治42年(1909)の測量図を下敷きにした当時の様子。
山手線は1885年に品川駅─赤羽駅間開業。池袋駅から田端駅への分岐は1903年。東京の片田舎だったので刑務所(当時は監獄、後の巣鴨プリズン)が1895年に設置されている。

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案内リスト
1 弦巻川上流「丸池」
2 弦巻川下流「清土」
3 鬼子母神
4 法明寺
5 御嶽社
6 旧宣教師館
7 日の出町
8 サンシャインシティ

 古地図と見比べて気づくことは、当時の雑司が谷村は現在の雑司が谷と比べてはるかに広いことだ。 江戸の片田舎だから当然米づくりを奨励されたことだろう。南の神田川流域より高台(武蔵野台地の末端)で、灌漑用水でもあった千川上水で潤う北側の巣鴨地域とも離れていて、米作りには不向きな場所である。辛うじて湧き水の流れる谷筋に水田を見つけることは出来るがほとんどは畑地である。そしてこの地域は神社仏閣の所領地としての比率が高いが幕府の鷹場としての役目を負っていると云うかなり特殊な地域なのである。


 

弦巻川

 江戸時代の「雑司が谷村」は谷筋の小川に沿った村だ。 (ここにマウスを乗せると上図地図が入れ替わる) その小川が「弦巻川」で、水源は現在の池袋駅西口駅前広場の近くである。実はこの水源、大正時代の測量地図でも確認でき、昭和初期までこの川筋は健在だった。この川は護国寺西側を流れる川と合流して現在の江戸川橋当たりで神田川に注ぐのだが、現在は暗渠となり舗装された道(弦巻通り)になっている。かつての川の中程あたりにいくとマンホールから激しい水の流れる音に気づく。それほど水が急激に流れていると云うことだ。近くの商店で伺ったらなんと!2008年8月に起きた突然の豪雨により、下水道の作業員5名が流され死亡したと云う事故現場だったとは!現在の弦巻川は普段から多くの近隣住民からの大量の下水で満たされているのだ。

弦巻川の水源は小さな池から
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池袋駅西口広場と芸術劇場 2012.3.25 鉛筆・透明水彩

 池袋駅西口の芸術劇場前は人通りの絶えない場所で、常に若者のパフォーマンスが行われている広場である。今まで幾度となく無意識に通り過ぎていた「丸い池」を中心とした広場だが、古地図を知ってからその意味を推測した。往時の弦巻川源流である「丸池」と重なるのだ。厳密にその位置をいうと、もう一丁(100mほど)南に寄った所(広場の向の建物裏)のようだが、古い文書に依ればかなり北側に渉って湿地となっていたようだから、あながち間違っているわけではなさそうだ。この公園の企画者は粋なことをするものだ。
 この辺りはかつては鉄道局教習場として広大な敷地を占めていた。その一部が「尋常師範学校」(後に豊島師範学校・付属国民学校・学芸大付属豊島小学校と変遷)で、現在の「芸術劇場」の場所である。

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交差点辺りが低地なので「丸池の中心」らしい。その先は山手線。右はメトロポリタンビル 2012.3.25 鉛筆・透明水彩

 先の交差点辺りは周りより低くなっていることが目視できる。その交差点の傍らに「池袋地名ゆかりの池」として小さな丸くかたどった舗装で「丸池」の在った場所を示している。その傍らには「成蹊学園発祥の地」詳しくは成蹊実務学校(成蹊大学の前身)がここから始まったと云う石碑がある。この場所のその後は「鉄道局教習場」に付属の(?)「鉄道中学」、後に東京育英中学、東京育英中学校、東京育英高等学校、芝浦工業大学高等学校と学校は変わり、現在の「メトロポリタンビル」へと姿を変えている。

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清土(せいど) (鬼子母神像を見出した場所として清土と呼ばれている)
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鬼子母神出顕之地 2012.2.5 鉛筆・透明水彩

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三角形に井桁で組まれた井戸と復元された鬼子母神像

 弦巻川と思われるルートを推測しながら下っていた先で、七福神の幟旗に誘われて小さな社に紛れ込んだ。入口門前に「鬼子母尊神出顕之地」と刻まれた石標を見つけたが、あの「鬼子母神社」と何の関係があるのか(?)と不可解に思った。この場所は隣の区(文京区目白台)、しかしこの地が鬼子母神と深い関わりがあることを後に知る。

江戸名所図会・鬼子母神出顕之地」でもこの場所が描かれていた。

 永禄4年(1561)、柳下若狭守の下男山本丹右衛門が、清土の田から鬼子母神像を掘り出したと伝えられる。境内には「池水に星影が不思議な光を宿して尊像の存在を知らせた」と云われる星跡の清水と伝えられ、それが三角形の井戸である。

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下流域の料亭
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旧・三角寛邸 2012.2.11 鉛筆・透明水彩

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三角邸隅棟の鍾馗さん!

 かつての弦巻川に面して、清土鬼子母神の近くにこの黒塀の、粋な構えの館がある。昭和初期にサンカ小説で人気を博した作家・三角寛の自邸だったが、現在は懐石料理店として利用されていた。敷居がちょっと高かったが、門を潜って屋根を見上げたら、何と隅棟の屋根飾りが凝ったこと! 邪気を払う守り神のような姿が取り付けられている。まさに中国建築の戧獣(そうじゅう)ではないか!

 この屋根飾りは 「鍾馗さま」 で、近畿から中部地方にかけての町家の屋根に見つけられる魔除けである。 関東地方ではまず見出すことは出来ないが、それが先住者(三角寛)の意図したものなのか、現在の懐石料亭のしたことなのかは定かでない。この瓦飾りの生産者は「関西に限られているのに、なぜか埼玉でも一社が生産している」とのネット情報を掴んだので、もしかしたら三角の発案なのかもしれない。晩年の彼は埼玉の寺で住職を務めたそうだから・・・。

 この辺りは文士が多く住んでいたようである。近所には菊池寛の住まいもあったが現在は共同住宅となり、銘碑だけを残してその場所だけを伝えている。また、三角邸裏のほうには謂われのありそうな大正・昭和の雰囲気を醸している住宅も見つけた。ちょっとした江戸川乱歩の雰囲気漂う世界である。

 (や)は三角寛の小説は読んでいないし、「サンカ」の何たるかも知らない。しかし今はなき池袋人生座、文芸座という映画館の館主だという秘密めいた爺さんと云うことぐらいの認識である。それ以上の興味がおありの方は「三角寛」wikipediaからどうぞ

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鬼子母神社 (きしぼじんじゃ・きしもじんじゃ)

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鬼子母神像

 先程の清土(せいど)のところで少し触れたが、土中から掘り出されたとされる「鬼子母神像」が祀られているのがこの鬼子母神社であるが、そこに至るまでの言い伝えに注目してみる。

 雑司ヶ谷村の当初の所領支配は幕領と法明寺領だった。清土から掘り出された石像を祀るために里人は古刹「法明寺」寺中の「東陽坊」(後の大行院)に納め安置した。その後、現在地に土地の人々が言う「本地堂」が天正6年(1578)に建てられ、それが現在の鬼子母神社である。
 しかしこの地にはそれ以前、弘治年中(1555-58)に「武芳稲荷」が勧請されていた。雑司ヶ谷村の総鎮守であり、その片隅に建てられたのだから村内の氏子集団との関係はきわめて強かった。

 その後の江戸庶民の遊山の場として賑わう様子は「江戸名所図会・雑司が谷俯瞰図」でもうかがえる。鬼子母神と別当寺(大行院)との関係も強いわけだから鬼子母神の管理や賽銭の収納権をめぐっては、大行院の本寺である法明寺とは対立状態だったと古文書には書き付けられてあった。

 右の石像は本堂のわきに祀られていた高さ1Mほどの鬼子母神像だが、はたして清土から出土したとされるものなのかは確かでない。しかし沢山の献花を見ると今でも続く信仰の深さには胸打たれる。その 信仰心が為せることか?今でも鬼子母神社の「鬼」文字には頂上の「ノ」の字を外して表示している。ここの鬼は女性なので角がないのだと云う。(JIS文字では表現不可)

本堂
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鬼子母神堂 2012.2.4 鉛筆・透明水彩

 天正6年(1578)の創建。現在の本殿は寛文4年(1664)に、前田利常の息女で安芸藩主浅野家に嫁した自昌院殿の寄進により建立されたもので、区内最古の建造物だそうだ。江戸時代前期より子授け、子育ての神様として庶民の信仰を集めてきたことは「江戸名所図会」で十分理解できることだ。

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武芳稲荷 (たけよしいなりじんじゃ)
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武芳稲荷 2012.2.4 鉛筆・透明水彩

 朱色の鳥居や幟旗立ち並び、トンネルのようになった参道はまさにこの地が神社だということを示している。しかし一つの疑問が湧いてきた。それは北側からの参道だということだ。通常の神社参道は南か東からのアプローチになるのだか・・・。
 傍らのみやげ小屋は何と「江戸名所図会」にも登場してくる「川口屋」で、今でも立派な現役店舗である。

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武芳稲荷と大銀杏
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手前の大銀杏と鳥居・幟旗 2012.2.4 鉛筆・透明水彩

 鬼子母神境内の大イチョウは、応永年間(1394-1428)に植えられたものと伝えられ、樹齢600年に及ぶ大樹は、子授けイチョウ、子育てイチョウとして親しまれてきた。

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男坂と女坂
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 2012.2.11 鉛筆・透明水彩

 左手の階段と右手の斜路が男坂・女坂と呼ばれているかは定かでない。鬼子母神堂への参道は東からだが、この階段・斜路は北側で、寂しいアプローチである。
 この境内(稲荷神社と鬼子母神堂)は弦巻川を挟んだ北側寺院(法明寺)の管轄である。すなわち本来は北向きが正面であったと云う説は成り立たないだろうか? 後に右手西奥に建てられた鬼子母神堂が江戸庶民の支持を受け、そちらへの参道がメインアプローチとなったのではないだろうか。そう考えればお稲荷さんの参道が北面だということにも納得できるが果たして真実は・・・。

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法明寺

山 門
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法明寺山門 2012.2.11 鉛筆・透明水彩

 日蓮宗、威光山。創建弘仁元年(810)、もとは真言宗のお寺だったが、正和元年(1312)、日蓮聖人の弟子日源上人により改宗、現在の寺号に改められたとのこと。

江戸名所図会を見ると、弦巻川のすぐそばに山門が建てられているのが覗える。古文書によると仁王門があったとのことなので現在の山門より、はるかに立派な八脚門だったのだろう。

江戸時代から桜の名所として知られ、現在も山門に続く参道の桜並木は、今も訪れる人の目を楽しませてくれる。

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御嶽山清立院

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御嶽山清立院の脇をカーブしながら登る坂道・御嶽坂(みたけざか) 2012.2.11 鉛筆・透明水彩

 高台にある清立院青竜寺への参拝は直登階段。赤い幟がそのルート。清立院は御嶽山と号し、御嶽神社を祀っていた。(御嶽坂の坂名の由来) 「江戸名所図会・清立院」に次のようにある。
「御嶽山清立院 護国寺の裏門より雑司ヶ谷鬼子母神へ行く道の、右側小坂に傍ひてあり。雑司ヶ谷本竜寺の持とす。(御嶽をまつる故にこの号あり。)・・・」

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雑司ヶ谷霊園

明治5年(1872)に神葬墓地として開設され、明治7年に共葬墓地となった都営霊園。 面積約10万m2の霊園内には、緑豊かな樹々や四季折々の草花が咲き、副都心池袋に隣接する区域とは思えないほど静かで落ち着いた佇まいを見せている。霊園西側には将軍家の鷹狩り用の鷹を飼育する御鷹部屋があったところで、今も緑の枝を広げる「御鷹部屋の松」があるそうだ。(未確認)  墓域内は著名人の墓が数多くあり、夏目漱石をはじめ、小泉八雲、泉鏡花、永井荷風、島村抱月等の日本文学史にその名を刻む作家たちや、漂流してアメリカに渡ったジョン万次郎、開明派の幕臣小栗上野介忠順、抒情画家竹久夢二、詩人サトウハチロー、自由学園を創設した羽仁もと子・吉一夫妻、言語学者金田一京助等そうそうたる面々がこの地に眠っている。

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雑司ヶ谷旧宣教師館

 明治時代に布教のため来日したアメリカ人宣教師ジョン・ムーディ・マッケーレブにより、明治40年(1907)に自宅兼布教活動の拠点として建てられた区内最古の木造洋風建築。 木造総二階建、本人の設計によるカーペンターズ・ゴシック様式、すなわち大工さんの創意工夫によるゴシック様式。屋根窓に半円アーチを施して下見板張りの外壁をもつこの建物は、19世紀後半のアメリカ郊外住宅(アメリカ版ヨーロッパ憧れの様式)を基調とした明治時代の我が国における外国人住宅の一つの典型だろう。 また、マッケーレブは、敷地内に雑司が谷教会を建てたほか、布教活動の一環として雑司ヶ谷学院や雑司ヶ谷幼稚園を開設し、青年たちへの英語教育や幼児教育活動を行ったが、太平洋戦争前夜の昭和16年、在日米大使館の勧告により帰国した。その後の建物管理は教会関係者と推測するが、はたして・・・。

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 2012.2.11 鉛筆・透明水彩

  昭和57年(1982)、保存を訴える住民運動に応え区が土地と共に買いあげ、保存修理工事後、一般公開されたのが現在の姿。平成4年(1992)に区指定文化財、同11年には東京都指定有形文化財に指定されている。

 じつは1980年代初頭にこの建物内部に入ったことを思い出す。当時はある音響機器メーカーの事務所として使われていて、外装も内部もそれは酷いものであった。それがここまで復元されたことは住民運動の賜物だろう。
 しかし日本のバブル期に企画され、修復した建築自体が展示物というような、住人のいない建物をミイラのように保存し、一番気になる周りの住宅地・環境と乖離しているのが寂しい。建物の評価はいかに利用されるか・価値が見出されるか、と云う一点だけで、幾ら内部に展示物で飾りたてても限度があり、やがてはまわりから見放されてしまう。そこでどうしても同区内の建物「自由学園」が講演・研修・演奏会・・・と市民に利用され、愛されている様と比較してしまう。管理のためにも建物博物館に展示することをお薦めしたい。

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雑司が谷の北の外れ

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 2011.9.18 鉛筆・透明水彩

 この辺は御鷹方の組屋敷があったあたり。当時の雑司ヶ谷村と巣鴨村の境界線は「首都高速道路5号線」というとてつもない太い境界線となっている。
 その境界線の下に連なる一筋は、人気のつけ麺屋さんに列ぶ人々であった。

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サンシャインシティ

御鷹方の組屋敷のすぐ先に当たるから、鷹狩りをしていた辺りなのだろうか。

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東池袋・サンシャインシティー大階段 2011.9.18 鉛筆・透明水彩

 サンシャインシティとは最上階(60階)を展望台としたオフィスビル・水族館・劇場・博物館・コンベンションセンター・ホテル・・・と、都市空間を形成する複合施設である。(1978年竣工)
低層部の商業施設を覆うようにこの大階段があるが、つづら折りのスロープと組み合わされて複雑な階段となっている。だから足下に注意せざるを得ないが、左手の植物で覆われた目隠しの裏側にも注目してほしい場所があるのだ。

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東池袋・中央公園にて 2011.9.18 鉛筆・透明水彩

 この公園をご存じの方はかなり歴史に詳しい人。いや、かなり年配の方だろう。かつての巣鴨プリズン、A級戦犯がここで処刑された場所である。そのイメージを払拭するかのようにその跡地に高層ビル群(サンシャインシティー)が建てられ、その一角を市民の憩いの場所として残しているのだ。 サンシャインシティーの大階段は見事に植物で隠されていて、ここからはうかがい知れない。

 今回の雑司ヶ谷調べで意外なことを知ったのが、この「巣鴨プリンズン」だった。この名称は大戦敗北からだが、それまでは「巣鴨刑務所」。しかし明治時代の測量図では「巣鴨監獄」という名称だった。 そしてこの地に なぜこんな広い監獄が用意されたのか・・・?

この日は町内の秋祭り 2011.9.18
刑務所の歴史を刻んだ石碑の後ろを御神輿が
通り過ぎていった。

 それは疑うことなく、この地が明治になっても東京の片田舎だったことを物語っている。当時の山手線は物資輸送のため都市部(新橋−上野間はまだ敷設されず)を避け、品川から赤羽まで敷設されたのだ。途中の主要駅(目白)の隣でひっそりと建つ小さな駅舎、そんな田舎駅の近くに設けられた「監獄」だったのだ。


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参考文献:豊島区立郷土資料館 : 豊島区地域地図(l992)
明和九年壬辰二月、武州豊嶋郡雑司が谷村名主勘右衛門提出控え絵図
東京府下高田町・戸塚町全図[大正14年(1925)(s=1/5,000)
公益財団法人としま未来文化財団「雑司ヶ谷案内処」
鬼子母神ホームページ

一万分の一測量図:[M42(1909)・T5(1916)・T10(1921)・S4(1929)・S12(1937)・S31(1956)]


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