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名栗川から入間川に名称が変わる辺りは河岸段丘が見事である

林業と養蚕の町・飯能


 奥武蔵の急峻な山岳地帯を流れてきた「名栗川」は、ここ飯能から「入間川」と名前を変えて広々とした武蔵野台地に注ぐ。そんな地理条件が林業や養蚕で町を栄えさせてきた。
 江戸時代の江戸は人口急増と度重なる大火で木材の需要が高まった。ここ飯能からは名栗山地の木材を切り出し、筏を組んで川を下り、川越経由で材木問屋のある千住まで行き来したという。江戸では「江戸の西から来る材」ということから「西川材」と呼ばれ、当時の一大ブランド商品であった。
 また奈良時代には高句麗系渡来人が飯能周辺に集められ、高麗郡が置かれている。その時には多分絹織物も伝えられたかと思われるのだが、江戸時代末期には武州平絹として全国に知られる絹織物の産地となっていて、特に密着性の良い「飯能の裏絹」として、高く評価されていた。さらに明治になると銘仙の製造に更なる改良が加えられ「飯能大島紬」として県の伝統的手工芸品にも指定されている。

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名栗川が入間川となり 青梅からの石灰で有名な成木川も合流する
それを隔てていた山は、I期、II期、III期と開発進行中!
提供:Google map & UR都市機構

<案内リスト>

1.入間川

2.街中の建物
  絹甚
  中清米店
  銀河堂
  吉田や・大河原薬局

3.飯能河原

4.材木の里・大河原

5.下畑の民家

6.美杉台団地

  美杉台団地・調整池
  美杉台団地・見晴台から

7.天覧山頂上からの眺め

入間川をひとまたぎする飯能大橋 飯能河原は西川材の集積場であり武州一揆の集合場所でもあった 街中の建物 大河原の製材所・民家蔵 下畑の民家 美杉台団地の調整池と見晴台 天覧山頂上から名栗川を見渡す ビッグヒルズ

 後日改めて開発団地を歩いてみた。 市街からはうかがい知れない開発規模のものであった。 さっそく地図を起こしてみたのが上図である。 住宅・都市整備公団(現・UR都市機構)主体の開発のもので、HPによると以下の通り。

〔 I 〕が完成されている「飯能美杉台」(事業年度:昭和56〜平成10)
〔 II 〕が現在造成中の「飯能南台第二」(事業年度:平成8〜平成27)
〔 III 〕が造成着手中の「飯能大河原」(事業年度:平成4〜平成30)である。

入間川


 上流の名栗川はキャンプやハイキングで夏は賑わうところだが、その最寄り駅の一つが西武池袋線「飯能」駅である。そのすぐ南側を流れているのが「入間川」で、駅前から対岸へ一またぎする「飯能大橋」が架かっている。かつては山林であった対岸は住宅団地として開発され、都心への通勤に至極便利に計画されている。しかしこの川を含めた周囲の自然を完全に無視したコロニーのような計画のようでちょっと腹立たしい気分になる。その開発が更に山頂の方にも進められているようだ。

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上流から見た飯能大橋。下の橋は旧来の「矢久橋」 2008.10.25 鉛筆・透明水彩

 このあたりから狭い川幅が広がり、景色が一変するところである。ここに立つと左岸の最上段が市街の続く台地で、河原に連なる幾つかの段丘が狭い範囲にはっきりと読み取れる。 そして、ちょっとオーバーに云えば・・・地球の時間を感じることになる。(カンブリア紀からの年表はここで
 何しろ奥多摩〜奥秩父あたりはフォッサマグナの活動に続く第四紀に大きく隆起して山岳地帯が形成された。(その当時は太平洋は目の前にあったようだ) それがやがて土砂の流出や度々の隆起で出来上がった姿が関東平野であり、その扇状地の一つが武蔵野台地だ。奥多摩・奥秩父に石灰岩が産出するのはかつては海で覆われていたからで、当時の生物のカルシウムを掘り出しているということになる。(以下調べてみたものを纏めておく)

 段丘の断面を調べてみるとその生い立ちが推定できる。そこで重要なのが表土・ローム層(赤土)の下に堆積している礫層である。この礫層が平らであれば当時の地盤が平らであったことを示し、すなわち上流から流れてきた土砂の堆積で、河原だった証しである。そこで次の推論が成り立つ。

● 13-12万年前の頃(アジアにはまだホモサピエンスは現れていない)にはこの辺りまで海が上ってきた(下末吉海進)。その海が退く(海退)ことによって平らな部分が形成される。(下末吉面の礫層)

● 10-6万年前頃の隆起で低い部分の堆積土壌(下末吉ローム)は流されて、出来た河原がすぐ下の段丘になる。(武蔵野面の礫層)

● 更に4-2万年前頃の隆起で武蔵野ロームが流されて出来た河原が下の段丘となる。(立川面の礫層)

● 同じように1万年前頃(ようやく石器人が現れる)の隆起で立川ロームも流されて、現在の河原が堆積進行中である。(沖積層)

火山性の灰は13万年以前から降り注いでいて長い間にローム層となるが、武蔵野台地では厚いところで10mほどの深さにも成る。
東京湾は武蔵野台地の大量の表土が押し流されて堆積した大きな沼地だと見ることが出来る。
そして最近の海進(縄文海進/6000年前頃)と海退を経てほぼ現在の地形になっているが、この先のことは誰にも分からない。ただ地球の時間で云えることは、しばらくは隆起していくのではないだろうか?(そのしばらくの時間に人類がいるかどうか?日本沈没はナシ!)

 ここまで地球の歴史に拘ってみて、現在世の中を賑わせている温暖化問題に、ハテナ?と思わざるを得ない。奥秩父が隆起した第四紀に現在も我々はいるのだが、その間に度々の氷河期が来ている。そして現在は氷河期と次の氷河期の間(間氷期という・・・安部公房の「第四間氷期」という小説を思い出す)にあるわけで、確実に氷河期に向かっているのである。
人間の時間に囚わらず、地球の時間で俯瞰すれば温暖化=都市のヒートアイランド現象程度にしか見えないのだが・・・・。(温暖化問題は炭素取引の話が出てきてから私は信用しないことにしている)

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下流から見た飯能大橋 2007.9.15 鉛筆・透明水彩

 通常はこれほど水量があるわけではなく、たまたま台風の数日後に訪れた日だったので段丘(立川面)ギリギリまで水かさが増えている。そして濁った流れであった。しかし川縁に白っぽい河床がうかがえる。(図の中央) この部分は白い軽石状のザラッとした岩で、黒いキラキラ光る粒が混じっている。学問的には飯能礫層に挟まれた安山岩質火山灰の矢颪凝灰岩層というそうである。(参考サイト
黒いキラキラは角閃石や輝石が含まれたものだという。フォッサマグナ活動前後(6千万年〜1千万年前ぐらい?)の秩父の山から(当時はこの辺りは海で山地に接していた)流れ出してきた礫岩や火山灰がいろいろ変化して出来たかなり古い地層のようで、それが川の浸食が進みちょっと河床に姿を見せているということである。

入間川の歴史

古くは荒川は東寄りの現在の元荒川を流れ当時の利根川に合流しており、入間川は単独で下流の隅田川へと流れていた。江戸時代の1629年に荒川の付替えが行われ、熊谷市久下から現在の荒川合流点まで開削し、現在の流れが形作られた。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(抄)

 この項、ちょっと深くのめり込んでしまったが、じつは子供の頃この近くに住んでいたことがある。この川や山は私のよく遊んでいた原風景と云っても良い所で、断面図で云うところの下末吉面(最上段)で矢じりや貝殻を発見した記憶もある。「こんな高いところで!」という疑問は人生をかなり過ぎてしまった歳になっても心の隅っこに残っていて、その謎を少しでも明らかにしたいと常々考えていた。その思いが段丘の方に行ってしまったわけで、あきれて読まれた方には長々の記述をお許し願いたい。

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街中の建物


蔵造りの店(店蔵)が目につく町である。蔵造りというと「川越」がすぐ思い浮かぶが、この町の店蔵はあの観音開きの土戸の扉で厳重に防火対策された窓のものとは違って、いたって質素なものが多い。

絹甚
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 2008.10.04 鉛筆・透明水彩

 質素な店蔵の中で断トツに豪華な店蔵がこの建物である。黒漆喰で仕上げられた外壁と見事なうだつ(梲・卯立・卯建・宇立・・・多彩な文字が当てられている)で他の店蔵を圧倒している建物である。
 明治37年(1904)に建てられた絹の仲買問屋であったが、建物は市に寄贈され平成20年に修復が完了して公開されているものである。(土・日・祝日のみ) 間口は狭く(三間半)小さな建物ではあるが、大変凝った造りになっていて、施主はそのため財政難に陥ってしまったと聞く。内部を窺うと、表蔵とそれに続く主屋の間は銀行の金庫を思わせる観音開きの土戸(黒漆喰塗)や主屋の採光換気に最低限必要な中庭、それを挟んだ中蔵、と店蔵の生活は日常の生活を犠牲にしてでも防火に重点を置いていることが理解できる。必見は火災時になると表戸を覆ってしまう防火用の土戸(幅2尺・長さ6尺)で、見世の片隅に公開してあった。当時の防火シャッターで、一枚ごと担ぎ出して上下の溝に建て込むのだ。これは他所で見られるものではない貴重品である。

 2008年に「林業と養蚕の町・飯能」の中でも「絹甚」を取り上げているが、今回は中庭の奥にある中蔵を覗かせてもらった。

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絹甚の中蔵と表の店蔵 2014.11.5 鉛筆・透明水彩

 明治37年(1904)に建てられた、この絹仲買問屋の「店蔵」はとびっきりの贅沢さを誇っている。漆喰の最高級仕上はこの建物に見られる「黒漆喰」なのだ。 中庭を挟む奥の蔵は普通の白漆喰仕上げ・・・だったが、それを摸して現代の仕上げ材(乾式工法)で復元されていた。(間口2間、奥行3間)

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中清米店
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2008.10.04 鉛筆・透明水彩

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建物の隙間に鎮座する祠

 店の正面は新しい建物であるが、店蔵が元々の建物だったと思われる面影を残している。右側の店蔵は路地から入る付属の精米所である。裏には蔵や主屋が連なっていて、昔から続いたお宅と想像する。
駐車場と計画したわけでもなさそうだが・・・角地が不自然に空いている。その空き地に立って上を望むと、建物の隙間に小社が鎮座していた。この地域の歴史を感じさせる見事な仕掛けである。

 この「中清」は慶応2年(1866)に名栗・成木から蜂起された「武州一揆」で打ち毀された「名主米穀商の中屋清兵衛」と思われる。(参考文献:「青梅街道」山本和加子著)
幕末では、それまで従順であった小前百姓の不平不満が爆発、飯能河原に集結し、入間・所沢・田無へ、北には高萩・坂戸・松山・熊谷・吾野・毛呂・小川・名寄・秩父・藤岡・本庄・深谷、南には青梅・五日市・箱根ヶ崎・福生へと一週間ほどの期間で大規模に発展していった一揆である。

 この時代は安政5年(1858)の横浜開港で生糸や茶が輸出され生糸商による買い占め、価格は暴騰、困窮農民は高価な肥料を使わない桑畑で養蚕が行われる。そして慶応元年(1865)の長州征伐からの非常態勢で大名たちの兵糧米の買い占め、商人たちも米穀の買い占めにより物価が急騰した時代である。そのため糸屋と米屋が特に狙われたようだ。

武州一揆

 「慶応二年六月十三日朝、武州秩父郡上名栗村に、どこの者か顔に覚えのない者三、四人が、当村の百姓紋次郎、豊五郎宅へ立寄って、物価が上がり、人々が苦しんでいるので飯能(埼玉県飯能市)へ米穀値下げの要求に行く。・・・略・・・
彼ら上・下名栗村百八十人あまりは、徒党を組み「南無阿弥陀仏」と書いた大旗と「平均世直(よなおし)将軍」と太筆で書いた旗を先頭に、飯能を目指した。・・・略・・・
その夜のうち飯能河原に勢揃いした。そこは五〜六ア─ル (約百五十〜百八十坪)ほどの河原であるが、崖下のくぼ地になっていて、目と鼻の先にある飯能宿から見通しの利かない格好の場であった。
 夜の明けるのを待って米穀商酒商八左衛門宅に押しかけ、左記の事項を要求した。

一、今日より八月二十九日まで人助けのため
  玄米百文につき五合、挽割百文につき一升で売ること。
一、借金証文を返し、帳簿は焼き捨てること。

などを掛け合ったが、いっさい聞き入れないので打ち毀す。

次に名主で米穀商の堺屋又右衛門、同じく名主米穀商の中屋清兵衛、板屋半兵衛の三軒を打ち毀した。次に竹屋、金子屋、秩父屋を目指す。竹屋へ掛け合うと、要求通り困窮者へ施し(金銭)とにぎり飯、酒を多量に出したので打ち毀しせず、ここで飲み食いする。

(後略)

(引用:「青梅街道−江戸繁栄をささえた道− 」 山本和加子著 出版:聚海書林)

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銀河堂
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 2008.10.04 鉛筆・透明水彩

 以前の家業は反物屋で、明治中期の建物であるらしい。その店蔵を再利用した喫茶店である。2階の格子窓がなんとも質素で好もしい。それにしても通りまでの空地は何のためだろうか。飯能では定期的な市が開かれていたと聞くので、そのときに見世が並んだのであろうか。

隣の敷地が駐車場になっているので横から見ると、間口が狭く奥行の長い短冊形敷地なのがよく分かる。表の店蔵・主屋・中蔵・離れと建物が続いて裏通りとなる。

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吉田屋呉服店・大河原薬局
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 2008.10.04 鉛筆・透明水彩

 新旧好対照の店蔵で、完全に新築された店蔵風の店舗と、昔ながらの店蔵を改装?改修?工事中の店蔵が道を挟んで近くに建っていた。

この工事中の建物は「絹甚」とならぶ同じ通りの代表的な店蔵だそうである。江戸中期から薬舗「亀屋」として開業、以来続くというから相当のものである。最近は店も閉じてそのままの状態が続いているようだが、この工事が良い形で保存されることを期待してのスケッチである。

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うなぎ畑屋
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鰻料理・畑屋 2014.11.5 鉛筆・透明水彩

 以前から気に掛かっていた建物。今では珍しい木造三階で、ちょっと傾き加減なのが気に掛かるところ。当然使われている気配はなし。 表通りには面さず、河原側に建てられているということは、かつては山を背景にして川を見下ろす宴席場だったのだろうか?
 当然建設年代が気になるところ・・・ということで表の店にまわって訪ねてみたら、怪訝そうな顔。「それより表の方が古いんですよ・・・」明治35年(1902)をやたらに強調しておられたが、当方の気になるのは3階建ての方。こちらはにべもなく「大正です」。 当時は名栗の材木取引で賑わった町だから、近くの花街からお姉さん達も交えて賑やかだったのか?と想像する。

飯能河原


飯能河原の秋  2010.11.26 鉛筆・透明水彩

 この飯能河原は慶応2年(1866)の「武州一揆」で、名栗・成木から蜂起して、最初に結集した場所である。
それまで従順であった小百姓たちの不平不満が爆発、ここから入間・所沢・田無へ、北には高萩・坂戸・松山・熊谷・吾野・毛呂・小川・名寄・秩父・藤岡・本庄・深谷、南には青梅・五日市・箱根ヶ崎・福生へと一週間ほどの期間で大規模に発展していった一揆であった。

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材木の里・大河原


 街を通り過ぎると急に山も迫り名栗川沿いの道になる。対岸に渡ると西川材の里の一つ、大河原地区である。しばらくは名栗川に沿って山を巻いて道が続くが、街中と対照的な里山の景色である。

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大河原の民家と製材所 2008.10.25 鉛筆・透明水彩

 現在の材木事情は輸入材に取って代られて、国産材は厳しい状況にある。この辺りを歩いていてもヒシヒシと感じられる。ここまで国の意向で供給・流通が変えられてしまっては、消費者の意識で少しでも変わることを願わずにはいられない。
 この辺りの民家は道に沿ってポツンポツンと建っている。そしてどの建物も全国で見られる新建材の家である。しかし蔵だけには新建材もおよばないようだ。 街の店蔵と大きく違うのは一目瞭然。延焼のおそれがないから軒も充分に出ていて、屋根裏は塗り込めてはいない。それは当然のことだが、この種の蔵は内部を恒温に保つために壁の厚さだけでなく屋根にも配慮がある。屋根は二重で、上の置き屋根は強風で飛ばされないように金属棒で外壁に引留められているのがよくわかる。

 大河原の民家を描いていたら、「この先に茅葺民家がありますよ」とのアドバイス。勧められるままに山の反対側に行くことにした。しかしこれがかなりの距離で、途中の山頂にたどり着くと大きなゴミ焼却場。道路の反対側は造成工事のまっただ中。山頂はツンツルテンの禿げ山となっていた。 後で分かったことだが飯能大橋から一直線の住宅団地がここまで伸びていたのだ。こうまでして山を取り崩す意図はなんなのだろうか? そういえば造成地のすぐ下で、不思議なことに、埋もれるように立派なトンネルがあった。あれは造成前の旧道なのではなかったのか! そうだとするとこの埋め立てた深さは相当なものである。川が荒れなければいいのだが・・・・。

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下畑の民家


 峠を越え、しばらく行くと青梅から流れてくる成木川にたどり着く。青梅街道で江戸に運ばれたあの石灰の産地はこのすぐ上流ではないか! 川筋を眼前に北側の山を背にして穏やかな時間が流れているこの山里は、なぜか懐かしさを感じさせる。(これを桃源郷と云ったらいいすぎだろうか)

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下畑の民家 2008.10.25 鉛筆・透明水彩

 敷地全体が傾斜地であるから、畑を出来るだけ確保するためには等高線に沿って石垣が築かれて敷地を確保する。 結果的に主屋と付属棟が程よく軸線を振らせて配置されている。自然の地形が無理なく建てた配置の美しさである。(山の上の団地もこれを見習ってもらいたいものである)

 建物の詳細については「家」のサイトで取り上げています。興味のある方はそちらもどうぞ。

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美杉台団地


 この団地は「飯能ビッグヒルズ」という名称で、UR都市機構の事業で昭和56年(1981)に着工、3工区を順々に進め、完成は平成30年(2018)になるという大規模なものである。
 山をそっくり削って造成したわけだから街(駅)から入るとしてもかなり登っていくことになる。飯能大橋の先は切り通しとなり、坂道を登っていくと段々と街の姿が現れてくる。

美杉台の調整池

 市街の標高が概ね100m、造成した山は200mはあるだろうから、団地の標高は150〜180mの高台となる。登り詰めると団地の中核をなす商店街が現れ、その背後に広大な住宅街が東西に広がる。新開発団地でよく見られる不釣り合いなほどに広く整備された幹線道路と整然と植えられた街路樹、学校群・・・そして道を一つ裏に入ればお馴染みの住宅群だ。元々の地形を完全に平坦には出来ないので多少の傾斜で連なっていることが、特色のある景色となっている。

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右に調整池 遠くに加治丘陵  2009.1.31 鉛筆・透明水彩

 南端に沿って登ってきたら素晴らしい場所を発見した! これだけの規模を舗装で覆ってしまうわけだから大量の雨水が瞬時に流れ出す。その調整池が作られてあるのだ。 朝からフェンス越しに野鳥観察の人がカメラを向けていたが、鳥から見たら人間どもが「籠の鳥」に見えることだろう。
 遠く東の方を望むと加治丘陵が横たわっているのがよくわかる。その裏側が「狭山茶」で有名な狭山そして所沢へと続く。

 
めぐみの丘見晴台から

更に登っていくと、造成工事で削除しきれなかった山の部分を「見晴台」として残してあった。

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中央部は階段状のブールバール(歩行者専用)と残された山(標高約180m) その裏80m下は名栗川
左端は大河原につづく道と市のゴミ処分所で第3区は更に左画面外。  右画面外が団地の中心地
2008.1.31 鉛筆・透明水彩

 ここに登ってきて初めて全体が理解できた。まさに日本国中を狂わせていたバブル景気の時代(1985-1991)に第1区(1981-1998)が真っ只中にあり、その興奮の中で2区(1996-2016)、3区(1992-2018)へと開発が進められたのだ・・・と想像する。

ここで大ざっぱに住宅公団の変遷を見ると

1.1955年に住宅公団設立。当初は勤労者のために住宅及び宅地の供給をおこなってきた。

2.1981年に住宅・都市整備公団(住都公団)となり、集団住宅・宅地の大規模な供給や市街地開発事業に乗り出す。(この団地はこの時期初期のものということだ。)

3.1999年に都市基盤整備公団(都市公団)と名称を変え、住宅供給は中止して都市整備に軸足を変える。

4.2004年に現在の都市再生機構(UR都市機構)へと改組。都市市街地の整備改善、賃貸住宅供給支援に専念するように変わっていく。

 当時の地方自治体は確固たる都市計画も画いていない状態のところへ、住都公団は新たな大開発という使命感に燃えて開発を進めてしまった。そして世の中の劇的な変化に伴い、事業主体はコロコロと様変わりしてしまったが、発車してしまった計画は見直されることもなく進んでいると云うことなのだ。

「国破れて山河あり」とは昔から良く云う言葉だが、「泡舞って(アワマッテ・誤って?)山河亡くなる」とは言いたくないものだ。

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天覧山展望


 関東地方のサクラが一段落した頃、飯能に立ち寄る機会を得て市街から手軽に登れる天覧山にいった。標高なんと195mという低い山ではあるが、川に接した山のこと、見事な見晴らしである。

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飯能市街を眼下に対岸を望む  2009.4.20 鉛筆・透明水彩

 江戸から明治に変わるときは国中の大変革・大改革で、その一つに「飯能戦争」がある。上野の彰義隊が敗れ、その流れの振武軍が立てこもったと云われる能仁寺の裏山がこの山だが、その時には見張り台としても利用されたことだろう。
 明治になると山麓でおこなわれた帝国陸軍大演習を明治天皇がこの山頂から統監したそうである。それ以来この山は「天覧山」と呼ばれるようになった。
そんな見晴台から見ると、青梅丘陵から続く加治丘陵の裾野が西に見渡せ、その先には関東平野が見える(はずである)。対岸は美杉台団地だが、ここからは辛うじて山林の裏に隠れている。

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