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対比地家の門構え(現在の塀とかつての門との合成)

対比地(ついひぢ)家住宅


 この建物を最初に知ったのは2000年の頃、利根川中流域の左岸を散策していて夕暮れになり、近道探しに脇道に入り込んだことに始まる。住宅街の一画になぜか文化施設らしき建物群が突然現れ、普通町中で見かける文化施設とは大分違った雰囲気を持っていた。再訪を心に留めて通り過ぎたが、それが叶えられたのは4年後となってしまった。 その町とは群馬県南部の、日系外人が多く働いていると云うことでも有名な工業都市・邑楽郡大泉町で、施設の名前は大泉町「文化むら」、その中で見つけた「資料館・母屋」が今回取り上げる建物である。
 その日も夕方となってしまい、管理者が閉館の支度中だった。とりあえず正面からのスケッチだけを済ませ、さらにまたの再会を楽しみにあとにした。・・・そしてその後の再会は何と5年半も後、最初に紛れ込んでから10年も経過してしまっていた。

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大泉町は利根川中流域左岸に位置する内陸工業都市
(マークにマウスONで都市名が表示されます)

館林 足利 太田 大泉 伊勢崎 桐生 前橋 澁川 高崎 富岡 本庄 深谷 熊谷 八王子 横浜 東京

 ここ群馬県邑楽町大泉町は電気製品や自動車の工場がある工業都市として知られる町だが、戦前は中島飛行機の軍需都市として、更にその前は蚕糸業で有名な群馬県伊勢崎・前橋・桐生市、栃木県足利市を背景にした典型的な養蚕の村だった。

【群馬の蚕糸業について】
 安政6年(1859)の横浜開港直後から我が国の蚕種や生糸は世界商品としてもて囃された。明治政府は文明開化と共に「富国強兵」を支える輸出産業として「茶」と共に「蚕糸業」を大いに奨励し、明治3年(1870)には藩営製糸所を前橋に、明治5年には我が国初の蚕種会社「島村勧業会社」が伊勢崎に、同じ年に官営製糸工場が富岡に造られている。まさに開国を契機に我が国の蚕糸産業の夜明けがここ群馬で始まったと云っても良い。当時の輸出額の半分は生糸で、その1/3が群馬県産、最盛期には県内の養蚕農家は70%にもなるというから、蚕糸業の盛況さが想像される。

 江戸時代は本畑や本田を米作以外に転用することは禁止されていたので、養蚕は米のとれない畑作地域を中心に副産品として広く行われていた。蚕には常時気を配る必要があるので身近な住居の中で飼育する方法がとられていた。茅葺の断熱材タップリの屋根裏は、囲炉裏で暖を取る事で暖気で満たされ、蚕室とするのは合理的な事だった。
入母屋造りや兜造りの茅葺屋根(右図)がその代表的な建物の形で、屋根裏には必要最小限の換気口が設けてある。
 明治になってから養蚕飼育法の技術革新がなされた。それまでの「自然育・天然育」「温暖育」といった方法から「清涼育」「清温育」といった換気を重視する飼育法である。

 江戸時代は、農民階級が二階屋を作ることは許されないことだったが、明治になると二階建ての上階を蚕室にした建物が出現する。屋根頂部に設けた排気口と側面の床まで大きく開いた窓により効率的に給・排気と採光を採ることで蚕の飼育に重要な温度と換気を容易にした建物で、そのことにより高品質で大量の養蚕が可能となった。櫓(やぐら)造り(左図)がその代表的な建物の形で、排気筒だけのものから越屋根(総櫓)としたものまで多様である。
 利根川中流域右岸の本庄、左岸の伊勢崎という地域は利根川に注ぐ支流が沢山集まる場所で、川が頻繁に氾濫する場所でもあった。そのため耕作地としては不適格な場所だったが、桑の根は洪水にも耐え、しっかり根付くことから明治からは急激に桑の栽培が広がり、それと共に櫓造りの民家も広まっていった。 今回取り上げる民家はその代表的な民家のひとつである。

【余談】
利根川下流域で合流する「小貝川」も氾濫する川として有名だが、この名前は蚕飼い(こがい)から来ているそうで、桑と氾濫する川を結びつける話である。(桑の文化誌・郷土出版社)

「文化むら」の資料館

「文化むら」とは、音楽ホール、展示ホール、資料館という三ブロックで構成された総合文化センターで、その中で伝統をつたえる施設がこの「資料館」である。「文化むら」についてはこちらからどうぞ。

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「文化むら」資料館の全景 2010.01.6 鉛筆・透明水彩

 なんとも立派なお屋敷の佇まいであるが、この建物全体が「文化むら」資料館である。正面の門から入ると真っ正面に構える建物がこの地方の養蚕農家の建物を移築したもので、今回取り上げる建物、名付けて「母屋」といわれる民家である。その建物に合わせて右手には昔の生活を伝える民俗資料棟、左手は蔵と茶室棟が配置されている。 この母屋の説明板に「対比地晴太郎氏によって建てられ・・・・」とあったので、以降、対比地家住宅として進める。

対比地(ついひぢ)家住宅・母屋

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資料館内の「母屋」と呼ばれる民家と平面スケッチ 2004.07.31 鉛筆・透明水彩

 正面から見ると総二階建で屋根の棟には越屋根が付き、船竭「りの庇は大きく張り出して、堂々とした建物である。明治、大正期の利根川流域は養蚕が盛んで、その代表的な養蚕農家の姿である。
 平面は典型的な四間取りで、中に入ると大黒柱(欅・1尺1寸角)とかつては厩もあったという土間の中央に立つ恵比寿柱(欅・1尺角)がまず目に付く。土間から見て突き当たりの座敷・奥座敷の上部は二階部分はなく、化粧天上で仕上げてあるが、入口の説明板では「吊り天井」となっていた。本来の吊天井は切り落として下にいる者を圧殺するように仕掛けた天井のことをいうが、果たしてそうなっているのかは不明である。それよりも養蚕に使われたであろう二階からの落下物を避けるために頭上には部屋を設けなかったと推察する。蚕室を暖めるためには二階床は隙間の空いた板張りだっただろうから・・・。

構造断面スケッチ 中央の大黒柱に注目!

 二階の床は板張りと畳敷きの大広間となっているが、養蚕をやめてから間仕切をして南側に畳を敷いたものであろう。本来は板張りだけの大広間で、蚕棚(蚕架)がたくさん並べられたことなのだろう。それを裏付けるように屋根裏は全て小屋組が見える貴重な!構造表しである。

 ここで断面を見てみると、恵比寿、大黒の柱は屋根に到達するほど長い通し柱となっていることが分かる。このことにより小屋組や小屋梁と強固に、そして二階床梁を二段にすることと併せて横力に耐える架構を構成している。
 屋根庇の裏を見ると、一間ごとに天秤状の持ち送りの梁が配られ、庇から生じる反力を小屋組で押さえている。これほどに拘った技は小屋裏をすっきり見せるためにとった工法だろうか。
 架構を見ただけでも先人達の貴重な知恵が多く詰まった建物だが、現代の建築基準法では決して耐震的に有効な工法とは認めてない。そのためあちこちの壁にバツ印(×)がこれ見よがしに付いている(バツ印とは筋違いのこと)。施行してからたかだか60年程しか経ってない悪法が百年、千年と経てきた文化を破壊している!といったら言い過ぎだろうか。
 引く継ぐべき伝統技術を放棄して手の技を忘れてしまった現代人への貴重な贈り物であった。

対比地家住宅(大泉町文化村資料館・母屋)

 この母屋は、明治40年本町古氷の対比地晴太郎氏によって建てられ、養蚕が盛んだったこの地方の代表的な養蚕農家の造りで資料的にも大変価値のあるものとして、ほとんどそのままの姿で移築をしたものです。
 材木は、自宅の山林を始め地元のものを使用し、大黒柱と恵比寿柱は欅材で小屋組までとどいています。小屋組は三層としてその上に総櫓を組み、それを煙出し(窓)として利用したもので、この工法は明治初期にこの地方に伝わったものといわれています。
 屋根は、桟瓦葺きで大きな鬼瓦は土佐漆喰を使って影盛をつけ、壁は古法にのっとり、竹木舞下地の上に荒壁、砂壁、その上を漆喰で仕上げてあります。
 畳の間は四間(奥の間八畳二間、座敷十九畳二間)に仕切られ、奥の間(当主寝室)の天井は身を守るため吊り天井となっております。
 土間は、農家特有の広さをもち、へっつい、味噌部屋等が設けられ、かつては厩もありました。
 二階は養蚕部屋に使用していたもので、床は松板張りで広い空間になっています。どうぞ昔を偲び、鑑賞してください。

構造  木造瓦葺二階建
面積

一階 139.97平方メートル
二階 115.82平方メートル
計  355.79平方メートル(107.6坪)

平成元年3月26日

大泉町長 真下 正

(母屋入り口に掲げられた看板より)

移設前の佇まい とは(どうだったのだろうか)

 実はこの民家が建っていた場所に興味を持ち資料を探していたら、ひょんなことから知ることができた。当主の代は替わってらしたが、お会いすることが出来、移設当時の様子をうかがうことができた。

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移設された門と母屋を里帰りさせた(移設前の)想像図 2010.01.6 鉛筆・透明水彩

 その場所はこんもりとした雑木林を背景に屋根付き板塀が連なり、ここが目的地だと直ぐ理解できた。御当主の話では、かつての門は母屋の搬出路確保のため一緒に撤去され、資料館の脇門となっているという。(現在の門は幅を広げて新設されたものなのだ。)そして移設された母屋のほぼ同位置に現在の母屋が建てられているが、旧母屋の一階西側にはさらに部屋が二部屋と廊下が廻らされ、厠も用意されていたという。
 細かい話だが、資料館母屋の奥の間についている床の間の裏側が気になっていた。奥行が1尺5寸ほどで、その裏が中空になっている理由が分からないでいたが、西側に部屋があることを聞き疑問が解けた。

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屋敷の裏は昔から変わらない佇まい 2010.01.6 鉛筆・透明水彩

 母屋の裏に回ると、井戸や昔もあったと思わせる作業小屋が、母屋に連なるように幾つか配置されている。井戸の傍らには建物を護るように祠が祀られて、その背後は建築材も切り出されたであろう山林が、昔と変わらず優しく屋敷を見守っていた。

 この民家を通して日本の近代産業がなぜこの奥まった関東平野で興り、複雑にインフラが張り巡らされているのかということにまで思いを膨らませることが出来た。港横浜や東京へ運ぶ輸送路が「利根川」だけでなく「JR高崎線・八高線・両毛線」「東武伊勢崎線・桐生線」という鉄道交通網と巡らされたこと、そしてそれが現在の自動車交通へと変遷しているのだ。

最後に、このお屋敷は現在も住んでいらっしゃることなので場所は伏せておくが、氏名・対比地の表記は御当主の了解も得たことでもありタイトルを「対比地家住宅」とした。この名前は大化の改新以後に荘園がこの地に置かれた時代にまで遡るという話を当主からお聞きし、地元では直ぐ分かってしまうと危惧はするのだが・・・迷惑の掛からないようにして頂きたい。


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参考文献:
 「絹」II 伊藤智夫 著
 「絹の文化誌」 篠原昭・嶋崎昭典・白倫 編著
 


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